↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
ライク・ア・ハリケーン  作者: ままま


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
1/9

微風の始まり

社会の中で役割を果たし、家族を守り、組織の歯車として誠実に働いてきた男が、ある夏の日、ふと自分の内側に吹き始めた小さな風に気づく。その風は嵐ではない。だが確かに、何かが生まれようとしている気配を孕んでいる。

人生の折り返し地点を過ぎたとき、人は何を思い、何を手放し、何を選び取るのか。

銀行の自動ドアが開いた瞬間、真夏のような熱気が顔をたたく。7月もまだ初旬だというのに、今年もつらい夏になりそうだ。陽光が皮膚の上に薄い膜を張り、その膜をじりじりと焼き縮めてくる。

子どもの頃の夏はもっと優しかった気がする。真昼のドカンと照らす太陽も、プール帰りの背中を照らす太陽もこんなに狂暴ではなかったはずだ。


会社へ戻る道すがら、陽光は容赦なく肩に降り積もった。光の重さが、長年まとってきた役割の重さと同じ形をしているように思えた。

会社での責任のあるポジション、社会的信用、妻や子供たち、もちろん嫌いな訳ではない。全て自分が長年に渡って実直に積み上げてきた結果であり、自負もある。

ただ、背広の内側に小さな石がひとつ入っているような、そんな違和感とも言えない違和感。いつの間にかそれが澱のように降り積もっていることを感じる。


若い頃は、こんな陽射しを浴びると、むしろ身体の奥がざわついたものだった。何かを始めたくなるような、走り出したくなるような、そんなざわめき。

だが今は違う。陽射しはただ重く背中を押し、歩幅を奪う。


会社のビルが近づくにつれ、足取りは自然とゆっくりになった。

ビルのドアが開くと、冷気が肌を刺した。真夏の日差しとエアコンの冷気の境界線の上で、しばらく立ち止まった。


ふと、どこかで読んだ一節が頭をよぎった。

「冷蔵庫の隅のレタスのように、腐ることもままならず萎びていくのは我慢ならない。」

若い頃は、意味が分からなかった。というか未来の明るさに目が眩んで気が付くこともなかったのだろう。

だが今は、その言葉を絞り出した男の気持ちが痛いほどに分かる気がする。


萎びていく——

その言葉が、最近の自分の輪郭と重なるような気がした。朝の鏡に映る顔の影、階段を上るときの呼吸の乱れ、部下の若さを眩しく感じる瞬間。


机に向かい書類を整えながら、胸の奥で何かがゆっくりと形を変えていくのを感じていた。

責任感が薄れたわけではない。家族への思いが揺らいだわけでもない。

ただ、長年まとってきた、常識とか正しさという名の衣が、夏の熱気で少しずつ縮んでいくような感覚があった。


定時をだいぶ過ぎて退勤したが、外の空気は昼間の暑さを孕んでじっとりとまとわりついた。

いつもの店に飲みに寄る気にもならず、そのまま帰宅の列車乗った。窓に映る自分の顔は陰影が強調されて、影を帯びて見える。10年後、15年後の年老いた自分を見たようで思わず目を逸らせてしまう。



列車が動き出すと、胸の奥で小さな風が吹くのを感じた。

それは嵐ではない。ただ、遠いところで風が生まれた気配だけが、静かにそこにあった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。