136 福建海商・林一家の飛躍
1547年6月
福建海商連合
「行首」林 世昌
楠予家の中国における貿易権を独占する林一家は、急速に勢力を拡大していた。
3年前までは海商連合の中でも、下位の下位にすぎなかった林一家は、今や上位の一家に迫る勢いだった。
林世昌は小行首から行首に昇格し、船も船員も大幅に増えた。
現在の林一家
• 大型ジャンク:0隻→3隻
• 中型:1隻→10隻
• 小型:5隻→41隻
• 船員総数:180人→2200人
林家が急拡大した要因は三つ。
①楠予家の中国市場における独占取引契約。
②嘉靖帝の交易許可
③婚戚となった海商連合の長、李総頭の後押し。
林世昌が港で出航準備中の大型ジャンク船を眺めていると、長男の林忠と、次男の林子武、さらに義兄弟の張文徳が近づいて来た。
「兄者が忠と子武を連れて、伊予に行くと聞いたが本当か?」
林世昌は真剣な顔で頷く。
「ああ、本当だ。楠予家は今や林一家には無くてはならない存在だ。友好を深め、壬生殿に息子を紹介しようと思う」
張文徳が2人の子供の方を向いて微笑む。
「忠、子武。俺も壬生殿には何度か会ったが、ごくごく普通の人だ。だが決して、我らの恩人だと言う事を忘れてはならぬぞ」
子武はまだ10歳の子供で、理由が分からず首を傾げる。
「どう言う事ですか?」
兄の忠が子武の肩に手を置き、説明する。
「子武、我らが楠予家から鏡を購入してるは知っているな?」
「もちろんです兄上!」
忠は頷き、続ける。
「その楠予家からは大鏡を年に12枚、仕入れている。1枚5000貫文と言う大金でだ」
子武が目を丸くする。
「1枚5000貫文……すげえ!」
忠が胸を張って続ける。
「我らと次郎殿は相談し、大鏡は年に12枚までしか明国では売らない事にした。何故だか分かるか、子武?」
子武が首を振る。
「分からない……一杯売った方が儲かるのに何で?」
今度は忠が首を横に振る。
「逆だ。たくさん売れば売るほど、我らは滅びる」
子武がぽかんと口を開ける。
「えっ……なんでだよ兄上……?」
張文徳が忠に代わりに説明する。
「子武。あの大鏡は“宝物”だ。
皇帝が霊鏡と呼び、王や功臣、大商人たちが奪い合うほどの代物だ。
もし二十枚も三十枚も明に流れれば、どうなると思う?」
子武はしばらく考え、笑う。
「……大儲けする!」
忠が笑いながらも、真剣な目で弟を見る。
「子武、違うぞ。
王や功臣、大商人たちは大鏡を“権威の証”として欲するんだ。
もし十分な数の大鏡が世に溢れれば、価値が激減する。
特に皇帝陛下が『大鏡は珍しくもない』と思えば、我らの価値も一瞬で消える」
子武が眉をひそめる。
「……皇帝陛下が、そんな事で?」
林世昌が苦笑する。
「子武。皇帝陛下は“霊鏡”と呼んでおられるのだ。
大鏡が珍しいからこそ価値がある。
もしどの家臣の家にも大鏡があれば、陛下はこう思われるだろう。
『林家は年に1枚しか献上できぬ筈の大鏡を、大量に売っている』とな。
忠が頷く。
「そうなれば、林家は終わりだ。
皇帝陛下の不興を買えば我らなど一瞬で消える」
子武が息を呑む。
「……そんなに危ねえのか……」
「だからこそ、十二枚なのだ。それに少ない方が希少価値が出る。大鏡は2万~4万貫文で売れるが1万を切れば扱うのは危険だ」
「危険?」
忠がため息をつく。
「我らは12枚の大鏡を年に2回に分けて伊予から仕入れる。それは12枚の大鏡を乗せた船が沈んでしまったら、一度に仕入れ値の6万貫文が海の藻屑になるからだ。分かるか子武?」
「あっ、それなら分かるよ!」
忠が林世昌の顔を見る。
世昌は頷き、子武に言う。
「だが去年の秋、不測の事態が起きた。急な暴風雨により運んでいた6枚のうち、2枚が完全に割れ、残りの四枚も、欠けやひびが入って無傷のものは一つもなかった」
子武が息を呑む。
「えっ……全部、駄目になったの!!
