第九話 自爆鮫く
コボルトを合計で二十匹も狩った頃、海月は虚しさを覚えていた。
より正確には虚しさが募りすぎて無視できなくなったというか。
どうもコボルトはここら辺に侵出してきている様子で、奴らのせいで海月は他の動物をあまり見かけなくなった。
だから海月は一度は食べないことにしたコボルトを食べることにしたのだが、旨くなかった。
いや、味はヤマネコよりは旨い。付加増強系こそないが、内臓や肉にはそれなりの効果があり、AR表示付きではない動物の肉よりも有用だ。保存食にして備蓄も進めている。眼球にある毒性付加にも有効な使い途が見つかった。コボルトが主食にしているらしい、甘くないリンゴのような果物の果汁と混ぜて加熱すると無毒化できるのだ。つまりコボルトの眼球から毒を付加した鏃などで動物を狩れば、そのリンゴもどきと調理することで食べることが出来る。殺傷力の小さい矢などでも動物を狩れるというのは大きい。鏃を作る手間を掛けなくともよいということだからだ。
だから無益ではない。
けれど、虚しいのだ。
自分でどうにも判然としないが、気分が優れない。体調が悪いわけでもないのだが、動くのが億劫だった。
どうしてそういう気持ちになるのかはわからない。けれど原因は瞭然としている。
コボルトを狩っているからだ。
それでも惰性でコボルトを探し、これだけ狩っているのだからいい加減懲りればいいのに、と思いつつもそれほど歩き回らずに奴らを発見する。
そして、海月の気分が氷点下にまで下がる光景が、そこには展開されていた。
「……」
奴らは仲間を食っていた。
海月はコボルトの死体を全部は持ち帰っていない。だから奴らが食っているのは海月が殺して放置した奴らの仲間だ。
そういえばこれまで放置してきたコボルトの死骸を見かけていなかった。海月は拠点から同心円状に探索範囲を広げていたから、必然的に以前に狩った死体を見かけていたはずだった。てっきりヤマネコ辺りが始末しているものだと思っていたが、どうやらこういうことだったらしい。
どういう感想を抱けばいいのか、わからなかった。
わからないまま、奴らは殺した。仲間を呼ばせず――挑発を掛ければ奴らは仲間を呼べない――一体を弓矢で始末し、残り二体は挑発して短剣で殺した。
食われかけのコボルトを見下ろしながら、考える。
主食がリンゴもどきとは言っても、肉も喰らうだろうというのはわかっていた。
ヤマネコがシカを狩るところを見ても、海月はこんな気分にならなかった。
では同種族で共食いしていたからだろうか。
確かにそれで気分は酷く落ち込んだ。
でも、わからない。そのことばかりのせいではない。気分が沈んでいたのはこれを見る前からだ。
わからないから海月は、三体の共食いコボルトを殺したその足で、砂浜に向かった。
快晴だった。
水平線が見えるまで広がる空を眺めていると、少しだけ気分が晴れたような気がした。
密林では空が狭かったのだと実感する。
空の広さに引き摺られたか、盛大に腹の音が上がった。
食うに困ってはいないが、食欲は気分と同じく下がっていたから、気分が晴れて食欲が復活したのだと考えれば、空の広さのおかげと云えないこともない。
けれど保存食は元より、肉を食いたい気分でもない。甘さが足りない果物も何か違う。
魚を食べようと思った。そういえば、焼いた魚は食べたことがない。
岬の先の崖から魚釣りをしている自分の姿を思い浮かべると、悪くないと思った。初めて獲ったのが魚なのに、不味かったことの残念な気持ちを晴らすのにもきっといい案だ。
そうと決まれば釣り具を作らなければ。
さっそく第一拠点に置いておいたシカの角を切り刻んで石をやすり代わりに研磨して釣り糸を作ったり、クギキで竿を作ったり、クギイトから糸を作ったり。
そんなことをしている間に陽が沈んだ。
細かい細工を作るのには思いの外時間がかかる。けれど気分は晴れたままだったので、構わなかった。
ただ、道具を作るための道具というのを揃える必要を海月は考えた。
例えばコボルトが四体に一本くらいの割合で持っている、黒曜石っぽい短剣など、これを強化すればいい刃物として使えるのではないだろうか。現状、ただの石包丁よりは切れ味がよいが、耐久力で言えば石包丁と変わらない。力加減を間違えると簡単に剥落してしまうのだ。
