第98話 看板娘とパティシエールの火花。その時、女神は香りに導かれる
翌日の放課後。
家庭科室は、オーブンから漂うバターとキャラメルの濃厚な香りと、きな粉の香ばしい匂いで満たされていた。
「よし、キャラメル林檎の桃山、いい感じの焼き色だ。マカロンの生地も綺麗にピエが出てるぞ」
「ふふっ、大成功だね。あとは黒蜜ガナッシュを挟むだけ……」
僕と絵海里がオーブンを覗き込んでホッと胸をなでおろした、まさにその瞬間だった。
「ちょっと伊織!! どういうことか説明しなさい!!」
バンッ!と勢いよく家庭科室の扉が開き、エプロン姿のひなたが鬼の形相で飛び込んできた。
その手には、なぜか泡立て器が剣のように握られている。
「ひ、ひなた!? どうしたんだよ急に」
「どうしたじゃないわよ! さっきクラスの女子から聞いたわ! あんた、今年の『ベストカップルコンテスト』に、ななか先輩のパートナーとして出るんですって!?」
「っ……!?」
ひなたの言葉に、隣にいた絵海里の肩がビクッと跳ねた。
絵海里は持っていた絞り袋をそっと置くと、ゆっくりと僕の方を振り向いた。その大きな瞳には、みるみるうちに涙の膜が張っていく。
「伊織……ななか先輩の、パートナーになるの……? わたしと、一緒にカフェやるのに……?」
「ち、違う! 違うんだ二人とも! 誤解だ!」
右からは泡立て器を突きつけるひなたの怒気、左からは捨てられた子犬のような絵海里の涙目。
僕は慌てて昨日の放課後の出来事――生徒会の先輩たちから、ななか先輩のためにと懇願された経緯を必死に説明した。
「……なるほどね。先輩たちに頼まれて、お人好しのあんたが断れなくなったってわけね」
「ふえぇ……伊織、無理やり連れてかれちゃったんだね。かわいそう……」
事情を聞いて、二人の誤解はなんとか解けたようだった。
……が、事態は思わぬ方向へと転がり始めた。
「でも、納得いかないわ! 伊織がコンテストに出るなら、パートナーは私でしょ!? 放課後も休日も、毎日あんたの家の厨房で一緒に新しい味を追いかけてる一番の相棒なんだから!」
「あ、それいいかも。……わたしも、伊織と一緒にコンテスト出たいな。三人で手繋いで歩いたら、絶対楽しいよ?」
「いやいや絵海里ちゃん、『カップル』コンテストなんだから三人はルール違反でしょ! ここは私が伊織と……」
「えー? でもわたし、伊織にエスコートしてほしいなぁ……」
ひなたがズイッと僕の右腕に抱きつき、負けじと絵海里がふんわりとした笑顔で僕の左腕に抱きつく。
昨日の教室でのデジャブだ。しかも今回は、二人ともエプロン姿でお菓子作りの熱気も相まって、密着度が尋常じゃない。
「ちょ、二人ともストップ! くっつかないで、焼き立ての桃山が潰れる! そもそもななか先輩からのご指名なんだから、僕から断るなんて……!」
「伊織はどっちと出たいのよ!」
「伊織、わたしのお願い、聞いてくれない……?」
「だからコンテストは二人一組だってば!!」
家庭科室が完全に嫉妬と甘い香りのカオスに包まれた、その時だった。
「……くんくん」
開け放たれた家庭科室の入り口から、ひょっこりと。
透き通るような亜麻色の長い髪を揺らしながら、おっとりとした声が割り込んできた。
「……やっぱり。すっごく……いい匂い……」
「「「あ」」」
そこに立っていたのは、騒動の中心人物であり、学園の誰もが憧れる高嶺の花――ななか先輩だった。
ななか先輩は、僕の右腕にひなた、左腕に絵海里がガッチリとしがみついているカオスな状況を見て、不思議そうにコテンと首を傾げた。
しかし、彼女の視線はすぐに僕たちを通り越し、テーブルの上に並べられた焼き立ての『和マカロン』と『キャラメル林檎の桃山』へと真っ直ぐに吸い込まれていく。
「……それ……新作、かな……?」
コンテストの修羅場などどこ吹く風。
ミステリアスな食いしん坊の先輩は、ただひたすらに、甘いお菓子の匂いに吸い寄せられて家庭科室へとやってきたのだった。




