第72話 先輩の静かなエールと、あの日君に渡した甘さ
蝉の声が降り注ぐ、甘野家の縁側。
ひなたが僕の尻を叩いて三色堂へ走り去ってから、少しの時間が経っていた。
僕は縁側に座り込み、試作しては失敗した練り切りの残骸を見つめて、深くため息をついた。
どんなお菓子を作れば、絵海里のあの凍りついた笑顔を溶かせるのか。いくら頭をひねっても、ちっとも答えが出ない。
「……伊織くんの和菓子、……今日はすこし、味が迷子になってるね……」
ぽつりと、隣からおっとりとした声が降ってきた。
いつの間にか庭先から縁側にやってきていたななか先輩が、僕の失敗作を小さくかじりながら、不思議そうな顔でこちらを見つめていた。お店だけでなく、僕の家の縁側も、すっかり先輩のくつろぎスペースになっているらしい。
「すみません、先輩。……ちょっと、どうすればいいか分からなくなってて」
僕は情けない声で、ポツリポツリと先輩にこぼした。
自分の不用意な言葉が彼女を傷つけてしまったこと。完璧なお菓子を作る彼女に、和菓子職人の卵である僕が、一体何を差し出せばいいのか分からないこと。
先輩は僕のまとまらない話を、急かすこともなく、ただ静かに聞いてくれた。
そして、湯呑みのお茶をこくりと一口飲むと、静かな瞳で僕を真っ直ぐに見つめた。
「……伊織くん、今は……絵海里ちゃんの心に、寄り添ってあげてほしい……」
「絵海里の、心……」
「……うん。そうすれば、絵海里ちゃんは、……きっと、大丈夫」
ぽん、と。
先輩の細くて白い手が、僕の肩を優しく叩いた。
『心に寄り添う』。
その言葉を聞いた瞬間、僕の脳裏に、すっかり忘れていたある日の記憶が鮮やかにフラッシュバックした。
——あの日。フランスへ旅立つ、空港のロビー。
搭乗ゲートの前で、絵海里は今にも泣き出しそうな顔をしてうつむいていた。
言葉の通じない遠い異国へと旅立つ不安。彼女の小さな肩は、微かに震えていた。
あの時、僕はただ、大切な幼馴染を笑顔で送り出したかった。
不安で押しつぶされそうになっている彼女の心に、少しでも寄り添いたくて。気がつけば、徹夜で試作した小さな箱を、彼女の手に押し付けていた。
『洋菓子の本場に行く絵美里に渡すのは勇気がいるけどさ。……向こうで寂しくなったら、これ食べて元気出せよ』
それは、和菓子の枠組みから少しだけはみ出した、僕なりの不器用なエール。
抹茶のほろ苦さと、チョコレートの甘さを合わせた『和風ショコラ』だった。
それを口に含んだ絵海里は、ふわりと花が咲くように笑ってくれたのだ。
あの時の僕には、立派な和菓子職人としてのプライドも、完璧なレシピもなかった。ただ「絵海里を笑顔にしたい」という、純粋な願いだけがあった。
「……そっか。僕が作るべきなのは、完璧な和菓子なんかじゃない」
ずっと、難しく考えすぎていたのだ。
フランスで完璧な技術を身につけた彼女と張り合おうとして、勝手に壁を作っていたのは、僕の方だったのかもしれない。
「先輩、ありがとうございます。……僕、いま自分が何をしなければならないか、分かりました!」
僕が弾かれたように顔を上げると、ななか先輩はふにゃりと、いつもの天使のような笑顔を浮かべた。
「……うん。いってらっしゃい」
今、僕に出来ることは一つだけだ。
あの日、彼女の不安を溶かしたあの甘さを。僕たちの原点であるあの味を、もう一度作ろう。
僕は急いで立ち上がると、縁側からすぐの工房へと向かった。
もう、迷いはなかった。




