若い風、古い骨
若いころは金も地位もなく、守るものもなく、その代わりに、身体ひとつで世界へ噛みついていけるような気がしていた。
夫であること、父であること、会社員であること。そうした守りの中で少しずつ何かを手放してきた。
そして、いま再び走りながら、遅すぎる手つきで、もう一度それを拾い直そうとしているのかもしれない。
峠の道は朝の光を受けて既に乾いている。
樹々の影が濃く路面へ落ち、右へ左へ折れ曲がるアスファルトを、白い陽射しが焼いている。
GS1200SS の油冷エンジンは低く太い鼓動を刻み、操作に素直に応える。折れ曲がる道を、淡々と、しかしどこか若い頃の呼吸を思い出すように走り続けた。
コーナーをいくつか越えたところで、後ろから甲高い排気音が近づいてきた。
振り返るまでもなく、最新のスーパースポーツだと分かった。研ぎ澄まされた刃物が空気を引き裂くような音だった。
次の短い直線で、あっさりと横へ並んでくる。フルカウルの尖った鼻先。電子制御の塊のような車体。ライダーは細身で、若い。
追い抜きざまに一瞬こちらを見た。黒いシールドの奥の表情は見えないが、通り過ぎる一瞬の気配が、自分の年輪を撫でていった。
古いね、と言われた気がした。
まだそんなもので走るのか、と。
あるいは、おっさんが何を取り戻すつもりだ、と。
勝手な思い込みにすぎない。
だがその一瞬、前を行く若者は、指先から失われていこうとする若さと、愚かさの象徴だった。
若者は次のコーナーへ深く切り込んで行く。
挑発というほど露骨ではない。
だが、気持ちの中でギアが入る感触があった。
勝てるわけがないことは最初から分かっていた。
二十年以上前のGS1200SSと、最新のスーパースポーツでは、車体も足回りもブレーキも何もかもが違う。相手は、軽い車体を活かして鋭くコーナーへ突っ込むと、電子制御をフルに使って一気に立ち上がっていく。
こちらは自分の身体と古い機械の対話だけで曲がっていくしかない。
ブレーキングで荷重を前へ送り、寝かし込む。ホイールスピンしないように、丁寧にスロットルを開ける。
太いトルクを活かして短い直線で加速する。GSは派手ではないが、実直に応えてくれる。
少し離されては、間を詰める。その繰り返しが、妙に楽しかった。
だが、性能差は大きかった。
切り返しのたびにこちらの車体は一拍遅れ、コーナーを一つクリアするたびに若者の背中は遠くなる。ブレーキを残して無理に向きを変え、寝かし込みを速め、立ち上がりで必要以上にスロットルを開ける。
ブレーキを遅らせ過ぎた。
思ったより速度が乗っていたのだろう。ラインが膨らむ。修正しようとしたがステップが地面に当たって倒し込むことが出来ない。車体の動きが一瞬ぎこちなくなる。
次の瞬間、フロントが滑った。
金属が削れる耳障りな音。肩口を打つ鈍い衝撃。視界の端で、空と樹々とアスファルトが乱暴に入れ替わる。身体がガードレールを越え、その先の斜面へ投げ出された。
乾いた草を引きちぎりながら、何度か転がった。背中、腰、肘、膝、どこがどこに当たっているのか分からない。身体が、ばらばらの部品になって斜面を落ちていくようだった。
やがて、どん、と何かに引っかかった。
胸の空気が一気に抜ける。
そこでようやく止まった。
しばらく何も見えなかった。
耳の奥で血の音だけが鳴っている。口の中に土の味がした。呼吸をしようとすると、胸の奥に鋭い痛みがある。
少しずつ視界が戻る。
斜面から斜めに突き出した木に身体が引っかかって止まったようだ。道路から五メートルほど落ちた場所だろうか。
下を見ればまだ急な崖が続いている。この木がなければ、もっと下まで転がっていたはずだった。
苦い笑いを浮かべる。
愚かだ、と思った。
この歳になって、意地になって、若い奴の背中を追いかけて、こんなところで死にかけている。
だが同時に、不思議な満足感があった。
こんなふうにむきになって命がけで走ってしまう若さが、自分の中にまだ残っていた。その事実に、痛みの底で妙に納得していた。
上から声がした。
「おい! 生きてるか!」
若者だった。
「そこまで行くから待ってろ! 落ちるんじゃねーぞ!」
草を掴み、枝を踏み、若者が斜面を降りてくる。
「掴まれますか」
敬語と乱暴な口調が混じる。
うなずき、差し出された手を掴んだ。引きずられるようにして斜面を登り始める。足場は悪く、胸も脇腹も痛んだ。
「大丈夫だ。自分で行ける」
「いや、無理でしょう」
「無理でも行く」
若者は舌打ちするように息を吐いたが、それ以上は何も言わずに手を離した。
斜面を登り切り、ガードレールの内側へ戻ると、倒れるように座り込んだ。
ヘルメットを外した若者が、顔をしかめて言った。
「おっさん、無理しすぎ」
一瞬、腹が立った。
だがすぐに、その通りだと思った。しかもこいつは、わざわざ引き返して助けに来てくれたのだ。
黙って肩をすくめた。
座ったまま煙草を取り出す。ライターで火をつけて、深く吸い込んだ瞬間、胸の内側で強い痛みが走る。肋骨が何本か折れたかもしれない。
痛みに顔をしかめると、若者が呆れたように笑った。
煙草の箱を差し出すと若者は少し迷ってから一本抜いた。火をつけてやる。
未成年かもしれないと思ったが、今さら構う気にはならなかった。
しばらく二人で黙ったまま煙を吐いた。
谷から上がってくる風が、汗と土の匂いをゆっくり乾かしていく。
「助かった」
そう言うと、若者は前を見たまま、
「ああ」
とだけ答えた。
幸い、バイクはガードレールに引っかかって崖下までは落ちていなかった。
だが起こそうとすると、肋骨の痛みで息が詰まる。若者が無言で反対側へ回り込み、車体を支えた。
二人でどうにか立たせる。
フロントカウルは歪んで削れ、左のサイドカウルは割れている。
車体は傷だらけだが、ガソリンタンクに穴は開いていない。オイル漏れもないようだ。まだ走れる。
若者は心配そうに車体とこっちの顔を見比べていた。
「病院、行ったほうがいいっすよ」
「そうだな」
「ほんとに分かってます?」
「分かってる」
その返事に若者は納得していない顔だったが、それ以上関わらせるつもりはなかった。
「もういい。お前は行け」
若者は少しのあいだ動かなかった。やがて、わずかに顎をしゃくってヘルメットを被る。
「死なないでくださいよ」
それだけ言うと、最新のスーパースポーツは甲高い音を残して山の向こうへ消えていった。
ひとりになると、峠の静けさが急に濃くなった。
歪んだ車体に跨がり、セルを回す。エンジンは何事もなかったように目を覚ました。
だが走り出してすぐ、挙動がおかしいことに気が付いた。フレームが歪んだのか、フロントフォークがねじれたのか、まっすぐ走らせるだけで神経を使う。
ブレーキングのたびに肋骨が痛み、路面の継ぎ目を越える衝撃でうめき声が漏れた。
それでも、走る。
生き残ったな、と思う。
安堵でも後悔でもなかった。体中の痛みも、荒い呼吸も、どこか懐かしかった。かつてはよく知っていたはずの感覚だ。ずっと昔に置き忘れた自分の一部が、転倒の衝撃で身体の奥から転がり出てきたようだった。
若い風に叩かれ、古い骨を軋ませながら、峠を下っていった。