父上、それじゃあ大損じゃないですか!」
張文徳が苦い顔をする。
「本来ならな。
そこで俺が急きょ伊予まで行き事情を説明して、新しい大鏡を至急作って欲しいと頼んだ。
だが――俺たちの話を聞いた壬生殿は、運送に失敗した大鏡は原価である“1枚500貫文で補填する”と言ってくださったのだ。欠けたものや、ひびの入った大鏡を持ってくれば、新しい大鏡と交換すると。しかもこれからもずっとだぞ」
子武の目がさらに丸くなる。
「……そんなの、普通あり得ねえよ……!」
※大鏡(2メートル)の本当の原価は人件費と材料を含めても200貫文ほどである。
兄の忠が静かに頷く。
「だからこそ、壬生殿は我らの“恩人”なのだ。
今回、父上が伊予に向かうのは、ただの商いではない。お礼も兼ねて挨拶に行くのだ」
林世昌がゆっくりと息を吐き、二人の息子を見つめる。
「忠、子武。
楠予家との縁は、林家の命運そのものだ。この旅で、それをよく心に刻むように」
子武が眉を寄せて、納得がいかないと言う顔をする。
「でもさ、それって売った客が何年かして壊したら、その壊れた鏡を安値で仕入れて、壬生さんに新しいのと交換して貰えば、また売れるって事じゃないの?」
林世昌が途端に怖い顔をする。
その場の空気が一瞬で凍りついた。
世昌が低い声で言う。
「……子武。それを“やる者”は、海商ではない。ただの死に急ぎだ」
子武がびくりと肩を震わせる。
「え……?」
張文徳が続ける。
「考えてみろ。壬生殿は“運送中の事故”だからこそ補填してくださったのだ。
客が何年も使った鏡を壊したもので交換すれば……それは“詐欺”だ」
忠が弟を見つめる。
「そして詐欺は、楠予家を裏切る行為だ。
そんな事をすれば――」
林世昌が言葉を継ぐ。
「林家は壬生殿の信用を失い、
二度と鏡を扱えなくなる。それだけでは済まぬ。海商連合の信用も失い、上位五家に“潰される”」
子武が青ざめる。
「そ……そんな……」
林世昌はさらに厳しい声で言う。
「子武。海の商いは“信用”がすべてだ。信用を失えば、金も船も人も、一夜で消える。壬生殿の補填は信頼の証であって、決して悪用してはならぬ命綱だ」
張文徳が言葉を続ける。
「俺と兄者は割れた大鏡を見て気づいた。錫膜の奥に、細い線で“刻まれた文字”があったんだ。
普段は保護塗料と木枠で完全に隠れているから、割れでもしなければ絶対に見えん場所だ。
しかも……一部はアラビア数字だった」
子武が目を丸くする。
「アラビア……数字……?」
張文徳が頷く。
「おそらく、あれで“いつ作った鏡か”が分かる仕組みだ。
壬生殿は、運送中の破損か、後の破損か、番号を見れば一目で分かるようにしておられる。だからこそ、割れたり欠けたりした鏡を返せと言われたのだ」
忠すらも息を呑む。
「……つまり、壬生殿は最初から“悪用される可能性”を読んでいた!」
林世昌が重々しく頷く。
「そうだ。壬生殿は隠し事が苦手で、感情は読みやすい。
それは一見すればただのバカに見える。だが――」
張文徳が言葉を継ぐ。
「どんな手を持っているか、全く見えんお方だ。あの方を騙そうなどと考えるのは、海に身を投げるのと同じだ」
大人たちの脅しに子武は完全に青ざめ、震える声で言う。
「……分かったよ……壬生さんにそんな事、絶対にしねえ……」
林世昌がほほ笑み、ようやく表情を緩める。
「それにな先日、総頭が教えてくれたのだが、上位五家の筆頭の鄭氏が楠予家と接触した。そして壬生殿に林家よりも高く商品を買い取ると申し出たそうだ」
頭の切れる林忠は、総頭がそれを知っていたのは、鄭氏に密偵を忍び込ませており、そこから得た情報なのだと察した。
子武が催促する。
「それで、どうなったの? やっぱりあっちにも売る事になったの!」
「……壬生殿は、鄭氏の申し出を断ったそうだ」
子武が驚く。
「断った……なんで?」
世昌は頷く。
「理由はただ一つ。『林家と約した以上、他家とは取引せぬ』そう言ったらしい」
張文徳が頷き、笑った。
「……壬生殿は、金では動かぬという事だ。裏で隠れて売ればいいと思うような子武とは違うな」
「うっ……」
世昌は深く頷いた。
「分かったか子武? だからこそ、楠予家は我らの命綱なのだ」
子武はにこりと笑った。
「うん! 決して裏切らない良い人って事だよね!」
「違う……」
「え? ちがうの?」
世昌は忠を見た。
「忠は分かるか?」
忠は暫く考え。
「……連合の分裂が迫っている!?」
世昌と文徳は満足気に頷いた。
「そうだ。林家には総頭・李家の保護がある。その林家で最も重要な取引相手に手を出した。これは総頭に対して上位五家の不満が溜まっている証拠。そして独立する意思を固めたと言うことだ。分裂後は熾烈な競争が始まる。その時に楠予家が五家に乗り換えれば我らは負ける」
子武は青ざめる。
「……分裂」
張文徳が頷き、低い声で続ける。
「……総頭派の力が強くなりすぎた。
しかし五家の力も同じように大きくなっている。
この三十年で福建海商連合は、昔の“寄り合い所帯”から、巨大な海上国家のような規模に育った。
船の数は三倍、船員は四倍、扱う銀は十倍だ。
もう“総頭の庇護がなければ生きていけない”ような弱小集団ではない。
五家は――自分たちの足で立てると考えたのだろう」
林世昌は、海を見つめたまま静かに言葉を継いだ。
「恐らくは総頭派、上位二家派(鄭氏・陳氏)、そして上位三家派(黄・蔡・許)の三つに割れる。場合によってはそれ以上だ。
これは避けられぬ流れだ。
三十年前の海商連合は、官の目を逃れるために寄り集まった弱小の集団だった――だが今は違う。五家はもはや“連合の傘”がなくとも生きていけると確信するほどに強くなった」
張文徳が頷く。
「五家は、総頭の庇護を“恩”ではなく“枷”と見始めた。
特に鄭氏と陳氏は、かつて総頭の座を奪う気でいた。
黄・蔡・許の三家は、どちらにつくかで揺れていたが……いずれにせよ、林家の急成長が火種になったのは間違いない」
子武が息を呑む。
「……つまり、兄さんが総頭の孫の李瑶光・姉さんと結婚して、完全に総頭派になった事。そして大鏡の技術を持つ楠予家と結んだ事で、海商連合全体の勢力図が変わってしまった?」
世昌はゆっくりと頷いた。
順風満帆だった林家にも嵐の気配が訪れていた。




