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鳴らない鈴  作者: 久賀 広一
3章 遠き思い、近き人
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第18話 一番の問い


 段差を下りるたび、足裏の感触が変わった。

 上では「積もった紙」だった床が、奥へ行くほど硬くなる。紙の層の下に、金属の骨が通っている。

 見えないところで、国ひとつ分の重みを支えるための骨組みのように感じる。


 黒線は、三人の足首に触れたまま、先へ伸びている。 これまでより少し、かすように引いている。


 ギ、……ギィ。

 あの軋む音が、また鳴った。

 今度はかなり近い。 湿った紙の匂いの下で、鉄と古い油の匂いが濃くなる。


 コハクが先頭のまま、肩越しに言った。

「……台車、だよね」

「この国じゃ、“人を運ぶ道具”は、最後に全部そうなる」

 碑守がそう、低く返した。

「縁起でもない言い方しないでよ」

「縁起で済んでおれば、こんな底は作られんだろう」


 ツムギは口を挟まない。

 いまは言葉より先に、喉の奥が拾うものを確かめたかった。

 前方の空気が、わずかに揺れる。

 風や声、人の息ではない。誰かが、意識を保つために歯を食いしばっている時のような、身体の内側の震え。


(……いる)

 黒線が、段差の最後の縁を強調した。その先で空間が開ける。


 三人は、ほぼ同時に足を止めた。

 そこは部屋というより、また作業場のような造りに戻ったようだった。 

 四角く、低い天井。壁は紙束の層だが、腰の高さから下は金属板で補強されている。    

 中央に、レール。 細いレールが一本、手前から奥へ走り、その上に、古びた小型の台車が載っていた。


 台車の上には、人がいる。

 青年だった。

「……!」

 ツムギの胸が強く鳴る。

 生きている。少なくとも、まだ終わっていない。


 青年は仰向けではなく、横向きに倒れ込むような姿勢で台車に乗せられていた。

 手足を縛られているわけではない。けれど、起き上がるたびに台車の縁に走る細い黒線が、肘や膝の動きをやわらかく押し戻している。

 暴力的ではなく、「自分で諦めた形」に見える程度の力で、動きを削っているようだ。


 コハクが近づいて、膝をついた。

「照会者!」

 何かを云々(うんぬん)するより、気持ちが先に出た声だった。

 青年の瞼が、ぴくりと動く。開くまでに、一拍かかる。


 目が合った。

 焦点が揺れていたけれど、次の瞬間、はっきりと三人を認識して、青年は愕然とした。

「……なんで」

 かすれた声。ここでは、普通に音が届く。

 碑守が吐き捨てる。

「運用の底は、あっちの都合が悪い時ほど“説明のための声”を許すからな」

 青年は、笑おうとして失敗した。

「最低の親切だな……。国の人々の思いとかじゃなく、為政者こそが“国”だと勘違いした表れだ」


 ツムギは青年のそばへ一歩寄りかけて、止まる。

 黒線が、台車の縁で一度だけ強く光ったからだ。おそらく、触れるな、の合図だろう。

 代わりに目線を合わせる。

「動ける?」

「……少し」

 青年は息を整えてから続けた。「でも、動くほど……“処理に同意してる形”に寄せられるみたいだ」

 コハクが、舌打ちを飲み込んだような顔をした。

「ほんと、最後まで“責任はあなたにあります”って言いたいんだね、この国の機関は」

 その時。作業場の奥で、金具が鳴った。


 カン。

 三人が、一斉に顔を上げる。

 奥の左側――紙束と金属板の境目に、横長の窓があった。さっきの“説明窓”より、ずいぶん大きい。

 どうやら、人に見せるための窓じゃなく、向こうからこちらを確認するための監視窓のようだ。


 そこに、文字が浮かんでいた。

 ――未完案件:照会者(国民)

