第100話 見えない壁。崇拝という名の孤独(ななか視点)
放課後。
私は、いつの間にか一年生の教室へと向かって歩いていた。
賑やかな校舎の中、ふと……伊織くんに会いたい、という気持ちが胸をよぎったから。
昨日、生徒会室で交わした小さな約束。彼に会えば、この漠然とした不安も、少しだけ和らぐような気がした。
「……あ」
「な、ななか先輩だ!」
「わざわざウチのクラスの視察に!?」
教室の入り口に姿を見せると、準備で活気づいていた空気が一瞬で静まり、そして波のような感嘆の声へと変わった。
私は少しだけ躊躇いながら、段ボールで看板を作っている生徒たちの輪に近づいた。
「……私も、何か……手伝って、いいかな。……色塗りとか……できるから……」
少しでも、みんなと同じ輪の中に入りたくて。
そっと筆に手を伸ばした、その時だった。
「と、とんでもない!! ななか先輩はそこにいてくださるだけで、我々の士気が上がるんです!」
「そうです! 先輩はこのクラスの宝物ですから。こんな汚れ仕事、絶対にさせられません!」
「先輩は、あちらの椅子に! どうか、我々の頑張りを見守っていてください!」
クラスの男の子も女の子も、みんなが輝くような瞳で私を見つめ、丁寧に、大切に……私の手を止めた。
みんな、本当に優しい。私をこのクラスの特別な存在として迎え入れ、傷つけないように、汚さないようにと、心から敬ってくれている。
でも。
(……やっぱり、私は……違うんだ)
用意された椅子に座り、楽しそうに作業を再開するみんなの背中を見つめる。
手が届きそうな距離にいるのに、誰も私に筆を渡してはくれない。誰も、私と同じ目線で汗を流そうとはしてくれない。
みんなの真っ直ぐな憧れが、目に見えないほど透明で、でも決して壊せない分厚い壁になっていく。
気がつけば私はまた、誰の熱も届かない……冷たい『ガラスの箱』の中に、ぽつんと一人で座らされていた。
……寂しいなんて、思ってはいけない。
みんなを笑顔にしたいのに、私はただそこに置かれただけの飾り物みたいで。私はただ、膝の上で両手を握りしめ、いつものように……静かに微笑むしかなかった。
「……ななか先輩」
ふと、横から柔らかな声が降ってきた。
顔を上げると、そこにはジャージ姿の伊織くんが立っていた。
彼は、戸惑うように周囲を見渡してから、私の隣に一脚の椅子を引き寄せた。
「……伊織、くん。……準備、お疲れ様……」
「先輩、すみません。みんな、先輩のことが大好きで、大切に想うあまり……少し、空回りしちゃってて」
伊織くんは「ここ、座ってもいいですか?」と優しく断りを入れてから、私の隣にそっと腰を下ろした。
誰にも触れられなかったガラスの箱の隣に、彼だけが、私の温度を確かめるように寄り添ってくれる。
「……ううん。……みんな、優しいから。……私、見てるだけで……十分、楽しいよ……」
「……そうですか? 先輩、なんだか……とても遠くを見ているような、そんな顔をしていたから」
ハッとして、私は視線を伏せた。
ずっと隠してきたつもりだった。誰にも見えないはずの、箱の中の孤独。
でも……お菓子を通じて私の心に触れてきた彼は、その奥にある小さな震えに、気づき始めているのかもしれなかった。
「……そんなこと、ない……よ。私は……大丈夫……」
「そう……ですね。でも、ずっと座っているのも疲れちゃいますよね。……そうだ」
伊織くんは何かを思いついたように、少しだけ照れくさそうに笑った。
「僕たち、コンテストに出るじゃないですか。……その、ぶっつけ本番でステージを歩くのも、緊張しちゃうと思うんです」
「……うん」
「だから……『練習』しませんか?」
伊織くんの言葉に、私は顔を上げた。
不器用で、でもたまらなく温かい光が、彼の瞳の奥に灯っている。
「今度の週末。パートナーとして息を合わせる練習……っていう名目で。僕と二人で、どこかに出かけませんか」
その瞬間。
私を閉じ込めていた冷たいガラスの箱の外側から、トントン、と……優しい指先で叩かれたような気がした。
彼は、私を『高嶺の花』として飾っておくためにここへ来たんじゃない。
私を……この静かすぎる場所から、連れ出すための誘いをくれたのだ。
「……練習、だもんね。……行かなきゃ、ダメだよね……」
胸の奥が、ぎゅっと熱くなる。
私は、自分でも驚くほど素直な気持ちで、彼を見つめ返していた。
「……うん。……行く。……伊織くんと一緒に……外の世界を、見てみたい……な……」
賑やかな教室の片隅。
誰にも聞こえないくらい小さな声で交わされたその約束は、私にとって、初めて自分から箱の外側を覗いてみたいと願った……確かなはじまりの予感だった。




