第65話 孤独を知る先輩の、静かなる審美眼(絵海里視点)
店内に静かな冷蔵庫の稼働音だけが流れる中。
先輩はフォークを置き、じっと私の顔を見つめ返した。
そのミステリアスな瞳の奥に、ふっと静かな波紋が広がるのが見えた。
いつもは「美味しい」と幸せそうに笑うだけの先輩が、どこか遠くを見るような、少しだけ寂しそうな色を帯びていた。
「……えみりちゃんのケーキ、本当に綺麗。……キラキラしてて、甘くて、誰もが『美味しい』って言う、……絶対の『正解』の味がする」
先輩の静かな声が、開店前のガランとしたカフェスペースに響く。
それは紛れもない褒め言葉のはずなのに、なぜだか私の胸の奥をチクリと刺した。
「でもね……」
先輩は視線を落とし、半分ほど残ったフルーツタルトを見つめた。
「……私、小さい頃、よくショーケースの中の、ケーキを見てたの。すごく綺麗で、手が届かなくて。……でも、それを買って、一緒に食べてくれる人は、誰もいなかった」
ぽつりとこぼれ落ちた言葉。
先輩の纏う不思議な透明感の正体が、ほんの少しだけわかった気がした。
誰よりも美しくて、恵まれているように見える先輩も……私と同じように、綺麗に飾られたガラスの向こう側で、孤独を感じていたのかもしれない。
「……だからかな。……伊織くんのお菓子を食べると、……すごく安心するの」
先輩が顔を上げ、私に柔らかく微笑みかけた。
「……伊織くんの和菓子はね、ショーケースの中にはないの。……その時、目の前にいる、『私のためだけ』に作ってくれた味がするの」
手元のフルーツタルトに目を伏せ、先輩は愛おしそうに付け加える。
「……えみりちゃんのケーキみたいに、完璧じゃないかもしれない。でも……、食べてる人の心に直接触れてくるみたいな……そういう、温かい体温がある」
『私のためだけ』の味。
『温かい体温』。
その言葉は、理屈ではなく感覚として、私の心に深く、すっと染み込んでいった。
フランスの厨房で、私がずっと見つめていたのは『完璧なレシピ』と『グラム単位の数字』だった。
このケーキを食べるのが誰なのか、どんな顔をして食べてくれるのか。そんな一番大切なことを忘れて、ただ「絶対に失敗しない正解」を作り続ける機械になっていたんだ。
だから、伊織にはわかったのだ。
私が全神経を注いで作ったこのケーキに、一番大切な『体温』が抜け落ちていることが。
綺麗に作られたお人形のように、ただそこにあるだけの、冷たい作り物だということが。
「……そっか。だから私のケーキは、あんなに冷たかったんだ」
ストンと。
胸の奥で絡まっていた糸が、解けたような気がした。
伊織の無邪気な言葉に傷ついていたけれど、本当は、私自身が一番よくわかっていたのだ。
「……先輩、ありがとうございます」
私は、空っぽのショーケースを背にして、少しだけスッキリとした気持ちで頭を下げた。
自分が何を見失っていたのか。
その輪郭が、ようやく少しだけ見え始めた気がした。




