風の境界線
胸の奥で生まれた風は、外気に触れるたびに音を増し、色を帯び、やがて自らの存在を主張し始める。
屋上で名刺を手放した瞬間に生じた空白は、ただの一瞬の解放ではない。
微かなざわめきが次第に輪郭を得て、やがて嵐へと成長していく過程を描く。
翌日、昼休みにふらりと会社の屋上へ向かった。
特に理由はない。ただ、胸の奥に昨夜から残っている風の名残が、どうしても外気に触れたがっていた。
屋上の扉を押し開けると、真夏の陽射しが一気に視界を満たした。コンクリートの床は白く光り、遠くのビル群が熱で揺れている。
フェンスに近づき、街を見下ろす。この街で二十年以上働き、家族を養い、役割を果たしてきた。そのすべてが、今は妙に現実味を欠いている。
薄い膜を隔てて周りを見ているような疎外感を感じるとともに、一瞬、胸の奥のざわめきを明確に感じた。
ポケットから名刺入れを取り出す。使い込まれた革のケースは、手の油が染みていい具合のあめ色になっている。
名刺を一枚抜き取り、光に透かす。
肩書き、会社名、部署名。自分の人生の大部分を占めてきた文字列。
その名刺が、急に自分のものではないような、絵空事のように見えた。
胸の奥で、風がひとつ強くなる。
さっきよりもはっきりした風。
その風は、背中を押すでも引くでもなく、ただ輪郭を揺らしていく。
指を離した。
名刺はひらりと舞い、フェンスの向こうへ落ちていく。
胸の奥の風が、深く息をする。
まだ形を持たない風だ。
だが確かに、昨日までの自分とは違う場所に立っている。
名刺が見えなくなると、ゆっくりと深呼吸をした。
肺の奥まで熱い空気が入り込む。
何かがほどけ始めている。まだ誰にも気づかれないほど静かに、しかしはっきりと分かっていた。
風は確かに、吹き始めている。




