第46話 待ち合わせ。大人の香りと少しの緊張
茹だるような真夏の熱気が、駅前のアスファルトから陽炎のように立ち上っている。
週末の午前十時。
待ち合わせの時計塔の下で、僕は柄にもなくそわそわと落ち着かない時間を過ごしていた。
(……やばい。なんか、すっごく緊張してきた)
いつもなら、出かける時は隣に騒がしい看板娘がいるのが当たり前だ。
しかし今日のひなたは、出がけに隣の家を覗いても「私はお店の手伝いで忙しいの! 勝手に行ってきなさいよバカ伊織!」と、真っ赤な顔でピシャリと窓を閉めてしまった。
つまり、本当に正真正銘、僕と絵海里の二人きりなのだ。
「……伊織」
ふいに、背後から鈴を転がすような甘い声がした。
ビクッとして振り返ると、そこには日傘を傾け、ふんわりと微笑む絵海里の姿があった。
「ごめんね、待たせちゃった?」
「えっ……あ、いや。僕も今来たところ……って」
言葉を返そうとした僕は、彼女の姿を前にして、文字通り息を呑んでしまった。
数日前にうちの縁側へ来た時の、あの純白のサマードレスも鮮烈だった。
けれど今日の絵海里は、涼しげなノースリーブのアイスブルーのブラウスに、歩くたびに透け感のあるネイビーのロングスカートが揺れる、少し大人っぽい装いだった。
いつもより念入りに巻かれた栗色のハーフアップ。華奢な鎖骨には、華奢なシルバーのネックレスがキラリと光っている。
僕の記憶の中にいる、粉まみれになって無邪気に笑っていた『幼馴染』の姿は、そこには微塵もなかった。
目の前にいるのは、すれ違う人が思わず振り返るような、洗練された一人の魅力的な『女の子』だ。
「……どうかな?」
絵海里は日傘を閉じると、少しだけ上目遣いになって、照れくさそうにはにかんだ。
「その……伊織と二人きりでお出かけするの、すっごく久しぶりだったから。ちょっとだけ、背伸びしちゃった」
「あ、いや……すごく、綺麗だ。似合ってる」
「ふふっ。伊織にそう言ってもらえるのが、一番嬉しいな」
絵海里がパァッと花が咲くように笑い、一歩、僕のほうへ距離を詰める。
その瞬間、彼女の髪から、いつものお菓子のような甘いバニラの匂いに混じって、少しだけ爽やかな柑橘系の……大人の香水のような匂いがふわりと漂ってきた。
ドクン、と。
自分の胸の奥で、警鐘のような、期待のような、厄介な音が鳴る。
「……行こっか、伊織」
「お、おう」
僕がぎこちなく歩き出そうとすると、絵海里はすっと腕を伸ばし、僕の二の腕に自分の細い指先をそっと絡ませてきた。
「えっ」
「私、この街の新しい駅ビルのお店とか、どうやって行けばいいか全然わかんないんだ。だから……」
絵海里は僕の腕に軽く触れたまま、フワフワとした愛らしい笑顔で、小悪魔のように首を傾げた。
「今日は一日、エスコートよろしくね?」
「……っ」
腕に触れる、彼女の少しひんやりとした体温。
見上げ回してくる大きな瞳と、甘くて大人びた香り。
昔のままの『優しいお人好し』な空気の中に、フランスで過ごした彼女の『僕の知らない時間』が、圧倒的な引力となって僕を絡め取っていく。
ただの幼馴染だと思っていた枠組みが、音を立てて崩れていくのを感じながら。
僕たちの、少しぎこちなくて、どうしようもなく甘い夏のデートが幕を開けた。




