第九章 昔は話せなかった
店を始めて半年が過ぎた。
『勇者と聖女亭』は完全に王都の日常になっていた。
朝、蓮が蕎麦を打つ。
クレールがガレットの準備。
昼になるとリナが注文を取る。
ルイは相変わらず味見係を名乗っている。
シポとアウリは、ほとんど毎日来る。
その日も昼の混雑が過ぎたころ、リナがシポの席へ行った。
「シポおじさん、いつもの?」
「今日はガレットだ」
厨房から蓮が顔を出した。
「裏切ったな」
「何をだ」
アウリ。
「俺は蕎麦」
クレールが鉄板の前から言う。
「あなたまで?」
「今日は食べたい」
「お前ら毎日適当に選んでるだけだろ」
「最初からそうだ」
半年続いた派閥争いなど、二人には最初から存在しなかったらしい。
午後。
客が減って静かになる。
リナが宿題をしながら、ふと尋ねた。
「ねえ、お父さん」
「何だ?」
「お父さんとお母さんって、昔、本当に話せなかったの?」
蓮の手が止まった。
「誰から聞いた?」
「シポおじさん」
「余計なことを」
「事実だ」
シポは平然としている。
リナは興味津々だった。
「全然?」
「全然ってほどじゃないけど……最初はひどかったな」
「英語で話したんでしょう?」
「俺が英語苦手だった」
クレールが笑う。
「苦手なんてものじゃなかった」
「おい」
「最初に私に言った言葉、覚えてる?」
「覚えてない」
「『アイ・アム・ユウシャ』」
リナが吹き出した。
「本当?」
「緊張してたんだよ!」
「そのあと私に『You healer?』って」
「通じただろ!」
「何となくね」
アウリまで笑っている。
蓮はむっとした。
「お前らだって話せなかっただろ」
「俺は話す必要がなかった」
「それはお前が無口だっただけだ」
クレールが昔話を続ける。
「戦ってるとき、Renが『Right!』って言ったのを、私は『Light』だと思ったこともあったわ」
「それまだ言うのか」
「光魔法を撃ったら、あなたまで目を押さえて転がっていた」
リナが腹を抱える。
「お父さん、格好悪い」
「世界を救ったんだぞ、最終的には!」
「そこは格好いい」
「そこ『は』って何だ」
笑いが収まったあと、リナは少し不思議そうな顔をした。
「でも今は普通に話してるよね」
蓮とクレールが顔を見合わせる。
「まあな」
「日本語も覚えたし」
クレールが答える。
「Renもフランス語を少し」
「少しじゃない」
クレールが突然フランス語で言った。
「Alors, qu'est-ce que j'ai dit hier soir quand tu as encore laissé tes vêtements sur la chaise?」
蓮は固まった。
リナが父を見る。
「分かった?」
「……半分」
「訳そうか?」
「やめろ」
「お母さんはね――」
「リナ!」
シポが笑う。
クレールも笑った。
蓮は不満そうに腕を組む。
「でも昔よりは分かるぞ」
「本当?」
「今のは、『昨日また服を椅子に置きっぱなしにした』だろ」
「その先は?」
「……片付けなさい」
「だいたい正解」
「ほら!」
蓮が胸を張る。
リナは少し考えてから言った。
「じゃあ、お父さんとお母さん、もう翻訳魔法いらないね」
一瞬だけ、店内が静かになった。
翻訳魔法。
かつて四人を異世界人と結びつけながら、同じ地球から来た者同士を結びつけなかった奇妙な魔法。
その不完全さにどれだけ振り回されたか分からない。
蓮はクレールを見る。
彼女も蓮を見ていた。
「そうかもな」
蓮は言った。
「ずいぶん時間かかったけど」
クレールが答える。
「時間はあるでしょう」
「ああ」
魔王を倒したあとにも、人生は続いている。
だから急ぐ必要はなかった。




