峠に吹く風
海沿いの町を離れ、山へ向かう道に入った。徐々に空気が変わるのを感じる。潮の匂いを含んだ湿った風は背後へ遠ざかり、代わりに樹々の香りを含んだ風が頬を撫ぜていく。
陽射しはまだ強いが、樹々の落とす影が濃くなり、世界はゆっくりと峠の静けさへと移っていく。
アスファルトは陽の光を受けて白く光り、路面の継ぎ目がタイヤを通じて手のひらに微細な震えを伝えてくる。山の斜面には、夏の強い陽射しを受けて色を濃くした広葉樹が並び、葉の裏側が風に揺れて銀色に光る。
谷から吹き上げる風は湿り気を含み、ヘルメットの隙間から入り込んで、束の間の涼しさを届ける。
峠道に入ると、世界は一気に狭くなる。右へ左へと折れ曲がる道が、視界の端を忙しなく流れていく。コーナーの入口でわずかに減速し、車体を倒し込む。ぐっと回り込んで、フロントが出口を向いた瞬間にスロットルを開けて一気に立ち上がる。リヤタイヤが路面を噛む感触が身体に伝わってくる。
速度が自然と上がる。オーバースピード気味にコーナーへ進入すると、ブレーキングでリアの荷重が抜けてタイヤがわずかにバタつく。GS1200SSの二本サスは、限界が来ると素直にそれを伝えてくる。腰を後ろへずらし、荷重をかける。サスペンションが沈み、車体が再びラインに戻る。
無理はしない。無理はしないが、バイクと戯れるようにして、山道を駆け上がる。
操作の一つ一つを心地よく感じて、自然とペースが上がっていく。
調子に乗って走っていると、道を間違えたのだろう、気が付けばアスファルトの黒が薄れ、灰色の砂利が混じり始めている。
一瞬迷ったが、引き返す気にはならず、そのまま進む。道は徐々に落ち葉の積もった土の道へと変わっていく。
土の道はところどころ湿っており、タイヤが小石を弾くたびに車体がわずかに振られる。むき出しのエキゾーストパイプやクランクケースが気になるが、飛び石や段差に注意しながら慎重に進む。
突然フロントが横へ流れ、リヤタイヤが泥を掻きまぜた。
車体が急激に横を向くと、200キロを超える車体の重さが一気に身体にかかり、転倒しかける。
なんとか踏ん張って転倒は免れたものの、リヤタイヤは泥を掻き上げるばかりで前へ進もうとしない。
周囲はすでに薄暗く、木々の影が地面に長く伸びていた。
調子に乗って未舗装路にまで入ってしまったことを後悔しつつ、どうするか考える。
山の夕暮れは早い。あまり迷っている時間はなさそうだった。
道の先を見ると、木々がわずかに開けている場所が見えた。
あそこまで行けば、もう少しマシな道に出られるかもしれない。そう考えてバイクから降り、押すことにした。
緩い上り坂。だが、重たい車体は容赦なく身体にのしかかる。クラッチをつないでもリアは空回りするばかりだ。泥がタイヤにまとわりつき、路面のグリップを失ったバイクは重さが倍になったように感じる。息は荒れ、背中は汗で濡れ、腕は痺れていた。ほんの数100メートルを進むのに、30分はかかっただろうか。
ようやく樹々の開けた場所へたどり着いた。
しかし、その先に道はなかった。小高い丘の上に、ぽつんと広場のような空間があるだけだった。夕陽は山の端に沈みかけ、最後の光が世界をかろうじて照らしている。空は赤から青味がかった紫へと変わり、樹々の影は濃い墨のように地面へ落ちていた。
暗闇の中、今来た道を下るのは無理だ。泥に足を取られ、バイクを転がすのが目に見えている。
別に時間に追われての旅ではない。明るくなってからゆっくり降りればよいと思うことにした。
柔らかい土の上でバイクが倒れないように、大きめの石を探して慎重にスタンドを立てた。
荷物の中からツェルトを取り出し、小さなテントを設営する。中にマットを敷くと、ブーツを履いたまま上半身だけ突っ込み、力尽きるように倒れ込んだ。
しばらくして身体を起こすと、ポケットから煙草を取り出す。
銘柄はキャメル。本当はゴロワーズが欲しかったが、もう手に入らないようだ。似たような煙草を探してキャメルを選んだ。
ゴロワーズのような発酵香が無いことに物足りなさはあるが、悪くはない。
外に出ると、陽は完全に落ちていた。
周囲は真っ暗だ。だが、空は驚くほど明かるかった。
山の上の広場は、街の灯りから遠く離れている。星が、まるで手を伸ばせば届きそうなほど近くに見えた。
草の上に寝転がり、空を見上げる。
踏みつぶされたばかりの草の匂いが、夜気に濃く混じっている。近くで小さな獣の足音がし、葉が風に揺れて微かなざわめきを立てていた。
寝転がったままキャメルに火をつける。煙を吸い込むと、肺の奥にじんとした熱が広がった。
煙が夜空に溶けていく。
見上げた空は、まるで星が地上へ降りてきているかのように近かった。
光の粒は濃い闇の中で鋭く瞬き、時折、視界の端で流れ星の淡い線が走る。
その光が草の上に薄く降り積り、山の上の広場が静かな銀砂をまとっていく。
胸の奥で、風がひとつ揺れた。
峠の上で吹く風は静かだ。野の獣のように闇の中に横たわっていると、孤独の中で、自分の輪郭がまた少し変わった気がした。
星空の下、煙草を吸いながら、ただ横たわっていた。
煙草がしみじみとうまい。
そして、風はまだ吹いている。




