風の凪む(なぐむ)夕暮れ
一日中、ただ走り続けていた。
朝の光が影を長く伸ばし、昼の陽射しが路面を白く焼き、午後の風が背中を押した。
胸の奥で吹き始めた風は、どこかで向きを変えようとしている気配を含んでいたが、まだその輪郭は分からない。ただ、身体の奥で何かが静かに膨らんでいくような感覚だけがあった。
社会的には何ひとつ不足のない人生のはずだ。
だが、その人生の内側で、長い時間をかけて積もった澱のようなものが、ここ数年、静かに重さを増していた。
夕方、海が近づくころ、風はふっと弱まった。
弱まったというより、長く吹き続けていた流れが、ふとした拍子に小さな淀みに落ちたように、静かになった。
その凪ぎは、嵐の前に訪れる一瞬の静けさにも似ていて、理由のない満足感を覚えた。
海辺の駐車場にバイクを止めたのは、意志というより、その凪ぎに身体が従った結果だった。
ヘルメットを外すと、潮の匂いが濃く漂ってきた。
夕陽は海面を赤く染め、波は静かに寄せては返す。
今はただ、夕陽の赤に染まる海を眺めている。
砂浜に降りると、ブーツの裏に細かい砂が入り込み、歩くたびにざくりと音を立てた。
波打ち際まで歩き、しばらく海を眺める。
胸の奥の風は、まだそこにある。
むしろ、凪いでいる間にも、どこかで力を蓄えているような気配があった。
ふと、ジャケットの内ポケットに違和感を覚えた。
取り出してみると、古びたゴロワーズのパッケージだった。青い紙箱はすっかり色褪せて、角が柔らかく丸まっている。
いったいいつから入っていたんだと苦笑いする。そもそもゴロワーズってまだ売っているのだろうか。
会社の健康診断で何度も注意され、妻にも口うるさく言われ、いつしか煙草を吸わなくなっていた。そのうち吸わないことが当たり前になり、吸いたいと思うことすら忘れていたのだ。
紙箱の中に入っていたライターで、煙草に火をつける。フィルターの無いゴロワーズはただでさえ濃厚だ。今は、長年放置されて劣化した葉が、強烈ないがらっぽい煙を吐き出す。一度思いっきりむせた後に、胸の奥までゆっくりと吸い込んだ。
まずい。正直にそう思う。
だが、体に悪そうなその煙の刺激がなんだか嬉しい。
煙を吐き出すと、夕陽の赤に溶けていった。
その瞬間、胸の奥で風がひとつ揺れた。
凪いでいた風が、再び吹き始めようとしている。そんな予感があった。
その夜は町外れの小さな民宿に泊まることにした。
古びた木造の建物で、玄関には「素泊まり歓迎」と手書きの札がぶら下がっている。
女将は気さくな人で、バイクで来たと言うと「朝市の手伝いでもしていったら?」と笑った。
翌朝、まだ薄暗い時間に港へ向かった。
漁師たちはすでに働いていて、網を広げる音や氷を砕く音が港に響いていた。
昨日の朝、走り抜けた港町の入口で聞いた音と同じだ。
別に、女将の言葉に従うつもりもなかったのだが、何となく手伝い始めてしまった。手伝いと言っても、荷物を運んだり、魚を並べたりする程度だ。
漁師と思しき日焼けした男たちが話しかけてくる。その言葉は飾り気がなく、潮風のように荒っぽく、しかし妙に温度があった。
「おう、あんた。どこからきたんだ?」
「バイクか。いいじゃねえか。昔は俺も乗っててよ、嫁に怒鳴られて手放したけどな」
「家んの連中、心配してんじゃねえのか? こんなとこまで来てよ」
荒っぽいが、敵意はない。ただ、海で生きてきた男たちの飾らない距離感を感じさせる。
その言葉に、胸が少し痛んだ。
宿に戻る途中、海を見た。
風は弱く、波は穏やかだった。
数日滞在するうちに、町の人々の生活のリズムが身体に染み込んでいった。
朝の港の匂い、昼の海風、夜の静けさ。
それらは心地よかったが、同時にそれはほんの一時の、借り物の心地よさに過ぎないことも分かっていた。
ある夕方、港の防波堤に座って海を眺めていると、胸の奥の風がはっきりと吹いた。
凪いでいた時間が終わったことを感じた。
ただ、風の向く方へ進めばいい。
翌朝、宿を出るとき、女将が「またおいで」と言った。その言葉に深く頭を下げ、バイクに跨がる。
エンジンをかけると、胸の奥で風がひとつ強く吹いた。もう凪いではいない。
海沿いの道へ出ると、朝の光が再び影を長く伸ばした。
アクセルを捻ると、風が背中を押した。
町を後にする。
自分はなぜこんなことをしているのか。
理由はない。
理由はある。
どちらも同じ重さだ。
ただ、進むことだけが、今の答えだった。




