109 『一条房基』
すみません、110 を間違って先に投稿してしまいました。予約で割り込み投稿(間に入れる)できないので手動です。
1543年8月下旬
土佐一条家・中村御所
一条房基は困っていた。
楠予家が西園寺と宇都宮を降し、伊予統一を果たした。楠予はそこで止まらず、休む間もなく一条家の領土―― 土佐の最も西――に攻め込んで来たのである。 そして一条家の居城・中村御所の目と鼻の先にある栗本城を落とした。
そこまではまだ房基の想定の範囲だった。
だが問題はその後だ。
楠予軍は一条家の兵の大半が立て籠もる中村御所を包囲しなかった。まるで中村御所など存在しないかのように無視したのだ。そしてあろう事か、楠予軍はそのまま栗本城に住み着いてしまった。
楠予軍の様子を伺うため中村御所から物見の兵を出すと、どこからともなく数十の楠予兵が現れ、物見は殺された。ゆえにこの軍を追い払おうと五百の兵を繰り出せば、すぐに栗本城から、楠予の大軍が駆け付け甚大な被害が出た。
やむなく一条房基は夜陰に紛れ、物見を出した。
数日後、命からがら戻った兵士の報告に房基は驚愕する。
なんと楠予軍は、兵の多い中村御所や攻略の難しい砦を無視して、既に一条家領内の支配を開始したと言うのだ。しかも楠予家は『一条家が滅亡するまで楠予家は税を取らぬ。ただし一条家が年貢の徴収に来た場合はすぐに報せよ。追い払う』と村々に指示していると言うのだ。
その報せに房基や重臣は『それでは年貢が取れぬでは無いか……』と焦り、対策を考える。
だが対策を思いつく前に楠予軍からの攻撃があった。それは力攻めでは無く『矢文』による調略である――数日前、楠予軍は城兵の降伏を誘う矢文を大量に御所に撃ち込んだのだ。
家老の土居宗珊が広間で房基に頭を下げる。
「雑兵どもの逃亡が後を絶ちませぬ。これも全て楠予家が、雑兵たちを高待遇で雇うと矢文を打ち込んだせいにございまする」
一条房基は嘆く。
「そのような文言に惑わされるとは……。まこと、下々の兵の心根は計りかねるものよ」
「恐れながら、楠予家の高待遇は真にございまする。西園寺家に仕えていた雑兵どもが、年に三貫文・米一石・塩五升で召し抱えられたのは有名な話でございますゆえ」
「何ゆえ、そのような事が成り立つのじゃ……!」
土居宗珊が目を伏せて応える。
「……雑兵どもは、誇りよりも食う事を選びまする。ゆえに簡単に流れまする」
房基は扇を握りしめたまま、静かに言い返した。
「そうではない……。いかにして、そのような厚遇をもって敵兵を召し抱える事が叶うのか、と問うておるのじゃ」
宗珊は一拍置き、言葉を選ぶように続けた。
「某が思うに……やはり第一は楠予家が交易で儲けて、裕福だからにございましょう。次に楠予は重臣や家臣に与える褒美が少なく、所領はほとんど与えられないと聞きます」
――土居の言うことは一見もっともらしいが、楠予家の重臣への褒美は決して少なくない。むしろ多い。
特に譜代重臣四人が受け取っている金銭を米の売却で賄うとすれば、十万石ほどの所領が必要になる額であった。
「褒美が少ない? それでは謀反にもなろうぞ。なにゆえそれほどの扱いを受けながら、楠予の家臣どもは裏切らぬのじゃ」
宗珊は首を振る。
「それは分かりませぬ。所領が少なく、謀反するための兵が集められぬのやも知れませぬ」
「それはおかしい。重臣と家臣の兵を合わせれば主家の兵を遥かに上回るであろう」
「……上回らぬのやも知れませぬ。楠予家は敵国の身分の高い者の所領安堵は一切いたさず、所領のほとんど、場合によっては全てを奪うと聞きます。恐らく重臣や家臣に一切褒美を出さず、得たもの全てを、雑兵を雇う費用に使い、厚遇を実現しておるのではないでしょうか?」
房基は思わず扇を握りしめた。
その白い指が震えている。
「所領を根こそぎ奪うとな……。武家の習いとして、降る者には所領を残すのが常であろう。それを奪うとは……。楠予家は、いったい何をもって国を治めるつもりなのだ……」
宗珊は静かに答える。
「殿。楠予家は“領主”を必要といたしませぬ。領地のほとんどを直轄地とし、治安も年貢も軍役も、すべて楠予家が取り仕切るとか。
ゆえに旧領主の所領を残す理由がないのです。厚遇で雑兵どもを取り込まれては、残るのは数の少ない支配層の者たちのみ、これでは旧領主は反乱すら起こせませぬ」
房基は天井を仰ぎ見る。
「雑兵どもに忠義は無いのか……」
「…むしろ雑兵は、今の高待遇を失うのを恐れて、命がけで旧主に刃を向けるでしょう…」
房基は唇を噛んだ。
「っ……せめて晴持さえ生きておればのう。さすれば大内家からの援軍があったものを。あれが尼子に討たれたゆえ、大内との縁も細った……。まこと、世の無常とはかくも残酷なものか……」
一条房基の異母弟・晴持は、大内義隆の姉を母に持つ子であった。