 ――状態:運用説明中

 ――現場確認者:外部者2/内部者1

 ――推奨手順:処理経過の観覧→納得形成→退去


 「──出た。あっちのやりたいことと、その順番」

 コハクが、唇の端だけを曲げる。

 碑守は窓を睨んだままだった。

「……つまり、今から“こうなるのは正しい”というのを、見せつける気か」

 青年が、台車の上で身じろぎした。

「来る……」

「何が?」

 ツムギが問うが、青年は奥のレールの先を見ているだけだ。そこには、まだ暗がりしかなかったが、やがて音がしはじめた。


 カタ……カタ……カタ。

 今度は一台じゃない。

 複数の台車が、遠くで連結を外されるような音だ。

 青年の声が、かすかに震えた。

「“比較資料”だよ……」

 コハクが眉をひそめる。

「比較?」

「うん。……お前もこうなる、でも順当だ、って納得させるための」

 言い切れずに、青年は目を閉じた。

「……処理済みの人たち」

 その場の空気が、すっと冷えた。


 ツムギは、拳を握る。

 怒りより先に、胃の奥が重くなった。この国は、人を消しただけではなく、その存在を、次の人間の心を折るための“教材”にしてきた。


 碑守が、珍しくはっきりと悪態をついている。

「……ここまで来ると、もはや国家の形をした臆病者どもだ」

 コハクが立ち上がり、膝についた紙の粉を払い落とした。

「ツムギ。方針、二つ」

「言って」

「一つは、青年を今すぐ引き抜く。たぶん失敗する。向こうの“納得形成”の流れに乗せられるでしょう」

「うん」

「で、二つ目。比較資料が出る前に、見せ方を壊す。少なくとも、青年に“順当”って言えない形にする」

 ツムギは眉をよせる。

「それって、できるの?」

 青年は目を開けた。

 その両目に、ほんの少しだけ熱が戻っている。


「……いいと思う」

 そして息を吸い、台車の縁を見たまま言う。

「この台車、レールの分岐で“処理続行”と“差し戻し”に分かれる。俺を動かせなくても……分岐で切れれば、時間は作れる」

 碑守が、不思議そうに眉をよせている。

「なぜ今それを言う」

「さっきまで、言わせてもらえなかった」

 青年は短く笑った。「説明の順番、奪っただろ。……だいたい、最後にしゃべる人間が一番情報を持ってる」


 コハクがツムギを見る。

 今度の視線は、合図じゃない。確認だ。

 やるなら一気に行く、の顔。

 ツムギは真っすぐに受け止めて、うなずいた。

「僕が分岐を見る。コハクは?」

「窓をもう一回いじる。比較資料の“推奨”を消す。──碑守さん」

「分かってるよ。俺は、こいつを喋らせ続ける」

 碑守は青年を顎で示した。

「沈む直前の当事者の証言が、いま一番強い。運用は“説明”を止められん以上、聞かされる」


 青年が、苦しそうに息を吐きながらも言う。

「……じゃあ、聞いて」

 その目は、奥の暗がりを見据えながら、しっかりとしたものだった。

「比較資料、最初に出てくるのは……枢機院に逆らった会計官だ。罪名は横領。……でも本当は、予算の流れを止めようとした」


 ギ、と奥で台車が軋む。

「次は、軍需の監査官。罪名は外患通謀。……実際は、隣国の悪臣との取引の証拠を握ってた」

 コハクの顔から、笑いが完全に消える。

 ツムギはレールへ歩み寄りながら、かるくせり上がってきた吐き気を飲み込んだ。


 ほんのしばらく前、青年はいちど置かれていた間に、“比較資料”の見出しと、回送先の符号を運用に見せられていた。

 それが、外交官として知る断片と噛み合い、彼なりの結論に至っている。

 この底に、“正しく処理されたことにされた真実”が、確かに積まれているのだ。


 レールは作業場の中央で、三方向に分かれていた。

 一本は、いま三人が来た側。

 もう一本は、さらに奥の暗がり。

 最後のものは、右の壁沿いに消えている。

 すぐそばに分岐器のような金具があるが、手で切り替える形ではなかった。

 その周囲を黒線が巻いているのだ。運用の判断でしか動かない仕組みかもしれない。


 ツムギは足を止めて、しゃがみ込む。

 触れる前に、目で読もうとする。黒線の流れは── どこが命令で、どこが記録になっているのか。どこならば、触れずに“流れ”を狂わせられるのか。


 背後でコハクの声が飛ぶ。

「ツムギ! 窓、もう始まってる!」

 少年の方からはうかがい知れないが、監視窓の文字は、すでに切り替わっていた。

 ――比較資料、搬入開始

 ――観覧により処理妥当性を補強

 ――照会者の差し戻し権、減衰中

 

