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第60話 届かない距離。迷子の心はまだ見えない

 ガタン、ゴトン。


 単調で心地よいレールの音が、オレンジ色から深い群青色へと沈みゆく車内に響いている。

 向かいの席でスヤスヤと眠る二人を起こさないよう、僕と絵海里は声を潜めて言葉を交わしていた。


「……ひなたちゃん、海でずっとはしゃいでたもんね。先輩も、あんなにたくさん食べたから、まだ幸せそうな顔してる」

「全くだよ。僕の財布の犠牲の上に成り立ってる平和な寝顔だ」


 冗談めかして囁くと、絵海里は声を立てずにふふっと肩を揺らした。

 隣に座る彼女との距離は、少し身動きをすれば肩が触れてしまうほど近い。

 窓からの微かな風が彼女の栗色の髪を揺らすたび、甘いバニラのような香りが僕の鼻先をかすめていく。


 物理的な距離は、こんなにも近いのに。

僕のすぐ隣で微笑む絵海里との間には、まるで見え ない透明なガラスの壁がそびえ立っているような、そんな錯覚を覚えた。


 フランスで修行を積み、誰もが息を呑むような完璧なお菓子を作れるようになった彼女が、どうしてあんなにも寂しそうに笑うのか。

 過去の思い出を語る横顔が、どうしてあんなにも儚く、遠く見えてしまうのか。


 違う時を過ごしていた僕には、彼女が心の奥底に抱え込んでいる迷子の理由に、まだ辿り着くことができない。

 ただ、そのガラスの壁をどうにかして叩き割り、あの頃のように無邪気な、本当の笑顔を取り戻してやりたいという不器用な焦燥感だけが、胸の奥で静かに燻っていた。


「……」

「……絵海里?」


 不意に、彼女が言葉を切り、じっと自分の膝の上を見つめた。

 そして、何かを確かめるように、ゆっくりと僕の方へ顔を向ける。


「……伊織の手、少し借りてもいい?」

「え……?」


 僕が聞き返すよりも早く、絵海里の白くて華奢な指先が、シートの上に置かれていた僕の右手にそっと伸びてきた。

 そして、ためらうように空中で一瞬止まった後、僕の手の甲に自分の指先をそっと重ね合わせた。


「……っ」


 ひんやりとした彼女の指先から、微かな体温と、言葉にならない微かな震えのようなものが伝わってきた。

 それは恋人同士のようなどこまでも甘いふれあいではなく、迷子になった子供が、暗闇の中で必死に温かいものを探し求めているような……そんな切実なサインに思えた。


「……なんだか、伊織の手って、昔からすごく安心するんだよね」


 絵海里は僕の手の甲に指を重ねたまま、再び窓の外の暗がりへと視線を移した。

 夜の帳が下りた窓ガラスに反射する彼女の横顔は、少しだけ泣きそうにも、安堵しているようにも見えた。


 僕は重なった手を握り返すことも、振り払うこともできず、ただ息を潜めて、その小さな体温をじっと受け止めることしかできなかった。


 ガタン、ゴトン。


 遠くで鳴る踏切の音と共に、甘くて苦しい夏の夜が、静かに幕を下ろしていく。

 僕たちの間に横たわる『何か』の正体がはっきりと輪郭を現すまで、あともう少しだけ、時間が必要だった。


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