これは海月の力が強すぎるせいであり、本当に黒曜石だとこうまで簡単に剥落はしないはずだ。けれど使うのは海月なのだ。
今回作ったシカの角の釣り針など、細かい物を作るのに適している。これをもっと強化する方法があれば、今まで石包丁では切れ味がなさ過ぎてできなかった細工も可能になる。
無機物にはAR表示が付かないが、AR表示素材で加工したら付くことがあるので、試してみたいところだ。効果が付けば大抵の素材は頑丈になる。
因みにナメシ草液では鉱物にAR表示を付けられないことはすでに試してある。黒曜石だと何か違うかもしれないので、一応ナメシ草液に浸けて置いてみた。まあ期待はしないでおく。
他にも添加系のAR表示素材といえばゴジュエジュの樹液だ。これを使うのは少々もったいないが、水で薄めたものに浸けておく。
他にも使い途が見当たらなかった花の花弁をすり潰して塗してみたり、乾かさないクギイトで包んでみたり、クギキに突き刺してみたり、もったいないがコボルトの眼球を潰して出た液に浸したりしたところで手持ちの黒曜石が尽きた。
作業をしていてほどよく疲れたところで、これまで狩った動物の毛皮を敷いたハンモックに横になり、その日は眠った。
悪くない眠りだった。
翌朝、目覚めてさっそく釣りに出かけた。
黒曜石の加工結果の確認は釣りが終わってからでもいいだろう。ぱっと見た感じではどれも成功している気配はなかった。
まあそりゃそうである。一番可能性のありそうなナメシ草はどれよりも手に入りやすく、そして動物に踏み潰されやすい。つまり鉱物にその液が付きやすいのだ。それで今までの探索でAR表示が付いた無機物を発見できていないのだから、ナメシ草がむしろ一番可能性が低い。
一番可能性がある、というか成功が確約されているのが、コボルトの水晶体液だ。最低でも毒性が付くだろう。単なる毒だけという可能性が高く、黒曜石自体にAR表示は付かないかもしれない。まあ毒だけだった場合、割って鏃にでも加工すればいい。
海月は起きてからつくづく思ったのだが、物を作っているほうがいいらしい。狩りは決して嫌いではないが、殺すために殺すのは何か違う。
つまらないことはしたくない。コボルトを殺すのは、つまらない作業だ。
砂浜を掘ってゴカイらしきうにょうにょとした細長い生き物を集めた。ヤドカリなんかも獲っておく。餌である。
そうやってから釣り針に沿うようにゴカイを付けて、小石に孔を穿って糸を通した錘と一緒に糸の先に付ける。
クギキ製の竿のしなりを使って崖の上からヒュっと糸の先を放った。
後は待つ。
ジリジリと日光が肌を灼く。
何か失敗したかなと思い始めた頃に、竿の先がツンツンと動いた。
少しだけ待つ。
ぐいっと引く。
手応えがあった。リールなどないので片手で竿を引き上げつつ、竿の先に通した糸を残りの片手で巻き取っていく。腕力に飽かせたやり方だ。
引き自体はそんな大した物でもなく、返しのついた釣り針はしっかり獲物の口を捕らえていた。
釣り上げてみると、中々の達成感。
体長十五センチ前後くらいの、名前のわからない魚だ。
多分毒はないだろう。食いでが中々ありそうだ。
下口を掴んで口の上に刺さっている針を外し、まだ活きている魚の頭を抑えて腹を石包丁で裂いた。内蔵を掻き出す。クギキの細枝を口から突っ込んで串刺しにしてから持ち、石包丁で逆なでしてから鱗を大雑把に剥ぐ。そしてナメシ茶で洗った上で塩を塗した。
腹が減っているのでさっそく食べようというのである。
すっかり手慣れた石竈を組んで火を熾す作業の後に、庇を設置し、石竈の前の地面に串を刺して炙り焼きにする。
脂が垂れて枝と地面と混ざり、香ばしい音と匂いがする。大層食欲が刺激された。
かぶりつく。
魚肉も肉も必ずしも戦度が命ではないことを最近学んでいた海月だが、このただの塩焼き魚は大変美味に感じた。
やっていることはこれと大して変わりないのに、どうしてここまで違うのだろう。
コボルトを殺すことと比較して、海月は思う。
