第76話 約束の続き。私の隣で微笑む君と(絵美里視点)
伊織から差し出された小さな箱。
震える手で受け取り、中に入っていた少し不格好なチョコレートをそっと口に含んだ。
「……あ」
舌の上で溶けた瞬間、抹茶のほろ苦さと、チョコレートの優しい甘さが広がる。
懐かしい味。
その温かさに触れた途端、あの日、フランスへ向かう空港での記憶の「続き」が、鮮明に蘇ってきた。
——ガチガチに強張っていた私の心が解け、自然と笑顔がこぼれた、あの瞬間。
少しだけ大人びた伊織は、ホッとしたように目を細めて、こう言ったのだ。
『いつか絵海里が言ってくれたよね。「そしたら、わたしがいおりを、えがおにするおかしをつくるねっ」って』
伊織の言葉に、私は目を丸くした。
『絵海里の作るお菓子は、優しくて温かい。いつも僕を笑顔にさせてくれた』
『だから、今度は僕が絵海里を笑顔にする番だと思ったんだ。……絵海里が笑顔になってくれて、うれしいよ』
ドクン、と。
胸の奥で、心臓が大きく跳ねたのを覚えている。
私のためだけに作られた不器用なショコラと、伊織の真っ直ぐな笑顔。顔がカッと熱くなって、とても幸せで、優しい気持ちに包み込まれた。
(……そっか。私のお菓子で、みんなをこんな幸せな気持ちに出来たら、どんなに素敵だろう)
溢れ出したその想いを伝えると、伊織は少し驚いた後、照れくさそうに「奇遇だな、僕も全く同じことを考えてた」と笑ってくれた。
だから、私たちは約束したんだ。
『誰かを笑顔にするための一皿を、いつか一緒に』
それはただの幼馴染への対抗心なんかじゃない。
お互いを想い合い、夢を繋ぐための、二人だけの最も大切な約束だったんだ。
——ふっと、意識が縁側へと戻る。
視線を上げると、私のすぐ隣には、あのショコラを差し出し、優しく微笑んでいる伊織がいた。
「……おかえり、絵海里」
「……伊織」
私がフランスで独りぼっちで迷子になっている間も、彼は少しも変わっていなかった。
ずっと、あの日の約束を覚えていてくれた。遠回りしたけれど、こうしてまた、私の隣の特等席にいてくれる。
――そのことが、たまらなく嬉しくて。
視界がぐにゃりと歪み、大きな瞳からポロポロと涙がこぼれ落ちる。
でも、悲しくなんかない。
私の顔にはきっと今、世界で一番とびきりの笑顔が咲いているはずだから。
冷たいお人形の鎧は、もう完全に溶けてなくなった。
「っ……。ただいまっ……。いおりっ……。」
遠くで鳴る夏の終わりの蝉時雨が、私たちの新しい始まりを祝福するように、どこまでも高く、澄んだ音で響いていた。




