第79話:バックグラウンドの過負荷(隠された焦燥)と、賢者のメンタリング
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第67層『瘴気の森』の未踏領域を見事に突破した『三律の連環』は、ミクの指示により、一度迷宮都市へと完全帰還を果たした。
彼らが冒険者ギルドの受付に提出した「第65層から第67層の最新マッピングデータ」と「環境デバフの仕様報告」は、ギルド中を騒然とさせた。
誰も正確な情報を持ち帰れなかった深層のブラックボックスを、これほど精密かつ低消耗で踏破した記録は、前代未聞の成果だったからだ。
「ガハハッ! ギルドマスターの奴、アタシらの報告書を見て目ン玉飛び出させてたね!」
「おうよ! これでまた美味い酒が飲めるってもんだ!」
報告を終えた夜。
ギルド併設の酒場では、深層の過酷なスプリントを乗り越えたヴァレリア、ガストン、ガルド、ルカの四人が、安堵と共に盛大にジョッキを傾けていた。
「ミク! ほら、アンタも飲みな! 今日のMVPは、間違いなくアンタの完璧なルーティングだ!」
ヴァレリアが、ミクの前に並々とエールが注がれたジョッキをドンッと置く。
「ええ、ありがとう。……みんな、本当にお疲れ様。今日はしっかり休んでね」
ミクはジョッキを受け取り、嬉しそうに微笑んでエールに口をつけた。
前衛と後衛が談笑し、最高のコンディションで休息を満喫している。PMとして、これ以上ない理想的なプロジェクトの進行状況だ。
――だが、ただ一人。
酒場の喧騒から一歩引いた席で果実酒を舐めていたユリウスの冷徹な眼差し(センサー)だけは、ミクの表情に潜む『微細なノイズ』を見逃さなかった。
仲間たちに向けるミクの笑顔。
それは完璧に取り繕われていたが、グラスを持つ指先は微かに白く強張り、時折、酒場の入り口(迷宮のある方向)へと思わず視線が泳いでいる。
(……表面上のステータスは正常。だが、バックグラウンドで処理の重いタスクが常時起動し続けているな)
かつてのユリウスであれば、「体力と魔力の数値は回復しているのだから問題ない」と一蹴し、気にも留めなかっただろう。だが、数々のエラーと仲間の痛みを経てアップデートされた彼の『人間観察能力』は、ミクの心が限界に近い悲鳴を上げていることを正確に読み取っていた。
ユリウスは静かに席を立ち、ミクの背後へと歩み寄った。
「ミク。少し、次の階層の環境変数について確認したいことがある。……外の風に当たらないか?」
「えっ? あ、ええ。分かったわ」
ユリウスの自然な誘い(割り込み処理)に、ミクは小さく頷き、酒場の裏口へと繋がるバルコニーへと出た。
夜の冷たい風が、酒と熱気に火照った頬を撫でる。
バルコニーには二人の他に誰もいない。扉の向こうからは、仲間たちの楽しげな笑い声が微かに響いてくるだけだ。
「……で、確認したいことって?」
ミクが手すりに寄りかかり、PMとしての理知的な顔を作って尋ねる。
「いや。次の階層の話など、今ここではどうでもいい」
ユリウスは杖を壁に立てかけ、ミクの隣に並んだ。
「君の『隠しプロセス(本当の心境)』を聞き出しに来ただけだ、ミク」
「え……?」
ユリウスの唐突な言葉に、ミクが目を丸くする。
「誤魔化さなくていい。昼間、君は『焦らず、何度でも撤退して着実に進む』と言い、自ら休息を指示した。それはシステム管理(PM)として百点の判断だ」
ユリウスは夜空の月を見上げながら、静かに続ける。
「だが……君自身は、ちっとも休息できていないだろう。本当は、一秒でも早くアリアの救出に向かいたいと、焦燥感でプロセッサが焼き切れそうになっているはずだ」
「……ッ」
図星を突かれたミクの顔から、完璧だったPMの仮面(UI)がボロボロと剥がれ落ちた。
ミクは両手で顔を覆い、震えるような深呼吸を繰り返した。
「……バレてたのね。PM失格だわ」
ミクの声は、今にも泣き出しそうに震えていた。
「怖いのよ。私たちがこうして安全な街でご飯を食べて、休んでいる間にも……アリアが冷たい深層の奥底で、一人で泣いているかもしれない。酷い目に遭わされているかもしれない」
覆った指の隙間から、堪えきれなくなった涙(オーバーフローした感情)がこぼれ落ちる。
「頭では分かってるの。焦って未踏領域に突っ込めば、またガルドの時みたいに誰かが犠牲になる。確実に準備をして進むのが正解だって。……でも、心が言うことを聞かないの。夜、ベッドに入っても、アリアの顔が浮かんで……まともに眠れた日なんて、一日もないわ……」
強気で理知的なリーダーが、夜の闇に隠して独りきりで抱え込み続けていた、血の滲むような過負荷。
「……そうか。よく話してくれた」
ユリウスは、己の感情を吐き出し、震えるミクの背中を、不器用ながらも優しくポンポンと叩いた。
「感情(人間)のバグは、論理だけでは決して修正できない。君が無理に抑え込んでいたその焦燥は、こうして言語化して外部に出力するだけで、いくらか領域が軽くなるはずだ」
「ユリウス……」
「君は立派だ、ミク。自らの感情の暴走を理性で押さえ込み、パーティーの安全な運用を第一に考えてくれている。君がストッパーでいてくれるからこそ、私たちは迷宮の理不尽に呑まれず、生きてここまで来られたんだ」
かつて「無駄だ」と切り捨てていた人間の感情(未定義の変数)を、ユリウスは今、誰よりも尊いものとして肯定し、受け止めていた。
「もう少しだけ、耐えてくれ。君の論理的な進行管理の元であれば、我々は必ず、無傷でアリアの元へ辿り着いてみせる。……一人で抱えきれなくなった時は、いつでも私がログ(愚痴)を聞こう」
ユリウスの穏やかで、しかし確信に満ちた言葉。
それに耳を傾けているうちに、ミクの中で限界まで張り詰めていたエラーのアラートが、少しずつ静かな波長(正常値)へと戻っていくのを感じた。
「……ふふっ。何よ、それ。昔のユリウスだったら『PMのメンタル不調はプロジェクトの致命傷だ、直ちに改善しろ』って、冷たく切り捨ててたはずなのに」
ミクが涙を拭いながら、少しだけ悪態をつくように笑う。
「ふん。私とて、これだけのインシデントを乗り越えてきたんだ。基本仕様(人間性)くらいアップデートされていなければ割に合わんからな」
ユリウスもまた、皮肉っぽく、しかし温かい笑みを返した。
夜風に吹かれながら、胸に溜まっていた重いヘドロ(ジャンクデータ)をすべて吐き出したミク。
論理と感情、その両方を分かち合い、互いのバグを補い合える真の理解者を得たことで、彼女の心はようやく、アリアを失って以来初めての『深い休息』へと入ることができそうだった。
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