やはり、感情移入の度合いと方向が真逆と言っていいほど違うからだろう。
我が事ながらサイコパスと呼ばれても仕方がないと海月は思うが、命を狩るとき、海月は対象を愛しく思っている。
コボルトに抱くのは、憎悪だ。嫌悪にも近い。
てっきり憎い相手を殺せば気分は晴れるものだとばかり思っていたが、虚しくなるのだと、海月は知った。
いなくなってほしいのと、殺してやりたいのとは、全く別の感情なのだ。
もうやめようか。
再び竿を振って糸を垂らしながら物思いに耽る。
気分が沈むとわかっているのにコボルトを狩り続けるのは、想像するだけで虚しくなる。
まるで迷っているかのような自分への問いかけだったが、答えは出ているようなものだ。感情的には、もうコボルトとは邂逅さえしたくない。
けれど現実問題として、元ゴウワンザルの支配領域は欲しいし、コボルトが元ヤマネコ支配領域にまで侵出してこないという保証はない。むしろ第二拠点を放置すれば奴らは第一拠点にまで侵出してくるのではないか。その蓋然性は高いように思う。
なぜなら――共食いしていたことを思い出す。儀式的な意味合い以外での共食いは、奴らが食料に困窮しているという事情を示唆している。共食いはリスクが高い。クロイツフェルト・ヤコブ病などの例から考えてそれは明らかだ。共食いが珍しいとまでは言わないが、飢餓でもなければ同種族を食べないのが自然界に於ける基本的なルールであるはずだった。
二十体も殺されて懲りずに侵出を仕掛けてくることといい、奴らはおそらく増えすぎているのだ。狩猟採集では賄いきれないだけの大きな共同体を形成しているとしたら、色々と納得できるところが多い。
つまり海月は奴らの間引きを請け負っているような構図であろうと推測された。口減らしに利用されているのである。
それは気に食わないことだが、重要なのはそこではない。
どれだけの大きさの共同体かはわからないが、二十体程度では口減らし数が足りなかったということで、海月はやもすればそれに倍するコボルトを殺さなければならない。
想像するだけで気鬱に陥った。
それに、せいぜい三体から五体くらいの群れであるから海月も余裕で殺せているものの、これが二十体と一度に会敵していたらさすがに余裕はない。下手をすればやられてしまう。
感情的な問題を除いたとしても、このまま地道にコボルトの数を減らし続ければいいというわけでもないということだ。いつこの一組が三体から五体という形式が変更されるか知れたものではないからだ。
海月がこれまで狩ってきたコボルトたちはいわば共同体からあぶれたモノたちなのであり、おそらくコボルトの中でも弱い方だ。本格的な侵出の前触れでしかない可能性も考えられる。
やはり、大本を突き止めなければ始まらないし、根本を絶たなければ終わらない。
それが嫌なのだけど。
大きな共同体――きっと原始的とはいえ、それは社会と呼べるものだろう。
それを目の当たりにすることが、恐ろしいのだ。
初めから、その共同体の拠点を突き止めることを最優先にすべきだとわかっていたのに、避けてきてしまった。
コボルト自体には恐れはない。けれど、その社会が恐ろしい。
自分を脅かすほど強くもないはずなのに、恐怖させるコボルトが憎い。憎しみで殺しているから辛い。
竿がしなり、割と強い引きが来ているのに海月はしばらくそれに気付かなかった。
気鬱に沈んでいたからだ。
気付いてからも、なんだか釣り上げるのも面倒になっていた。逃がすならそれでもいいかと放置した。
針に食い付いた魚は闇雲に泳ぎ回って海面を糸で切り回る。その無軌道ぶりから海月は哀れを催した。しっかり針が刺さっているから外れないようだ。喉の奥まで飲み込んでいるのかもしれない。魚に痛覚はないというが、本当かは知らない。何はともあれ辛そうであることは確かだ。辛さに同情した。自分で針を垂らしておいて。つくづく身勝手だった。
何より自分を億劫に思いながらも腕に巻いた糸を手繰る。楽にしてやろうと思ったのだ。
そうしたら、魚にとっての救い、あるいは絶望の手は別のところから差し伸べられた。
海面が不自然に盛り上がったと思った瞬間、鮫の鼻先が飛び出してきたのだ。
続いて見えた鋭い牙の並ぶ口には針に掛かった魚が見えた。
