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145 『大内軍の敗北』と『錦の御旗と名号旗』

1548年3月


まだ薄暗い夜明け。

大友義鎮は正重の命に従い、陣払いを始めた。


大内軍の最前列にいた大友軍は、まず東にいる楠予軍の目前まで進み、そこで南へ折れ、さらに西へと進路を変えて筑後へ戻るという、大きな弧を描く奇妙な行軍を取った。


その異様な動きは、すぐに大内軍の物見の目に留まった。


本陣に弘中隆兼が駆け込む。


「御屋形様、大変にござる! 大友軍が楠予軍へ向かっております! 功を焦っての抜け駆けと存じます!」


陶隆房が床几から跳ね起きた。


「なにぃっ!? あ奴は戦の作法も知らぬのか!」


義隆は眉を寄せ、静かに呟く。


「……義鎮」


さらに物見が駆け入る。


「申し上げます! 大友軍、楠予軍の目前で迂回を開始! 両軍とも戦う様子はござりませぬ!」


その瞬間、義隆の脳裏に月山富田城の悪夢がよみがえった。


吉川興経らが“攻めるふり”をして尼子へ入城した、あの時の裏切りの光景が頭を過り、義隆の顔色が蒼白になってゆく。


それは隆房も同じであった。


「御屋形様! 大友は寝返ったのでござる!」


大内晴英が震える声で言う。


「寝返り⋯⋯兄上が……どうして……」


内藤興盛が狼狽する。


「陶殿、こ、これは……どうすれば」


隆房が怒声を上げた。


「大友が寝返ったとて、我らには4万5千の兵が残っておる! 御屋形様、某が全軍を率いて大友と楠予を討ち取って参りまする!」


「う、うむ……頼んだぞ隆房」


だがその時、杉興運が慌ただしく駆け込んだ。


「御屋形様! 龍造寺、有馬など九州勢が退却を始めました!」


隆房が刀を抜く。


「おのれ……! 裏切り者どもめ、さては皆で通じておったか! 皆まとめて叩き斬ってくれるわ!」


内藤興盛が手で制する。


「陶殿、落ち着かれよ! これでは戦になりませぬ! まずは御屋形様の身の安全を、確保するのが先でござる!」


さらに近習が駆け込む。


「申し上げます! 尼子勢が陣を捨て、一斉に逃げております!」


義隆がすがるような目で陶を見る。


「隆房……いかが致せばよい」


隆房は歯を噛み締めた。


「……ここは⋯⋯ここは毛利隆元に殿しんがりを命じ、御屋形様はご退却下され!

隆元の姉は楠予家に嫁いでおりまする。隆元と言えども、いつ裏切ってもおかしくはありませぬ!」


「……あい分かった」


こうして大内軍5万は、戦わずして総崩れとなった。



ーー

毛利隆元は殿を命じられ、安芸の国人衆とともに、わずか2千の軍で楠予勢に追われながら山中まで逃げ落ちていた。


楠予軍は隆元たちと睨み合いをしても矢も射掛けず、攻めても来なかった。常に一定の距離を保ちながら、追って来ていたのだ。


隆元たちには楠予軍が攻撃して来ない理由は分かっていた。


元就が楠予側に付き、姉の幸が楠予家に嫁いでいるため、楠予勢が手を抜いていると隆元たちは知っていた。


道中で古びた寺を見つけた隆元たちは、寺に立ち寄り、暫し休息する事にした。


安芸の国人衆、天野隆重が口を開く。


「隆元殿、楠予軍はこのまま我らを見逃すつもりでしょうか?」


「……分かりませぬ」


桂元澄が進み出る。


「殿、楠予家は甘うござる。尼子経久ならば問答無用で踏み潰しに来るでしよう。されど、このまま大内領に戻っては危険と存ずる」


隆元が怪訝な顔をする。


「元澄、どういう意味じゃ?」

「楠予軍の攻撃を受けずに、周防まで戻れば大内から内応していたとの疑いが掛けられるやも知れませぬ。ゆえに――」


粟屋元親が元澄の言葉を遮る。


「――殿。

桂殿の言われる通りでござる。

それに元就様は『大内家が負けた時は降れ』とおっしゃいました。

ここはご命令に従い、楠予家に降るべきと存じます」


桂も頷く。

「さよう、隆元様は大内への義理を十分に果たされ申した。十分でござる」


隆元は唸る。


「……皆は、天下の大内がこれで終わったと本気で思うのか? 再び勢いを盛り返す事はないと?」


桂元澄が眉を寄せる。


「分かりませぬ。……されど楠予軍5万がこのまま周防の大内館まで侵攻し、大内家を滅ぼしても不思議ではござらぬ。今の大内に反撃するだけの軍を集められるとは思いませぬ」


