第62話 笑顔のひび割れと、気まずい空気
「……絵海里?」
僕が戸惑いながら名前を呼ぶと、俯いていた彼女がゆっくりと顔を上げた。
「……ショーケースの中のお人形、か」
ポツリとこぼれた声は、いつものふんわりとした甘い響きがすっかり抜け落ちていて、ひどく冷たかった。
パリン、と。
彼女の顔に張り付いていた愛らしい笑顔が、目に見えない音を立ててひび割れたような気がした。
「えっ……あ、いや。その、すごく綺麗で洗練されてるって意味で……」
「……ごめんね。私、今日はもう帰るね」
慌てて弁解しようとした僕の言葉を遮るように、絵海里はスッと立ち上がった。
「ちょ、ちょっと待ってよ! 絵海里ちゃん、まだ一口も食べてないのに!」
異変を察知したひなたが慌てて引き留めようとするが、絵海里は小さく首を横に振った。
「ううん、大丈夫。……ケーキ、二人で食べてね」
そう言って向けられた笑顔は、痛々しいほどに引きつっていた。
彼女はそのまま振り返ることもなく、逃げるように足早に縁側から立ち去ってしまった。
夏の気配が色濃い庭に、パタンと門が閉まる音だけが虚しく響く。
残されたのは、テーブルの上の手付かずの美しいケーキと、ひどく気まずい空気だけだ。
「……なんでだ? 僕、なにかマズいこと言ったか?」
「あんたって本当にデリカシーがないわね!!」
頭を抱える僕の背中に、ひなたの容赦ない怒声が降り注いだ。
「綺麗すぎるって褒めただけだろ!? なんであんなに傷ついた顔……」
「女の子の『綺麗』がいつでも褒め言葉になると思ったら大間違いよ! バカ伊織の鈍感! 最低!」
「理不尽すぎるだろ……」
ポカポカと僕の背中を叩くひなただったが、その声にはいつもの元気な怒りだけでなく、明らかな動揺が混じっていた。
「……でも」
ひなたは叩く手を止め、テーブルに残された真紅のケーキを見つめた。
「絵海里ちゃんがあんな顔するなんて……絶対におかしいよ。いつもなら、伊織がちょっとくらい変なこと言っても『もう、伊織のばか』って笑って許してくれるのに」
ひなたの言う通りだ。
フランスから帰ってきてから、彼女は少しだけ大人びてしまったけれど、それでも根っこのお人好しで優しいところは変わっていなかったはずだ。
あんな風に、明確に拒絶するような顔を見せて逃げ帰るなんて。
(……僕は、一体何を踏みにじってしまったんだ)
縁側に置かれたフランボワーズのムースは、僕の言った通り、まるで高級店のショーケースの中にあるお人形のように完璧で、美しくて。
そして今の僕には、それがひどく冷たいものに見えた。




