風が形を持ち始める
ガレージの扉を開けると、むっとした空気が肌にまとわりついた。
昨日、屋上で名刺を手放したときに胸の奥で吹いた風、その名残が、ここでも静かに揺れている気がした。
ガレージの奥、薄暗い影の中に黒い塊が眠っている。
何年も乗っていないバイク。スズキ GS1200SS 初期型の黒だ。
結婚し、子どもが生まれ、昇進し、背負うものが増えるたびに、少しずつ乗る回数は減っていった。
ここ数年は、たまにエンジンをかけてやるだけ。それでも、手放す気にはならなかった。
ゆっくりと近づき、埃の積もったカバーに手をかける。指先に触れたざらつきが、時間の経過をそのまま伝えてくる。
丁寧に、カバーの下に入った埃がこすれて車体に傷がつかないように、そっとカバーをはがすと、黒い車体が姿を現した。
バッテリーに充電器をつなぐ。充電を待つ間、ガレージの壁にもたれて目を閉じた。
バッテリーを取り付け直し、キーを差し込む。
まだエンジンはかけない。
家族に気づかれないように、そっとバイクを押してガレージを出る。
タイヤがコンクリートを転がる音とチェーンの回る音だけが、静かな住宅街に響いた。
朝の光が射し始めるにはまだ2時間くらいはあるだろう。
家の窓は閉じたままで、誰も彼の背中を見ていない。
路地まで押し出すと、一度だけ家の方を振り返った。
胸の奥で、風が強く吹いた。
キーをONにし、セルスターターのボタンを押す。一瞬置いて、黒い油冷エンジンが低く唸り声を放つ。
気持ちが変わらないことを確認して、ゆっくりと跨がる。
深く息を吸うと肺の奥まで熱い空気が入り込む。
風はもう、ただの気配ではなかった。
彼の背中を押す、確かな力になっていた。