粟屋元親が賛同する。


「此度の大内の負けようを聞けば、誰も直ぐには大内家に駆けつけませぬ。周防の大内館は戦うための城ではありません。楠予に攻められれば落ちたも同然でござる」


「……」


天野隆重が口を開く。


「隆元殿、桂殿の言われる通り、ここで大内に帰っても碌な事にはなり申さぬ。

周防に留め置かれ、楠予軍と戦わされるだけにござる」


隆元は決断した。


「皆の心が楠予に傾いておるならば、大殿の命に従い、楠予家に降伏致そう⋯⋯」


桂元澄が元気づけるように言う。


「隆元様は幸様の弟君。

楠予家が手荒な扱いをする事は、ござりますまい」



ーーー

夜。

隆元たちは楠予軍の本陣へと案内され、正重と対面した。


「隆元殿。お初にお目にかかる、楠予正重にござる」

「毛利家当主。毛利隆元にござる」


正重は嬉しそうに笑う。


「元就殿も立派なお世継ぎをお持ちで何より。もし倅の息子の又衛兵が生きておれば、隆元殿との対面を手を取って喜んだでござろう」


隆元は頭を下げる。


「義兄上とは一度、郡山城でお会いした事がございます。義兄上が亡くなられた事、まことに残念に思います」


「又衛兵と面識がござったか……。そうじゃ、まずは床几に腰をお掛け下され」


隆元と桂、天野、粟屋の四人が顔を見合わせた。


藤田孫次郎が声を掛ける。


「御屋形様は一応は捕虜として扱うが、遠慮はご無用と仰せです。どうぞお座り下さい。元就殿からの依頼があれば、直ぐに郡山城にお返し致します」


桂元澄が眉を寄せる。


「それは大殿が頼まねば返して貰えぬと言うことでござるか?」


孫次郎は当然のように言う。


「そんな方苦しく考える必要はありません。隆元殿は止むなく楠予に降られた。変に楠予と通じていたと噂されては、隆元殿も迷惑と存じますが?」


桂元澄が一歩前に出る。


「それでは隆元様の立場を考えての言葉であると仰せか?」


隆元が元澄の肩を掴む。


「止めよ元澄。楠予殿の仰せはご尤もじゃ。我らは捕虜、それでよい」



孫次郎たちの狙いは、隆元と元就に“貸し”を作る事だった。


隆元の立場など、孫次郎には知った事ではない。


『毛利は戦って敗れた』その事実を二人に認めさせた上で、釈放すれば、それだけで大きな貸しになる。


だが楠予家と壬生次郎は身内に甘い。


そのため孫次郎は、この貸しが無駄に終わる可能性も考慮している。


壬生次郎には、突出した勢力を嫌う癖がある。毛利元就が、大内から離れた安芸の国人衆を取り込み一大勢力となれば、次郎は容赦なく対応するだろう。その時にこの貸しは、大きな力になると考えていた。


