第51話 いつもの縁側と、ななか先輩の思案顔
水族館デートの甘い余韻が、僕と絵海里の間にほんの少しだけ特別な空気を残した数日後。
蝉時雨が響くいつもの縁側に、フワフワとした栗色の髪を揺らして絵海里がやってきた。
「伊織、ひなたちゃん! 今日は新作のタルトを焼いてきたよーって……えっ?」
手作りのケーキ箱を抱えて縁側に顔を出した絵海里は、ピタッと動きを止めた。
その視線の先には、僕が淹れた冷たい緑茶を飲みながら、行儀よくちょこんと座っている『彼女』の姿があった。
艶やかな亜麻色のロングヘアに、スラリとした高身長。黙っていればファッション誌から抜け出してきたモデルのような、ミステリアスな美貌。
「…………」
ななか先輩はコテリと首を傾げ、絵海里の持っているケーキ箱をじっと見つめている。
「えっ……えええっ!?」
絵海里はケーキ箱を抱えたまま、あわあわと慌てふためき始めた。
「い、伊織!? なんで縁側に、すっごく綺麗なお姉さんが座ってるの!? ど、どういうこと!? デートの直後にこんな強敵が現れるなんて、私、フランスで習ってないよ!?」
「いや、フランスで何を習ってきたんだよ、一体」
僕がツッコミを入れると、厨房から麦茶のピッチャーを持ってきたひなたが呆れたようにため息をついた。
「落ち着きなさい、絵海里ちゃん。その人は恋のライバルじゃなくて、ただの『伊織の試食係』だから」
「えっ、試食係?」
「うん。うちや伊織の和菓子を狙って縁側に現れる、食いしん坊なマスコット。ね、ななか先輩?」
ひなたに紹介され、ななか先輩は「……森園ななか。和菓子、好き」と短く自己紹介をした。
絵海里は目を瞬かせ、「そ、そうなんだ……びっくりしたぁ……」と胸を撫で下ろしている。わたわたと焦る姿が、小動物みたいで可愛らしい。
「初めまして、小鳥遊絵海里です。あの、これ……もしよかったら、先輩も食べますか?」
絵海里が箱を開けると、中には艶やかなフルーツがたっぷりと乗った、宝石のように美しい洋梨のタルトが入っていた。
それを見た瞬間、ななか先輩の瞳がキラリと輝く。
「……食べる」
切り分けられたタルトをフォークで一口。
サクッとしたタルト生地と、甘く煮詰められた洋梨が口の中でとろける。
その瞬間。先輩のミステリアスな美貌がふにゃりと崩れ、ぷっくりと両頬が膨らんだ。
「んんっ……!」
「わあっ……!」
完全に無防備な天使と化した先輩の姿に、絵海里は目をキラキラさせて身を乗り出した。
「す、すっごく可愛い……! ひなたちゃんの言ってたマスコットって、こういうことだったんだね!」
「でしょ? ほら先輩、口の端にクリームついてるわよ」
「ん……ひなたちゃん、ありがとう」
縁側は、三人の女の子たちの賑やかで和やかな空気に包まれていた。
絵海里の作ったタルトは本当に絶品で、先輩もあっという間に自分のお皿を空にしてしまった。
「……すっごく、美味しい」
「本当ですか? よかったぁ……」
絵海里がふんわりと嬉しそうに微笑んだ、その時だった。
「…………」
最後の一口を飲み込んだななか先輩が、ふと、空になったお皿を見つめて不思議そうな顔をしたのだ。
こてん、と首を傾げ、何かを探すように、もう一度フォークの先を見つめる。
「先輩? どうかしましたか?」
僕が尋ねると、先輩はゆっくりと顔を上げ、僕と絵海里を交互に見た。
「……ううん。綺麗で、すごく美味しいなって、思っただけ」
先輩はいつも通り、ぽつりとそう言った。
けれど、僕の作る素朴な和菓子を食べた後に見せる、あの「心の底からホッとしたような、体温のある笑顔」とは、ほんの少しだけ何かが違う気がした。
まるで、完璧で美しいタルトの中に潜む『何か』に、先輩の鋭い味覚だけが無意識に気づき始めているような、そんな不思議な思案顔。
「先輩、おかわりもありますよ?」
「……うん。いただく」
絵海里の嬉しそうな声に、先輩は再び、迷いのない手つきでフォークを手にする。
「よかったぁ! 先輩、もっと食べてくださいね。はい、こっちの大きいところ!」
「……ありがとう。えみりちゃん、いい子」
「えへへ、なでなでされちゃった……」
モデル級の美人に頭を撫でられ、絵海里はふにゃふにゃと幸せそうに顔を崩している。
「ちょっと先輩、私の時より甘やかしすぎじゃない!? 絵海里ちゃんも、そんなにデレデレしないの!」
「だって、ななか先輩すっごくいい匂いするんだもん……!」
「まったく、もうっ……。ほら伊織、お茶のおかわり淹れてきなさいよ。このままだと先輩、タルト一気に完食しちゃうわよ」
ひなたに背中を叩かれ、僕は「はいはい」と苦笑いしながら立ち上がった。
先輩のさっきの思案顔が少しだけ気にかかったけれど、今はそれ以上に、賑やかになった縁側の温度が心地よかった。
風鈴がチリンと涼しげに鳴る。
フランス帰りの完璧なタルトを囲んで、僕たちの夏休みは、また一段と騒がしく、そして甘く色づき始めていた。




