第94話 ガラスの箱と、天使の条件(ななか視点)
学園祭を一ヶ月後に控えた放課後の校舎は、どこもかしこも熱を帯びていて騒がしい。
廊下を行き交う生徒たちの笑い声や、段ボールを運ぶ足音。遠くから聞こえる吹奏楽部の楽器の音色。
それらはすべて、ひんやりとした分厚いガラス越しに聞いているように、私にとっては……どこか遠くの出来事みたいだった。
「ななか様……! どうか、どうかお願いします! 今年の『ベストカップルコンテスト』に、先輩に出場していただきたいんです!」
生徒会室。
目の前で、何人もの生徒会役員たちが私に向かって深く頭を下げていた。
「毎年、ウチの学園祭の目玉なんです。でも今年は圧倒的な華が足りなくて……! ななか様が出てくだされば、絶対に盛り上がりますから!」
熱弁を振るう彼らの声も、やはりガラスの箱の表面を滑り落ちていくように、私の心には響かなかった。
(……華、か)
私は、少しだけ冷たくなった自分の指先を見つめる。
みんな、私に優しい。すれ違えば顔を赤くして道を譲ってくれるし、遠くから「今日も綺麗だね」とため息をついてくれる。
でも……誰も、この透明な箱の中には入ってこない。私を美術館の彫刻のように、触れてはいけない『高嶺の花』として扱って、決して……同じ温度で隣を歩こうとはしないのだ。
ベストカップルコンテスト。
誰かと隣に並んで、微笑み合う舞台。
そんなの、一番私から遠い場所。私には、そんな熱も……誰かと並んで歩く資格もないのに。
「……ごめんなさい。私……そういうの、あまり……得意じゃ、ないから。それに……一緒に並んでくれるような人も、いないし……」
静かに、いつも通りの微笑みを浮かべて断ろうとした。
この箱の中から出ないのが、私にとっても……みんなにとっても、一番安全で平和なのだから。
「相手なら誰でも! ご指名してくだされば、生徒会のメンバーを総動員して必ず連れてきます! ですから、どうか……!」
必死に食い下がる生徒会役員たち。
指名、と言われて。
ふと、私の頭の中に思い浮かんだのは――夏の終わりの、少しだけ涼しい風。
甘いお菓子の匂いと……私のために特等席を用意して、包み込むように、とても温かく笑ってくれる、あの男の子の顔だった。
彼は、私を『高嶺の花』なんて呼ばない。
ただの食いしん坊な先輩として、いつも嬉しそうに美味しいお菓子を差し出して、ガラスの箱の外から、トントンと……ノックをしてくれる。
(……あの人の、隣……なら)
もしも彼が、私をこの冷たい箱の中から……連れ出してくれたなら。
誰かとお祭りを歩く熱を、私も知ることができるのだろうか。
「……伊織くん……なら……」
ぽつり、と。
無意識のうちに、私の唇からその名前がこぼれ落ちていた。
「え?」
「……一年生の……甘野、伊織くん。……彼が一緒なら……出ても、いいかな……」
言ってしまってから、自分でも驚いた。
心臓がトクトクと……いつもより少しだけ早く、脈を打っている。
けれど、私のその小さな呟きは、静寂に包まれていた生徒会室に、爆発的な連鎖を引き起こした。
「い、一年生の甘野伊織!? 誰だそいつは!!」
「ななか様のご指名だぞ! 今すぐ名簿を確認しろ!!」
「生徒会役員、および有志の先輩親衛隊に緊急招集! ターゲットは一年、甘野伊織! ただちに身柄を確保せよ!!」
「……え? ……あ、あの……?」
戸惑う私をよそに、生徒会役員たちは血走った目でトランシーバーを握りしめ、一斉に生徒会室から飛び出していく。
ガラスの箱に、ほんの少しだけ……ヒビが入ったような気がした。
私の小さな我が儘が、これから彼にどれほどの大騒動を巻き起こすことになるのか……この時の私は、まだ全くわかっていなかった。