また孫次郎自身も、次郎に敵対されないよう表立って功を立てる事を避け、裏方に回るよう心掛けている。


そのお陰か、最近は次郎の態度も、“危険な男”から“信頼できる同僚”へと変わりつつあった。



ーーーーー

四日後。

伊予・川之江城を三万の軍勢で包囲する三好長慶の陣に、大内家が大敗したとの急報が飛び込んだ。


松永久秀が軍机を拳で叩いた。


「何たる醜態か! 五万の官軍が戦わずして潰走とは……大内はもはや武家の面目すら保てぬわ!」


岩成友通は眉間に皺を寄せ、低く言う。


「官軍が敗れたとなれば、京の公家衆は慌てふためきましょう。責を御屋形様に押し付け、三好を朝敵扱いするやもしれませぬ」


松永久秀が首を振る。


「三好を朝敵にしても、楠予家は既に新帝を立てた。さすがに三好に敵対することは無いと存ずる」


篠原長房が長慶へ視線を向けた。


「御屋形様、いかが取り計らわれまする」


長慶はしばし沈黙し、腕を組んだまま天幕の外を見やった。


「……大内が崩れた以上、京は揺れる。ここで川之江を攻め続けても得るものは少ない。まずは都を鎮め、朝廷と民心を抑えるが先よ」


そして静かに立ち上がる。


「全軍、撤収の支度をせよ。京へ戻る。混乱を鎮めねばならぬ」


「「ははっ」」



ーーーーー

大内家の敗走後、

正重は自ら4万の軍勢を率いて豊前に侵攻し、残り1万は西の筑後に向かわせた。


豊前の諸城は、楠予家の4万の大軍を前に次々と城門を開いた。


だが、城井氏や宇佐八幡などの寺社勢力は所領安堵を一切行わぬ楠予家に反発し、徹底抗戦の道を選んだ。



筑後に送った1万の軍は、降伏した大友家から領地を接収していった。


正重は大友家も島津家と同じく、多くの国人衆が領地を奪われる事を嫌い、離反すると読んでいた。


そのため増援として、肥後の大野虎道に書状を送り、5千の兵を率いて北上し、筑後に入るよう命じた。


だが――結果は正重の読み通りにはならなかった。


多くの国人衆は大友義鎮に従い、領地を差し出し、楠予家から給料を貰う道を選んだのだ。


豪族たちは五万の大内家が敗れた今、楠予の大軍に逆らうのは無駄だと判断した。

ただその裏では、大友義鎮が楠予家に逆らう事がいかに愚かで、従う事がどれだけ得なのかを真摯に説いた事が大きい。


――大友義鎮には分かっていた。


筑後30万石を丸ごと献上した場合と、離反されて7万石前後の直轄地だけを献上した場合とでは、その後の扱いが天と地ほど変わると。



ーーーー

二ヶ月後。

大内家。


冷泉隆豊が広間に集まった重臣たち告げる。


「先日、楠予軍が豊前で力攻めを行い残っていた城は全て陥落、豊前は楠予家の手に落ち申した」


相良武任が項垂れる。


「ならば瀬戸内から北九州に掛けての海は楠予家の手に落ちたと言う事ではないか……」


楠予軍は中国地方にも上陸し、下関の周辺を押さえていた。


陶隆房が、唸る。


「寺社までも力攻めにするとは、楠予家は鬼じゃ……」


冷泉隆豊が首を振る。


「寺社勢力は降伏したそうにござる」


「はあっ! 降伏じゃと、坊主どもめ! 最後まで戦って死ねばよいものを!」


隆豊は苦しそうな表情で言う。


「楠予軍には……二つの旗が掲げられているそうでござる」


「二つの旗?」


隆房は何の事か分からず首を傾げた。


隆豊は頷き、続ける。

「さよう。一つは錦の御旗」


隆房が激昂し、立ち上がる。


「なに、錦の御旗じゃと! おのれ逆賊どもめ! 偽帝を立てただけでなく、錦の御旗まで利用するとは許せん!」


隆豊は静かに言う。


「もう一つは真律宗が新たに作った名号旗とのこと。

旗に刻まれた文字は……本来無敵、同心協力、現世成浄土」


※本来無敵

→ 敵など本来いない。我々は敵ではない。

※同心協力

→ 一緒に協力しよう。

※現世成浄土

→ 今の世を良くするために。


内藤興盛が力なく呟く。


「本来無敵……。

本来は敵などいない、共に協力して良い世を作ろうと誘っているのか……」


隆豊は頷く。

「戦っている相手を、敵ではなくともによい世の中を作る仲間だと申しています……」


隆房は拳を握る。


「ふざけるのも大概にせい! 敵は敵であろう! 何が仲間じゃ!」


隆豊が首を振る。


「籠城していた下々の者は、その旗の下で、温かい粥を振る舞われ、涙を流して真律宗に帰依しておるとの事。

あなどってはなりませぬ」


隆房はさらに激昂する。


「楠予正重には人の心が無いのか! 自ら帝や、宗派を作り、人を誑かすなど、人間のやる事ではないわ!」


隆房たちは本能的に危機感を感じた。


錦の御旗と、

名号旗『本来無敵、同心協力、現世成浄土』


武士たちは偽帝の御旗だと怒鳴りながらも、心のどこかでは錦の御旗に対して剣を振う事を恐れていた。


そして名号旗に刻まれた文字は、窮地に立たされた雑兵の心を動かし、最後まで戦う意欲を間違いなく奪う。


戦国の価値観では異端の発想だが、強力な思想戦だった。


• 錦の御旗 →

上(権威・朝廷・名門)に効果的


• 名号旗 →

下(民衆・雑兵・寺社)に効果的


この2つの旗を掲げた楠予軍は、もはや脅威としか言いようがなかった。


相良武任が頷く。

「正重はまさしく、第六天魔王の生まれ変わりでござる」


興盛が眉を寄せる。

「なれど魔王の言葉は、民や雑兵の心を動かしてござる」



義隆が遠くを見つめる用な目で呟く。


「余は……楠予に降っても良いと思う」


隆房たちが驚愕の声を上げた。


「「御屋形様!」」


「余が求める文雅の世、争いのない平穏を正重がくれると言うならば……、余は正重に降っても良い」


隆房が目を釣り合げる。


「御屋形様! 天下を取るのは大内! 楠予ではありせぬ!」


大内晴英が頷く。


「陶殿の申される通りにござる! 錦の御旗ならば、三好家を通じて貰えば良いだけの事。名号旗ならば本願寺に頼めばようござる!」


義隆が睨む。


「晴英……黙れ。

大内家の当主は余である。錦の御旗を得た所で楠予家に勝てると、本気で思うておるのか」


晴英が怯む。

「っ、されど……」


隆房が一歩踏み出し、義隆を射抜くような眼光で見た。


「御屋形様! それがしは降伏など認めませぬぞ。

もし……どうしてもと言われるならば、家督を晴英殿にお譲りし、御屋形様お一人で正重の陣に赴かれるがよい!」


興盛が絶句し、目を見開く。


「……す、陶殿! 御屋形様に無礼ですぞ!」


「逆賊に降るは逆賊のする事! わしは御屋形様を逆賊にしとうはないのじゃ!」


義隆は立ち上がり、静かに言う。


「隆房、聞かなかった事に致す。下がれ……」


隆房は目を細め、暫し義隆と睨み合ったあと、頭を下げて退出した。


大内家には、大きな暗雲が立ち込めていた。

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