第五章 蕎麦対ガレット
問題が始まったのは、店の隅に一枚の板が置かれたことだった。
本日の注文数。
蕎麦 二十七。
ガレット 二十九。
「……誰が書いた?」
閉店後、蓮が尋ねる。
「私」
リナが答えた。
「何で?」
「計算の練習」
「なるほど」
そこまではよかった。
蓮が数字を見る。
「ガレットの方が二つ多いな」
クレールが微笑む。
「そうね」
「たまたまだろ」
「そうかしら?」
「明日は蕎麦の方が出る」
「別に競争じゃないでしょう?」
「もちろん」
翌日。
蕎麦 三十一。
ガレット 二十八。
「勝った」
蓮が言った。
クレールが振り向く。
「昨日は競争じゃないって言ったでしょう」
「言ってない」
「言ったわよ」
「『もちろん』とは言った」
「同じ意味よ!」
そこから、静かな戦争が始まった。
蓮は蕎麦の種類を増やした。
温かい蕎麦。
冷たい蕎麦。
キノコ蕎麦。
卵蕎麦。
燻製肉蕎麦。
クレールも負けない。
卵とチーズ。
野菜。
キノコ。
肉。
蜂蜜を使った甘いものまで用意する。
「蕎麦、三十六!」
「ガレット、三十七!」
「まだ閉店まで一時間ある」
「こちらもよ」
シポは数字の板を見て言った。
「お前たちは何をしているんだ」
「文化交流」
蓮が答える。
「嘘をつけ」
アウリは両方食べていた。
「お前はどっちの味方なんだ?」
「腹の味方」
「聞いた俺が悪かった」
競争は客にも伝染した。
「今日は蕎麦を頼もう。勇者様を応援する」
「私は聖女様に一票」
「両方頼めば?」
「それでは勝負にならない」
誰が始めた勝負なのか、もう誰にも分からない。
最初のうちは店が盛り上がってよかった。
しかし、二週間もすると問題が出た。
メニューが増えすぎたのである。
「三番卓、キノコ蕎麦一、肉蕎麦二、冷たい蕎麦一!」
「こっちはガレット四枚!」
「待って!」
「お父さん、五番卓まだ!」
「分かってる!」
蓮が茹でる。
クレールが焼く。
狭い厨房でぶつかる。
「邪魔!」
「そっちが入ってきたんだろ!」
「私の鉄板の前よ!」
「皿取ろうとしただけだ!」
ついにクレールがフランス語になった。
「Ren, si tu rangeais correctement tes affaires, je n'aurais pas besoin de――」
「待て待て待て! 速い!」
蓮が両手を上げる。
「英語! せめて英語にしてくれ!」
「Why should I speak English in my own kitchen!」
「自分の厨房みたいに言うな!」
「私の厨房でもあるでしょう!」
客席まで聞こえた。
リナが奥から入ってくる。
「二人とも!」
その声に夫婦が止まった。
子供に怒られた。
「お客さん待ってるよ」
「……はい」
蓮は蕎麦へ戻った。
クレールも鉄板へ。
閉店後。
二人は同じテーブルに座りながら、互いに反対方向を向いていた。
リナがその向かいに座る。
「何で喧嘩してるの?」
「喧嘩じゃない」
二人同時。
「じゃあ何?」
答えられない。
ルイが余ったガレットを食べながら言った。
「ぼく、どっちも好き」
「ルイは何でも好きだろ」
「うん」
シポがまだ帰らずにいた。
「同じ粉だ」
ぽつりと言う。
「何が?」
「蕎麦もガレットも。同じ粉から作っているのに、どちらが上かと争っている」
「料理は違うだろ」
「違っていて何か問題があるのか?」
蓮は黙った。
クレールも黙る。
シポは続けなかった。
アウリは席を立ちながら、
「両方あるから毎日来てる」
と言った。
それだけだった。
夜。
家へ帰る道を、蓮とクレールは並んで歩いた。
リナとルイは少し前を歩いている。
「……悪かった」
蓮が言った。
「私も」
「蕎麦の方が上って言うのはやめる」
「私もガレットが上だとは言わない」
「でも俺は蕎麦の方が好きだけど」
クレールが睨んだ。
「そこは仕方ないだろ!」
彼女は数秒睨んでから、笑った。
「私もガレットの方が好きよ」
「なら、いいか」
違うままでいい。
それは、ずっと昔に二人が学んだことだった。