ゆえに大内義隆の養子に迎えられ、大内家の後継者と定められていた。
宗珊は静かに首を振る。
「殿。大内家は月山富田の敗北にて、国中が揺れ動いておりまする。尼子勢が迫り、山口は混乱。晴持様が生きておられても土佐に兵を回す余裕はございませぬ」
房基の顔が歪む。
「……では、わしは……誰を頼ればよいのだ……」
房基の問いに、広間の空気が重く沈んだ。
誰もすぐには口を開けない。
その沈黙を破ったのは、もう一人の家老・吉良左馬助だった。
「……殿。頼る先は、もはやございませぬ」
房基の目から、希望が消えた。
「吉良……そなたまで、そう申すのか」
左馬助は深く頭を下げた。
「土佐の本山も長宗我部も、皆、楠予家の動きを知っておりまする。ですがいずれも、殿に味方する気はございませぬ。我らは御所から兵を出せば討たれ、出さねば領民はこのまま楠予家に取り込まれまする。もはやここまでかと…」
房基の喉が震えた。
「……わしは……」
名門一条家を滅ぼす事の、罪の重さが房基の肩にどっと圧し掛かった。
土居宗珊が頭を下げる。
「殿、今ならばまだ一条家の命脈を保てまする! 西園寺家は5千石と松葉城を残されました。それは早期に降伏したからと聞きます。長引けば楠予家は一条家を完全に滅ぼしまする!」
房基は呆然と呟く。
「……たった5千石……」
それは嘆きというより、名門の当主としての自尊心が砕け散る音に近かった。
「……一条の名が……わしの代で……五千石にまで落ちるというのか……」
扇を握る手が、また震えた。その震えはもはや怒りではなく、己の無力を悟った者の震えであった。
土居宗珊が、さらに深く頭を下げる。
「殿……五千石でも、家は残りまする。しかし抗えば……一条家は、跡形もなく消えましょう。楠予家は、降る者の命は取りませぬが、抵抗する者には容赦いたしませぬ」
吉良左馬助が覚悟を決め、勢いよく頭を下げた。
「御屋形様! 御屋形様が戦うと仰せならば、この吉良、最後の一兵となるまでお供致しまする! どうかご英断を!」
土居が吉良の肩を掴み、怒気を含んだ声で押し返す。
「何を申すか! 二千いた兵が、この数日で五百にまで減ったのだぞ! 雑兵の逃亡は止まらぬ! これ以上戦えば、残るは我らと数十の兵だけよ!」
吉良は土居の手を振り払った。
「ええい、放せ! お主は逃げたければ逃げよ! その分、兵糧が浮くわ! 武士の意地を見せねば、一条家の名誉は守れぬじゃ!」
土居は歯を食いしばり、声を低くした。
「名誉で一条家の命脈が守れるか! 楠予家は今までの敵とは違うじゃ、我らを無視しておるのじゃぞ! 勝手に領内の統治を始め、我らが動くまで楠予は無視する! これでは城に籠ったのではなく、城に押し込められたようなものじゃ!」
房基は扇を膝に置いた。
その動きは、まるで力が抜け落ちたかのようであった。
「……もうよい、止めよ……
身内で争うて何になる……」
房基はゆっくりと顔を上げた。
その瞳には、名門の当主としての光はもうなかった。
「……我らの負けじゃ。
楠予家に……降伏を申し入れよ」
ーーーー
2週間後の9月中旬。
一条房基は池田の里にて正重に謁見し、臣下の礼を取った。
これにより名門・土佐一条家は大名としては滅びた。だが五千石の楠予家家臣としてその命脈を辛うじて保った。
房基が臣下の礼を取った頃、大保木佐介は中村御所からさらに東へと軍を進めていた。
元一条領からの出立に先立ち、大保木は軍部より二千の増援を受けた。
兵力を七千に増やした佐介は、千を中村御所の治安維持に残し、残る六千を率いて一条家の東に隣接する、津野家へと攻め入ったのである。
楠予家の侵攻に対して津野家は、居城・姫野々城にて千五百の兵と共に立て籠もった。
大保木は姫野々城から僅か一キロほど東南にある新土居城を落とすと、福田頼綱に千五百の兵と城を預け、一条家と同じ城兵を無視する戦法での津野家攻略を命じた。以後、楠予家は城兵を無視して敵地を支配する方法を取る事が多くなる。
そして大保木自身は残り四千五百を率いて、津野家の東にある太平家へと攻め入った。2か国の同時攻略である。
太平家は楠予家の侵攻を聞き、千二百の兵を集めて居城・蓮池城に立て籠もった。
太平家が兵を集める時間があったのは、大保木が藤田孫次郎の献策を聞き入れ、わざと太平家の国境で数日を過ごし、太平家に兵を集める時間を与えたからだ。
そして蓮池城に太平家の兵が集まると、蓮池城から北に二キロほど離れた曽我山城を落とし、ここを本拠地と定めた。大保木はこの曽我山城で、残りの土佐七雄を牽制しつつ、蓮池城にも睨みをきかせながら太平領の支配に乗り出した。
※土佐七雄とは土佐の有力豪族である大平氏、津野氏、長宗我部氏、本山氏、安芸氏、香宗我部氏の事である。




