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第63話 空っぽのケーキと自己嫌悪(絵海里視点)

 薄暗い『パティスリー・タカナシ』の厨房。

 営業再開に向け準備をしている店内に響くのは、大型冷蔵庫の低く無機質な稼働音だけだった。


 私は一人、ピカピカに磨き上げられた冷たいステンレスの作業台の前に立ち、伊織の家に行く前に試作していたフランボワーズ・ムースをじっと見つめていた。


『まるで、高級店のショーケースに飾るお人形みたいだ』

『この古い縁側には綺麗すぎるくらいだよ』


 伊織の屈託のない声が、何度も何度も耳の奥でリフレインする。

 彼に悪気がないことなんて、痛いほど分かっている。伊織は昔からずっと嘘のつけない、真っ直ぐなお人好しだ。本当に、私のお菓子を最上級の言葉で褒めてくれただけなのだ。


 分かっているのに。

 だからこそ、彼のその無邪気な言葉が、私の心を鋭く抉った。


「……お人形、か」


 悪いのは伊織じゃない。私だ。

 フランスの本場の厨房で、才能あるパティシエたちに必死で追いつきたくて。毎日グラム単位の計量と温度管理に追われ、失敗を恐れて、ただ『正解』のレシピをなぞるだけの日々。

 そうやって背伸びを続けて手に入れたのは、誰もが綺麗だと褒めてくれる、隙のない完璧な技術だった。


 でも、その代償に私は、お菓子作りで一番大切だったはずの『温度』を失ってしまった。


 伊織やひなたちゃんと一緒に笑い合いながら、顔に粉をつけて不格好なクッキーを焼いていたあの頃。ただ純粋に「美味しいね」って笑い合えた、あのぽかぽかするような楽しさ。

 今の私のお菓子には、それがちっとも宿っていない。見た目やレシピばかりを気にして作っても、私の心は少しも動かないのだ。


「私……もう、あそこにはいられないのかな……」


 ぽつりとこぼした声は、震えていた。

 太陽の匂いがするあの縁側。不格好でもじんわりと温かい伊織の和菓子と、それを笑顔で頬張るひなたちゃんや先輩たち。


 あの優しくて騒がしい場所に、こんな冷たいお菓子しか作れなくなった私がいる資格なんて、本当はないのかもしれない。

 私はゆっくりとフォークを取り、まるで精巧な作り物のように完璧な姿のケーキを少しだけ切り取って口に運んだ。

 完璧な甘酸っぱさと、計算し尽くされた滑らかな口溶け。教科書通りの、大正解の味。


「……やっぱり、冷たい」


 どんなに完璧でも、ちっとも美味しく感じない。


 ポロリと。

 視界が滲んだかと思うと、大粒の涙が頬を伝い、ステンレスの冷たい作業台に落ちた。


 私は誰もいない薄暗い厨房で、自分の作った完璧で空っぽのケーキを前に、ただ一人、静かに泣き続けた。


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