第74話 ひなた不在の縁側。少しだけ照れくさそうに、絵海里が差し出した想い
ななか先輩に、背中を押してもらった翌日の午後。
蝉の声がどこか遠くに聞こえる、僕の家の縁側。
『今日は野暮用があるからパス! 伊織、あんたしっかりやりなさいよ!』
午前中にひなたから送られてきたそんなメッセージ画面を見て、僕は小さく息を吐いた。
いつもなら、この縁側でお茶を淹れて「暑い暑い」と文句を言っているはずの幼馴染の姿はない。彼女なりに気を利かせて、わざと僕と絵海里が向き合うための時間を作ってくれたのだ。
ひなたの不器用なエールに背中を押されながら、僕は朝から工房にこもり、『和風ショコラ』を仕上げた。
「……よし」
『大切な幼馴染にもう一度、心から笑ってほしい』
絵海里への想いをたっぷりと練り込んだショコラ。
その結晶を小さな箱に詰めて縁側のちゃぶ台に置いた、ちょうどその時だった。
「……伊織」
生垣の向こうから、聞き慣れたフワフワとした声が降ってきた。
顔を上げると、栗色の髪を揺らした絵海里が、そっとこちらの様子を窺っていた。
「絵海里……!」
あの日、泣きそうな顔で逃げ出して以来だ。
少しだけ気まずそうに目を伏せた彼女は、ゆっくりと庭先を歩いて縁側へと近づいてきた。
「ひなたちゃんは……いないの?」
「ああ。今日は用事があるらしくてさ。……上がってよ。麦茶、淹れるから」
僕が立ち上がろうとすると、絵海里は「ううん、大丈夫」と小さく首を横に振った。
「伊織……あのね、これ」
少し照れくさそうにはにかみながら、絵海里が僕の目の前にそっと差し出したもの。
それは、パティスリーのロゴが入った立派な白いケーキ箱でも、ショーケースに飾るような冷たくて完璧なケーキでもなかった。
彼女の両手で大事そうに抱えられていたのは、ぽってりとした素朴な耐熱皿。
「……クラフティ?」
「うん。桃のクラフティ」
絵海里が縁側のちゃぶ台にそっと置いたのは、フランスの家庭でよく作られるという、焼きたての温かいお菓子だった。
旬の瑞々しい桃がたっぷりと敷き詰められ、卵と牛乳の優しい生地がふっくらと焼き上がっている。表面には、オーブンの熱でついた少しだけ不均一な焦げ目がついていた。
甘くて、香ばしくて、どこか懐かしい匂いが、ふわりと縁側に広がる。
「少し焦げちゃって、不格好なんだけどね……」
絵海里は自分の指先をきゅっと握りしめ、真っ直ぐに僕の目を見た。
「今のわたしが、伊織に一番食べてほしいお菓子なの」
「……絵海里」
僕は、飾らない彼女のありのままの優しさが焼き込まれたその一皿を見つめ、静かにスプーンを手に取った。




