第71話 私の忘れ物。誰かを笑顔にするための一皿(絵海里視点)
ポタリ、ポタリ。
次から次へと溢れ出す涙が、テーブルに落ちて小さな染みを作っていく。
「ちょっと……絵海里ちゃん!? 私、そんな泣くほど不味いもの作ってないわよ!?」
ひなたちゃんが慌てて身を乗り出してくるけれど、私はゆっくりと首を横に振って、もう一口、不格好なおはぎを頬張った。
「ううん……美味しい。ひなたちゃんのおはぎ、すっごく、温かい」
「え……」
「私ね、ずっと探してたの。フランスで落としてきちゃった、一番大切なレシピ」
涙を手の甲で拭いながら、私はふわりと笑った。
無理して作っていた綺麗なお人形の笑顔じゃなくて、心から解けた、私本来の笑顔。
「背伸びして、完璧なお菓子を作ろうとするうちに……私、一番大切な『食べてくれる人を想う気持ち』を忘れちゃってたんだ。でも、私が探してた忘れ物は……どこか遠くじゃなくて、最初から私の中にあったんだね」
ひなたちゃんの不器用で真っ直ぐな優しさが。
そして、絶対に負けたくないという、彼女からの確かなライバル心が。
埃を被って見えなくなっていた私の原点を、もう一度ピカピカに磨き上げてくれたのだ。
「ひなたちゃん。……本当に、ありがとう」
私が心の底からお礼を言うと、ひなたちゃんは少しだけ顔を赤くして、フンッとそっぽを向いた。
「べ、別に! 私はただ、伊織のウジウジした顔を見るのが我慢ならなかっただけよ。……それに」
ひなたちゃんはチラリとこちらを見て、口角をニッと上げた。
「ライバルが泣いたままじゃ、勝負にならないでしょ」
「ふふっ、そうだね」
迷子になっていたお菓子好きの女の子は、もうどこにもいない。
私はゆっくりと立ち上がり、厨房の奥で静かに眠るオーブンへと視線を向けた。
「私、作るよ」
「伊織をギャフンと言わせるお菓子?」
「ううん」
私は振り返り、もう一度ひなたちゃんに胸を張って宣言した。
「伊織を、世界一の笑顔にするためのお菓子を」
もう、ショーケースに飾るお人形は作らない。
伊織が心の底から美味しいと笑ってくれる、そして私が彼の隣の特等席に胸を張って座れるような、最高の一皿を作るのだ。
パティスリーの窓から差し込む夕陽が、私たちの顔を明るく照らしていた。