AR表示付きの鮫だった。
そういえばそんなのがこの島の近海にはうろつき回っているのだった。おそらく近海のヌシというところなのだろう。この不思議な島ならありえる話だった。
砂浜から海を少し行くといきなり段差になっていて、潮の高さによっては二倍以上に深いときもある。この周辺の海は浅瀬が少ないのだ。潮が満ちると奴のせいで第一拠点に行くことができないということが問題になっていることを思い出した。
――狩るか。
決意する。
糸はあっさり切れた。こんな釣り具ではとても鮫は釣れない。
奴専用の道具を作らなければならない。
さっそく取りかかろうと、竿をその場に放棄して、海月は第二拠点へと足を向けた。
コボルトのことを後回しにできる。
現実逃避するのにうってつけの相手を再発見したから、海月は笑った。
それは自嘲だった。
鮫を釣るのは現実的ではない。AR表示付きの鮫のことだ。最低でもその牙には切断とか貫通とかの強力な効果が付いているのだろう。ヤマネコなどと比較して優劣があるのかどうかは表示内容からはわからない。何にせよその牙の前に耐えられるような強靱な糸や針など用意する手立てはない。
けれど水中で戦って勝てる見込みはどこにもないから、地上からどうにかするしかないだろう。
そこでさっそく、黒曜石が役に立つ。
効果添加実験が成功したのは二つあった。二つも、というべきだろう。
コボルトの眼球はもちろん、もう一つは意外というべきか、ゴジュエジュの樹液だ。
コボルトの眼球で付いた効果は【毒性】の他に、【磁性】もあった。意外とは思わないが、素材が眼球だけでその効果が付くというのは少しだけ意外である。確か鮫はある種の電磁波を嫌うはずだったから、もしかしたらこの効果で混乱などを引き起こさせるかもしれない。毒性がどれだけ強いかわからないので、そうした効果を見込めるかもしれないのはありがたい。
ゴジュエジュの樹液で付いた効果は、【強靱性】及び【修復】だ。前者はなんとなくわかるが、後者はさっぱりわからない。注釈をよく読んでみると、修復といっても自動でそうなるわけではないようだ。同一の素材と合わせて置くと破損する以前の形に戻るという。それでなんとなくわかった。ゴムの復元力という性質が敷衍的解釈されているのだろう。回数制限もあるようだし、そこまでぶっとんだ効果というわけでもない。
【魔眼の黒曜石】
【バネの黒曜石】
前者はもちろん有用だし、後者も使える。あとネーミングへのツッコミは受け付けない。
ただ、【バネの黒曜石】は、この効果を付加した時点の形が記憶されるらしく、短剣の形から加工させることはできないということになってしまう。
石包丁に代わる細工用の道具として使う以外に今回は使えない。
従って鮫を狩るためには【魔眼の黒曜石】を使うのがいいということになる。これを返しが付いた鏃に加工すれば、地上から狙い撃ちして安全に鮫を狩れる。
問題があるとすれば、水中の鮫の、しかもAR表示付きを地上から撃ってこれが刺さるかということだ。ヤマネコの爪などであればさすがに刺さると思うが、鮫肌はいかにも頑丈そうだし、おそらくヤマネコやゴウワンザルの毛皮並みに強いだろう。
返し付きの鏃に頑張って加工して、ゴジュエジュの樹液に浸けてみる。効果の重ねがけはできることもあるし、できないこともあるが、損はないのでやっておく。
鏃の作製の時点ですでに陽は沈んでいた。効果が付くまで時間が掛かるようだが、どのみち今日はもう無理だ。
他にもロープを編んだり、太い矢を作ったり、ゴウワンザルの指先の骨を鏃に加工したり、そうしたことをしてから眠りに就いた。
翌朝、確認すると首尾よく【バネ魔眼の黒曜石】という、さすがにどうにもツッコミが抑えられない名称の鏃が完成していたので、一頻り石で叩いて強靱さが増していることを確認してからさっそく対鮫用武器の作製に使用する。
シカの燻製肉を食べて朝食を済ませ、それからボーラを作って鳥を生け捕りにしに出かける。
AR表示付きではないが、ただのムコウドリが獲れた。ほどよく小さい。
岬の迫り出した崖まで行って、騒がしいムコウドリの鳴き声をBGMにいくつかの適当な棒をロープで縛ってつなぎ合わせて長さを確保する。