 最後の一文に、ツムギの目の奥が冷える。 

 この場合、「差し戻し権」は、使える/使えないではなく、残量(有効度)で管理されている。

 つまり──時間制限がある、ということ。


 碑守が怒鳴った。

「ツムギ!」

 珍しく、感情の乗った声だった。「理屈はあとだ! まず一本、殺せ!」

 その一言で、ツムギの迷いがふっ切れた。

 全部は止められない。だから一本だけでも。

 青年の台車を“比較資料の前”にさらす流れ、その一本だけをいま、折る。

 ツムギは分岐器の脇にある金属板の継ぎ目へ、手をかざした。

 触れないよう気をつけながら、喉の奥に集めた感覚で、黒線の揺れや、微細な違いを読む。


(──ここだ)

 手ではなく、足で踏む。

 分岐器そのものではない。その手前に感じる、レールの“記録側”を。


 ガンッ。

 乾いた衝撃音が、作業場に跳ねた。

 黒線が、ぴんと張る。一瞬遅れて、レールの先で甲高い音が鳴った。


 ギィィィン――!


 奥から来ていた台車列のうち、一台が途中で止まり、後ろの台車が連結ごとぶつかる。  

 比較資料の搬入列が、細い通路で詰まった。

 監視窓の文字が乱れる。


 ――比較資料、搬入……

 ――経路干渉……

 ――再調整……

 コハクが、そこで薄膜を窓の右下へ差し込むようにかざした。

「はい、再計算するなら順番こっちね」


 文字列がまた揺れる。

 ――優先:未完案件の保全

 ――比較資料、停止

 ――照会者の差し戻し権、再計測

 青年が、台車の上で息を呑んだ。

「……戻った」

 碑守が、初めてはっきり笑った。

「小僧ども、やるな」

 だが次の瞬間。

 作業場の奥、比較資料の列が詰まった暗がりの向こうで、別の音がした。

 カン、と。

 金属じゃない。杖の石突きのような、自然で硬い音。


 ツムギとコハクが同時に顔を上げる。碑守の笑いも、止まった。

 青年の表情は、そのまま固まってしまった。

「……うそだろ」

 暗がりの奥から、ゆっくりと人影が現れる。

 台車を押す係でも、処理を待つ誰かでもない。衣服は古い儀礼の名残をとどめ、胸元には削られたしょうの跡。背は曲がっているのに、目だけは異様に鋭い生気にあふれている。


 老人だった。

 そしてその目は、青年を見ず、まず窓を見た。

 …次に、コハクの薄膜を見た。最後に、ツムギの足元の分岐器を見て――

 口の端を、ゆっくり持ち上げた。

「……なるほど」

 声が出る。

 乾いているのに、いやに通る声だ。


「外から来た子らは、そうやって“手順”を壊すのか」

 碑守が、喉の奥で低くうなった。

「……生きていたのか」

 老人は、視線だけをゆるやかにして笑った。

「お前こそ、まだここで働いていたのか。碑守」

 青年の唇が震える。

 名前を言いかけて、飲み込む。だが、ツムギには分かった。

 この顔は、青年がさきほど告白した『枢機院』の系譜に連なる者だ。


 しかも、ただの亡霊ではない。

 ここで今も運用に関わっている側の、“強力で臆病な”人間。

 老人は台車列の詰まりを一瞥し、静かに言った。

「比較資料は後でいい」

 監視窓の文字が、すぐに従う。


 ――比較資料、後送確定

 ――未完案件、直接聴取へ移行

 ツムギの想像に、恐れのようなものが走った。

 “説明”ではなく、“聴取”。

 つまり、ここから先は見せられ、あちらの望みに導かれるだけじゃない。向こうが、こちらに踏みこんで読み取りにくる。


 老人はゆっくり青年の台車へ近づきながら、四人に向けて言った。

「いい機会だ。外から来た証人もいる」

 その目が、ツムギを射抜く。

「では聞こう。――誰が、この国を壊したと思う?」

 作業場の空気が、ぴたりと止まった。


 ツムギは、拳を開く。

 ここで名前を言えば、また同じ罠だ。けれど黙っても、向こうの聴取が始まる。

 青年が台車の上で、かすかに首を振っていた。

 “名じゃない”という合図らしい。

 コハクの薄膜が、指のあいだで小さく鳴り、ふるえる。“力”が、緊張している。

 碑守は一歩だけ前に出て、しかしそれ以上は進めずに、足を止めた。


 一番望み、恐れていた質問は、もう始まっている。

 しかも今度は、運用の窓を介してではない。

 この底の現場で、運用を作った側の口からの、後戻りのない問いだった。






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