第73話 桃のクラフティと、はじまりの記憶(絵美里視点)
ひなたちゃんと話した翌日、パティスリー・タカナシの厨房。
静かな空気の中、私は小皿に乗ったお菓子をスプーンで小さくすくい、そっと口に運んだ。
「……うん、美味しい」
それは、お店に出しているような宝石みたいに洗練されたケーキではない。賄いとして、ママが私たちのおやつにと焼いてくれた『チェリーのクラフティ』だった。
甘酸っぱいチェリーと、卵と牛乳のプリンのような生地。
フランスの家庭でよく作られるというそのお菓子は、気取らない素朴な甘さで、食べると不思議とお腹の底からホッと解けていくような感覚になる。……まるで、伊織が丁寧に練り上げた、あの温かいあんこのように。
その優しい味は、私の胸の奥に眠っていた、ある日の記憶をそっと呼び覚ました。
——まだ私が、お菓子を「作る側」ではなく、「食べる側」だった幼い頃。
いつもの縁側で、私と伊織、そしてひなたちゃんの三人で、おやつを囲んだ日のことだ。
あの日、私が家から持っていったのも、今日と同じママの手作りのチェリーのクラフティだった。
大きめのスプーンで切り分けて、三人で一緒に口へと運ぶ。
一口食べた瞬間、伊織とひなたちゃんは顔を見合わせて、パァッと花が咲いたように笑った。
『おいしいねっ!』
ほっぺたを落としそうにしながら笑う二人を見て、私の心はポカポカと温かいもので満たされていった。
その時だ。小さな伊織が、空っぽになったお皿を見つめて、目を輝かせながらこう言ったのだ。
『ぼくも、いつかこんなおかし、つくれるようになりたいなぁ』
『わたし、てつだうっ!』
ひなたちゃんも、元気よく手を挙げる。
夕暮れの縁側。甘い匂いと、大好きな二人の無邪気な笑顔。
(……そっか。あの時なんだ)
私は、チェリーのクラフティをもう一口食べながら、ふわりと微笑んだ。
私が「誰かを笑顔にしたい」と強く願った、本当の始まり。
それは、美味しいものを食べた時の、心がじんわりと温かくなる記憶。私のお菓子で、大好きな人たちをこんな風に幸せな気持ちにできたらどんなに素敵だろう。そう思ったのが、私がパティシエを夢見た一番最初の原点だったのだ。
「……見つけた」
フランスでの厳しい修行の中で、いつの間にか見失っていた一番大切なもの。
完璧なレシピでも、1ミリの狂いもない温度管理でもない。
ただ、目の前にいるたった一人を笑顔にするための、優しい温度。
私は立ち上がり、厨房の冷蔵庫を開けた。
今の私が、伊織に一番食べてほしいお菓子。
ママが作ってくれたチェリーも大好きだけど、今の季節なら、もっと瑞々しくて優しい甘さのものがある。私は、綺麗に色づいた旬の桃を取り出した。
私なりのアレンジを加えた、桃のクラフティ。
ショーケースに飾るような冷たいケーキは、もう作らない。
「美味しい」と笑ってほしい。ただその純粋な祈りだけを指先に込めて、私は自分だけの温かいクラフティを焼き始めた。