その長い棒の先にロープを結わえ、そのロープの先にムコウドリを逆さに縛り上げる。
短槍としても使えそうなほど太い矢の後ろに空けた孔にロープを通し、密林の樹木にもう片側を結んできた。
準備が出来ると、ムコウドリの首を落として、噴き出る血を海に振りかけた。そして棒の先を海の方へと向けて伸ばし、突きだした岩に結んで固定する。その棒の先には首のないムコウドリが未だに血を垂らしている。
単純な作戦である。ムコウドリの死体に飛び付いてくるであろう鮫をロープの付いた毒矢で穿つ。
これもある意味釣りと云えるだろうか。
まあ失敗してもリスクはない。これでダメだったらダメだったなりに次を考えればいいのだ。
地上にいる限りに於いて早々水棲猛獣が脅威となったという話は聞いたことがない。
いや、例外があったか。シャチだ。
シャチは氷山上に乗り上げてアザラシを補食するという。氷山は厳密には地上ではないが、位置関係としては似たようなものだろう。乗り上げるというとまだ優しい感じで、それはもう飛翔して食い付くと云ったほうが的確な表現だとか。鯨とイルカとシャチの間に分類学上の差は殆どないという話だし、シャチを巨大なイルカだと見なし、イルカの曲芸を思い浮かべればその表現の的確さを納得できる。
だがまあ、あのAR表示付きは鮫だとはっきりしている。しっかり見た。近海を泳ぐような鮫としては巨大だったが、シャチほどには大きくもなかったし、そもそもフォルムが全然違う。
気楽な狩りだと安心の要素を数え上げて、矢を番えて構えながら、海上にAR表示付きの背ビレが浮き上がってくるのを、岬の出っ張りに出て確認する。
きちんと穿てる保証がないので、できるだけ近距離から放とうという算段だった。
ただ――その背ビレがこちら側に迫る速度が、予想以上に速い。水しぶきどころではなく、その背ビレに切られた海面は激しく白い波が立っている。
六十ノットは超えているのではなかろうか。秒速にして約三十メートルだ。時速のほうがわかりやすいので百八十キロメートルだ。
――え? 何、そんな勢いで岸壁に迫ってくるの? バカなの? 死ぬの?
思わず詳しくもないテンプレネタ発言が海月よりも二オクターブも高い声で脳裏に木霊した。
確かあのくらいの鮫の体重は千キログラムくらいだったはずだ。運動エネルギーにしてどれくらいだろうとか思わずその数値を算出してしまう海月である。単位ジュールだと四万五千。計算しやすい数字だった。ところで約五万ジュールってどれくらいなんだろう。五万キログラムの剛体に衝突すれば、摩擦を考えなければ一メートル動かせる力だっただろうか。受験勉強の記憶はそう遠い昔ではないのにうろおぼえである。というか五万ジュールという数値が今ひとつ想像できない。天文学的というほどには大きくないが、日常的にはまず出てこない単位で数値だ。
まあ何にせよ、そんな運動エネルギーで例えば岩壁に衝突したら、どちらも無事では済まないだろう。岩壁は砕けて陥没し、鮫の鼻先はぐしゃりと潰れるイメージだ。それで鮫が無事だったらそれは理不尽以外の何物でもあるまい。想像するだけ無駄というものだった。
そしてそんな勢いで迫ってきている鮫は、唖然とする海月をよそに不意にその姿を消した。背ビレが沈んだのだ。
五秒あればムコウドリが血を垂らす位置に到達したという辺りでのことだ。
鮫がいることがわかってから、海月は第一拠点に行くとき以外には海に入っていない。要するにこの辺りの海底の地形がどうなっているのかを具体的に確かめていないということだ。浅瀬が少ないことくらいしか、知らない。だからもしかして、岸壁にでも衝突して自爆したのではなかろうかと、一瞬だけ思って少しだけ身を迫り出して海を見下ろした。
やった直後に省みて自分がバカだなと思うことは、割と頻繁にある。そんな覚えがないヒトはおそらくいないだろう。いたとしたら超人か大馬鹿者かのどちらかだ。超人に見せかけているというヒトはいるだろう。そしてその超人の振るまいの真似は実際正しい。なぜならそこで反省するからバカなのだ。反省は後からすればいい。余所からは判別できないほど即座に反省を忘れて行動を突き通すか取り消すかの二択を選択することが正解なのだ。誤魔化そうとしたり反省を反映させようとしたりすることが凡愚の所業なのである。
