第50話 波音に消えた冗談。甘酸っぱい夏の幻
茜色の光が、絵海里の白い肌と栗色の髪を淡く染め上げている。
波が寄せては返す音だけが、やけに大きく僕の耳に響いていた。
「ねえ、伊織」
絵海里は悪戯っぽく小首を傾げ、その大きな瞳で僕を真っ直ぐに射抜いた。
「……私と、付き合ってみない?」
「…………えっ?」
ドクン、と。
心臓が大きく跳ねて、頭の中が真っ白になった。
波の音も、海風の匂いも、すべてが遠のいていくような感覚。目の前でフワフワと微笑む幼馴染の言葉が、すぐには理解できなかった。
「え、えっと……絵海里? 今、なんて……」
「…………」
数秒の、甘くて息苦しい沈黙。
絵海里は僕の顔をじっと見つめたまま、波が足元を引いていくのを待って。
「……ふふっ」
やがて、いつものお人形みたいに愛らしい笑顔をふわりと咲かせた。
「なーんて、冗談だよ。伊織、すっごく変な顔してた」
「じょ、冗談……っ! お前なぁ、そういう心臓に悪い冗談はやめろって! 本気にして倒れるかと思っただろ!」
「えへへ、ごめんごめん。からかいがいがあるから、つい」
ぺろりと舌を出して笑う絵海里を見て、僕はへなへなと肩の力を抜いた。
なんだ、からかわれただけか。綺麗な景色と彼女の大人びた雰囲気に当てられて、僕が勝手に舞い上がっていただけなんだ。
「……ほら、伊織。早く帰らないと、ひなたちゃんにまた怒られちゃうよ?」
「あ、ああ。そうだな。……足、ちゃんと砂落としてから靴履けよ」
「はーい」
絵海里はパタパタと砂浜を駆け戻り、防波堤にちょこんと腰掛けた。
僕もその後を追いかけ、隣に並んで座る。彼女がハンカチで素足を拭くのを、波音を聞きながらぼんやりと待っていた。
「……伊織のばか」
ふいに、隣からぽつりと呟くような声がした。
「え?」
「冗談って言ったのに、なんでそんなにホッとしてるの」
振り向くと、絵海里は防波堤に手をつき、少しだけ拗ねたように唇を尖らせていた。
夕陽を背にした彼女の顔は影になっていて、うまく表情が読み取れない。ただ、その声の響きだけが、やけに甘く耳に残った。
「いや、ホッとしたっていうか……いきなりであまりにも心臓に悪かったから……」
「ふーん……」
絵海里はサンダルに足を入れると、立ち上がって僕を見下ろした。
そして、フワフワとした栗色の髪を海風に揺らしながら、とびきり悪戯っぽい、小悪魔のような笑顔を浮かべた。
「じゃあ、伊織の心臓がもっと強くなったら……次は、冗談じゃなくなるかもね」
「……っ!」
言い残して、彼女は軽やかな足取りで駅の方へと歩き出してしまう。
「お、おい! 絵海里、ちょっと待てって!」
「ふふっ、早くしないと置いてっちゃうよー」
オレンジ色に染まる海を背に振り返る彼女のシルエットは、幼馴染の枠を軽々と飛び越えて、僕の心を甘くかき乱していく。
今年の夏は、きっと今までで一番、長く熱い季節になる。
そんな甘酸っぱい予感を胸に抱きながら、僕は慌てて彼女の背中を追いかけた。




