第64話 夕暮れのパティスリー、先輩を呼び止めて(絵海里視点)
あの縁側から逃げ出してから、数日が経っていた。
ひなたちゃんから心配するメッセージが何度か届いたけれど、気の利いた返信ができずに、ただ「もうすぐお店が再開するから、そのお手伝いで忙しくて」とだけ誤魔化してしまった。
伊織に会いたい。でも、今の空っぽな私のままじゃ、あの温かい縁側に戻る資格がない気がして、どうしても足が向かなかったのだ。
入口のシャッターが半分下りた『パティスリー・タカナシ』の店内。
オレンジ色に染まる夕暮れ時、私は一人、まだケーキが一つも並んでいない空っぽのショーケースを無心で磨いていた。
厨房の冷蔵庫には、開店に向けて私が試作したケーキがいくつも眠っている。どれも綺麗で、完璧な仕上がりだ。でも、今の私にはそれが少しだけ恨めしい。
「……はぁ」
小さくため息をついて、磨き上げたガラス越しに窓の外へ視線を向けた、その時だった。
通りを歩く、見覚えのあるシルエット。
艶やかな亜麻色のロングヘアに、モデルのようにスラリとした長身。
「ななか先輩……!」
私は考えるより先に、半分閉まったシャッターをくぐって店を飛び出していた。
「先輩! ななか先輩!」
数メートル先を歩いていた先輩が、ゆっくりと振り返る。
少し不思議そうにコテリと首を傾げるそのミステリアスな美貌は、夕陽に照らされてどこか幻想的だった。
「……えみりちゃん」
「あのっ……!」
私は息を切らしながら先輩の前に立ち、ギュッとエプロンの裾を握りしめた。
「もしよかったら……少しだけ、お話いいですか?」
先輩は私の必死な様子に少しだけ目を丸くした後、「……うん」と静かに頷いてくれた。
まだ看板も出ていない、ガランとした店内の小さなカフェスペースに先輩を招き入れ、私は一番自信のある試作のフルーツタルトと、温かい紅茶をテーブルに置いた。
「……これ、食べていいの?」
「はい。まだお店を開ける前の試作品なんですけど、先輩に食べてほしくて」
先輩の瞳がキラリと輝き、迷いなくフォークを手にする。
サクッとした生地と瑞々しいフルーツを口に入れた瞬間、先輩の大人びた表情がふにゃりと崩れた。
「……すっごく、美味しい」
「ありがとうございます……」
幸せそうに私のケーキを頬張る先輩の姿は、いつもの縁側で見る無防備な天使のようだった。
でも、私は今日、ただ美味しいと言ってもらいたくて先輩を呼び止めたわけじゃない。
フォークの動きが少し落ち着いたのを見計らって、私はずっと胸の奥につかえていた問いを口にした。
「……先輩はどうして、伊織のお菓子が好きなの?」
「え?」
「伊織の作る和菓子は……私のお菓子みたいに、温度もグラムも完璧じゃないかもしれない。形だって不格好な時もあるし……。でも、先輩は伊織のお菓子を食べる時、本当に心の底からホッとしたような、すごく温かい顔をするから」
言葉にすると、余計に自分の心がちくりと痛んだ。
それでも、私は真っ直ぐに先輩の瞳を見つめた。
伊織の泥臭くて不器用な和菓子を、誰よりも美味しそうに、幸せそうに食べる彼女なら。
フランスで背伸びをして迷子になってしまった私のお菓子に足りない『何か』を、きっと知っているような気がしたのだ。
「教えてください、先輩。伊織のお菓子にあって、私のお菓子にないものって……何ですか?」
店内に静かな冷蔵庫の稼働音だけが流れる中。
先輩はフォークを置き、じっと私の顔を見つめ返した。




