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第70話 ライバル心と、淡い恋の記憶(絵海里視点)

 ひなたちゃんの力強い言葉と、口の中に残る小豆の優しい甘さが、私の胸の奥でカチカチに凍りついていた記憶を、ゆっくりと溶かしていく。


(……私、どうしてお菓子作りを始めたんだっけ)


 目を閉じると、浮かんでくる景色がある。

 フランスの厳しい厨房で何度もくじけそうになった時、いつも心の奥底で私を支えていた、懐かしい記憶。

 それは「完璧なパティシエになりたい」という野心なんかじゃなかった。


 もっとずっと昔。

 あの縁側で、小さな伊織が粉まみれになりながら、一生懸命にお饅頭を丸めていた姿。

 それを食べた周りの大人たちが、みんなフワッと幸せそうに笑うのを見て、私はすごく悔しくて、そして……ひどく羨ましかったのだ。


『私も、伊織に負けないくらい美味しいお菓子を作れるようになるもん!』


 そう宣言して、見よう見まねでクッキーを焼いたのが始まりだった。

 焦げて少し固かったはずのそのクッキーを、伊織は「おいしい!」と言って、あの太陽みたいな笑顔で笑ってくれた。


 そうだ。私はただ、あの笑顔がもう一度見たかっただけなんだ。

 本場で学んだ、宝石みたいに綺麗で完璧なお菓子を見せて、ただ「すごいね」と驚かせたかったわけじゃない。


 あの日の記憶が、もう一つの大切な場面へと繋がっていく。


 フランスへ旅立つ日の、空港のロビー。

 異国へ行く不安とプレッシャーに押しつぶされそうで、私は泣きそうな顔をしてうつむいていた。


 そんな私を見送りに来てくれた伊織が、「ほら、餞別」と不器用に出してくれた小さな箱。

 中に入っていたのは、伊織が私のために試行錯誤して作ってくれた『和風ショコラ』だった。


『洋菓子の本場に行く絵美里に渡すのは勇気がいるけどさ。……向こうで寂しくなったら、これ食べて元気出せよ』


 照れくさそうに笑う伊織と一緒に、そのショコラを一口つまんだ。

 抹茶のほろ苦さとチョコレートの甘さが不器用に、でも優しく混ざり合ったその味は、ちっとも洗練されてなんかいなかったけれど。

 口いっぱいに広がったその温かさに、私のガチガチに強張っていた心はふわりと軽くなり、気づけば自然と笑顔になっていた。


 その時だ。不安が解けた私が、少しだけ大人に近づいていた彼と並んで交わした約束。


『誰かを笑顔にするための一皿を、いつか一緒に』


 それはただの幼馴染への対抗心なんかじゃない。あの日からずっと私の中でくすぶっていた、彼への純粋で、淡い恋心。


「……そっか。これが、私の探してた『熱』……」


 完璧な温度管理も、1ミリの狂いもないレシピも、本当は二の次だった。


 食べる相手の顔を思い浮かべて、その人が笑顔になるようにって、ただひたすらに願う気持ち。私を笑顔にしてくれた、あの和風ショコラのように。

 それこそが、私がフランスで見失ってしまった一番大切な『隠し味』だったのだ。


 ポタリ、と。

 視界が不意にぼやけて、テーブルの上のタッパーに、小さな水滴が落ちた。


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