第19話 正義の過信
老人の質問が落ちたあと、作業場の空気は、ぴたりと凍った。
問いは単純だった。
だからこそ、すべてが過ちに向かう危険もあった。
――誰が、この国を壊したと思う?
青年が首をふっている合図は、ツムギの中の迷いを、一つ削ってくれた。
答えるなら、答え方がある。
この国がいちばん嫌う形で。――責任を置き換えられるものではなく、逃げられない形で。
ツムギは拳をゆっくり開き、老人を見返した。
喉の奥がひりつく。ここは声が通る。通ってしまう。
だから、言葉を選ぶだけではなく、言葉の置き方の終わりまで、慎重にやらねばならない。
「壊したのは…個人、もしくは一部の権力者だけじゃない」
老人の眉が、ほんのわずかに動いた。
期待外れではなく、“誘導の余地がある”と判断した顔だ。
「ほう。なら、何だ」
ツムギは一歩も動かない。動けば、ここでは“当事者の動揺”として料理され、詭弁として扱われる。
代わりに、床の黒線――分岐器のそばでまだ張りつめている流れへ、視線だけを落とした。
「正しい処理、だ。人を、正義の名のもとに、拙速に処分していくこと。その寛容のなさ──ゆっくりと時間をかけて、犠牲を最小限にして進歩していくべき『法』を、未来まで待てなかった、人間の未熟さが、国を終わらせていったと思う」
ツムギは、厳しい目で続ける。
「巨悪を口実に、それは作られた。公的な位置にある権力にとって、都合の悪い順に強烈な正義が広がって、最後は“残った者”まで呑みこんだ。……それが、顛末」
できるだけ短く告げた。
言葉足らずながら短くまとめたのは、格好つけのためじゃない。長く語るほど、自分の言葉の整形される個所が増えていくためだ。
老人が、薄く笑った。
笑いというより、刃の背のような、鋭利の裏返しだ。
「それは、便利な言い方だな。責任が消えるぞ」
その言葉に、台車の上の青年の指が、きし、と鳴った。
反論したい。けれど反論は、名を求める相手の好都合な入口になる。
コハクの薄膜が、指のあいだで小さく鳴っている。
彼女は笑わない。
ただ、薄膜を握る手だけが、静かに“記録の外側”を確保している。
碑守が、喉の奥で低く唸った。
「……その言い回しに乗るなよ」
ツムギは頷き、老人へ視線を戻す。
「責任は消えない。それが消えるのは、“名を出せ”って言う側が、どこまでも名を伏せてるからだ」
老人の目が、すっと細くなる。
初めて、温度が落ちるように感情が動いた。
「外の子。……口が過ぎるな」
「過ぎてない」
ツムギは、言い切った。
「あなたは今、“誰が”って聞いた。それに応じて名を出せば、この国は閉じてしまう。あなたはそれを知ってる。だから訊いた」
老人は何も言わない。
代わりに、台車の縁の黒線が、青年の肘をもう少しだけ押し戻した。
痛みを与えるのではなく、“諦めやすい形”へ寄せる、あの力だ。
青年がかすれた声で吐く。
「……まだだ。俺は、まだ――」
言いかけて、止まる。
考え抜いていない言葉が、ここでは返ってくる刃になると分かっているからだ。
老人は、ゆっくりと手を上げた。
指先は青年へ向けない。監視窓へと、力のある目とともに向けていく。
窓の文字は、すぐに切り替わった。
――未完案件:照会者(国民)、直接聴取、開始
――照会者、供述を推奨
――供述拒否の場合、代理補正
“推奨”。
この国が、暴力を礼儀に包む時の言葉だ。
コハクが、ひどく小さな声で言った。
「……推奨って、便利だよね。拒否しても、向こうの有利に進む。もともとそういうルートを前提に作ってる」
碑守が、吐き捨てるように返す。
「言うな。拾われる」
(そうね)
コハクは、薄膜を握り直しただけで、口を閉じる。
老人が、青年の台車の横まで進み、止まった。
青年は動けない。逃げられない。けれど、まだ目は死んでいない。
老人は、彼へ穏やかな声を落とした。
「外を守るために国を閉じた、とお前は言ったようだな。なら答えろ。――いったい誰を止めたのか」
青年の喉が鳴る。
そのまま答えれば終わる。しかし、言わなければ代理補正で“それっぽい名”が作られる。
ツムギは、青年の視界の端にだけ入る位置へ、半歩ぶん身体を寄せた。
触れない。触れないまま、支えようとする。
(“止めたかったもの”を言えばいいさ。向こうの正解が、世界のすべてじゃないんだ)
そう、小さく伝える。
青年の瞳が、わずかに揺れて――定まった。
外交官の目だった。相手の問いの形を読み、こちらの答えの形を柔軟に組み替える役割。
「……止めたのは」
青年は、呼吸を整えた。
そして、老人へ言う。「“人を正しく処理できる”って、信じてしまった国だ」
老人の表情が、初めてほんの僅かに崩れた。
驚きと、焦りが隠された――痛いところを、名なしで突かれた顔。
その瞬間、作業場の奥、暗がりのどこかで、もう一度だけ台車の連結が鳴った。
カタ、……カタ。
比較資料は、止まっていない。止まったように思えたのはただの段階で、次の“説得”の形を、いまも作り直している。
「……来そうだな。今度は、“見せて”折る形でくるかもしれん」
奥を見定めながら、碑守が言った。
コハクは、薄膜を胸の内側へ押し込み、短く続ける。
「じゃあ先に――見せられる前に、こっちが見る」
ツムギはうなずいた。
老人の目の前で、青年を守りながら。そして、運用の底の暗がりへと、視線を差し込んだ。
――この国が本当に隠したいのは、真犯人の名じゃない。
それを伏せることになったのは、後始末の最中に運良く得た逃げ道なだけで、どうしても隠蔽しなければならなかったのは“やり方”そのものだ。
だからこそ。
ここから先は、言葉ではなく、現物で決着がつく。
暗がりの奥で、最初の台車が、ゆっくりと姿を現しはじめた。