そして海月は凡愚だった。
行動を停滞させてしまう。
次の瞬間のイメージがすでに脳内には出来ているのに、そのイメージが現実に投影されるかのように実現されても、すぐには動けなかった。
鮫は一瞬だけ沈むという溜めを用いて、海中から飛び出してきたのだ。
それは海面が破裂したかのような光景だった。実際、牙がギザギザに並ぶ大口の中の歯茎や咥内は真っ赤であり、そこだけ見ていれば動物の骨肉が爆弾で弾ける寸前のような映像だ。
そんな口は首無しのムコウドリをすっぽりと嵌めて、それに留まらず棒を砕き、そして衰えぬ勢いのままに海月へと躍りかかってきていた。
それで海月は、この鮫に大分前からロックオンされていたのだと知った。おそらくはヤマネコを解体していたときから。
どう考えても鮫は初めから海月を狙っていた。ムコウドリを口の中に収めたのはついでとしか思えなかった。
避けられない。空中に飛び出したことで多少減速したとは云っても、プロ野球選手の速球なみの速さでその巨体は迫っているのだ。それを僅か三メートルの猶予で避けるなど不可能だし、本来なら認識さえも困難を極める。
けれど海月は自分の失敗を覚り、あまつさえ鮫の大口が迫ることを認識している。走馬燈であった。認識が引き延ばされている。
だが海月にできたのは半身を逸らすことだけ。ゴウワンザルのときの経験が蘇る。認識だけが引き延ばされたところでできることなどないのだ。むしろ反射的な動きを阻害する。
そして時間が弾ける。同時に海月は吹っ飛んでいた。崖から身を迫り出していたことが、この場合不幸中の幸いだった。鮫が目測を誤った。僅か半歩分、身体を横に傾けたことで、鮫の大口ではなく、鼻先に肩が衝突したのだ。
肩に当たったのに、その肩にはゴウワンザル毛皮の肩当てがあるのに、全身がバラバラになったと錯覚するほどの衝撃。なにしろ四万ジュールは下らない。
後ろの密林まで吹っ飛んだ。矢と繋いでいるロープを括り付けた木の幹に衝突し、太い枝に引っかかる。
肩が脱臼している。それだけで済んだのはゴウワンザルの肩当てのおかげだ。
間違いなく食われたと思ったのにこれだけで済んだのは僥倖と言うほか無い。ここまで吹き飛ばされれば鮫は追撃できない。
できないよな? とおそるおそる岬を窺う。
いきなり鮫に手足が生えて魚人さながらになって海月に追撃を仕掛けてくる――なんてことはさすがになかった。
岬の上に乗り上げてビチビチと尾を振り回し、跳ねている。
このまま放っておけば、エラ呼吸の鮫は絶命する。
ちっとも予定通りに行かなかったが、目的は達成した。
そう思って息を吐くが、鮫は尾を振り回してズリズリと後退している。
この調子なら遠からず海に舞い戻ることになる。
はっきり言って自分の間抜けのせいだが、ここまで損傷を負ってそれではあまりに報われない。
肩が外れているが、弓は一緒に飛んできている。矢もある。撃てないだろうか。
無理矢理肩を嵌めるか。しかしやり方を知らないし、仮に出来ても嵌めた直後に弓を支えるようなマネができるはずもない。
いや、弓を支えることなら今ならできる。枝に座っているような今の体勢なら可能だ。
足裏に弓を引っかけて、弦を無事な片手で掴んだ。いけそうだ。矢を番える。安定しないので、両足で支える。片腕が動かないせいで大分無理な姿勢だったが、照準は安定した。海月自体が弩のような体勢である。
無理な姿勢のために逡巡するような余裕はない。背筋を使って思いっきり引いた弦を、放つ。
次の瞬間、足の甲に激痛が走る。
弦が激しく打ち付けたのだ。
声にならない悲鳴が海月の口から飛び出した。足袋を履いていなければつま先が切り飛んでいたに違いない。
自爆ばっかりだ。
鮫もある意味で自爆だ。
矢は鮫の顎下に突き刺さっていた。そしてその衝撃で崖からずり落ちる。痛みで生理的に涙が滲む視界で、海月はそれを見届ける。
ひどく間抜けな顛末だが、海月は砂浜近海のヌシをこうして降したのだった。