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鳴らない鈴  作者: 久賀 広一
3章 遠き思い、近き人
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第17話 上位者の底

 

 白は、背中から剥がれていった。

 落下によって、音も匂いもうすい基準の世界が、上へ遠ざかる。

 代わりに、黒が増えていった。黒は闇というより、紙の裏側に溜まったインクのように、負の遺産が堆積した、ただの層だ。


 黒線が、足首に触れている。

 締めつけないけれど、離さない導線。──どこへ運ぶかは、やはり運用が決める。

 ツムギは、目をつむらない。

 落ちる間に、怖さを整理する。

 罠に落とされたわけじゃない。

 自分たちで“現場”を選び、そして帰り道は確かにある(保証されてないだけ)。 その選択が正しいかどうかは、降りた先でしか分からない。

 先に降りたコハクのスカートのすそが、闇の中で一瞬だけ揺れた。 次いで、碑守がいつものように短く息を吐く。

 そして、ツムギの足が――何か固いものに触れた。

 着地のような衝撃は感じず、 “接続”のように不自然なスムーズさを感じた。ここにも何らかの力が、全体に行き渡っている。

 それから身体の重さが急に戻り、膝が折れそうになるが、黒線が支えるように足首に意識をくれる。

 引かれて立つ。立たされる。

 ツムギは、みずからの感覚をすべて、周囲からの受け(・・)に回した。


 どうも、床の感触が白い部屋とずいぶん違うようだ。 石でも、木でもない。 紙に似ているかもしれない。厚く、湿った、重い紙が幾重にもつもった床。

 暗いけれど、何も見えない暗さではない。目が慣れるにつれ、ぼんやりと輪郭が浮いてきた。


 壁も、同じようだ。

 積まれた層。 紙の束──記録の束で綺麗な面をつくり、四方を囲んでいるのかもしれない。


 碑守が、喉の奥で笑った。

「……処理場しょりばって言うより……こりゃ、処理“室”だな。国を、紙で畳んだ底部屋だ」


 コハクは前を見たまま、低く言う。

「声、出しすぎない方がいいね。――ここも、聞かれてるみたい」

 ツムギはうなずく。

 足首の黒線が、少しだけ強くなる。 返事すら材料だ、と言われているみたいだった。


 その時。

 前方の暗がりで、布をる音がした。

 何か、いる。

 ツムギの思考に、さまざまな想像が走った。

 青年か……それとも、別の“処理されたもの”か。


 コハクは、迷いなく一歩進んでいた。落ちる前と同じで、もうふり返ることがない。

「……照会者」

 呼び方だけを置く。名は置かなかった。名は、閉じて殺すことにつながってしまうかもしれない。


 返事はない。

 代わりに、足元の黒線が動き、床の上を這うように伸び、前へ、前へと道の形を作る。

 優しさを装った、変わらない誘導。

 碑守がつぶやくように言った。

(案内してる……のか?)

(まあ、案内っていうか……導線だよね)

 ツムギも、同じ言葉を心の中で返す。

 進む。

 避けるという選択肢はない。避けた瞬間、違反になることは目に見えているため、堂々とした対処しか許されないのだ。


 道の先に、低い段差があった。 黒線がそこへ回り込み、ふちを強調する。

 コハクが屈み、指先で空気を切った。 「……落ち口、もう一つある。まだ下がるみたいだね」

 ツムギは、匂いで察していた。紙の匂いの下に、鉄がある。そして……乾いた血の匂いも、そこに。


 碑守が、ぼそりと吐く。

「……人を消すだけじゃない。……残すために、削る場所でもある」

 コハクが、さらに先へ目を凝らし、何かに気づいた。

「……あった」

 闇の中に、白が一つだけ見えた。

 紙片だ。白い部屋の方眼の白じゃない。もっと汚れた色。人の手から感情を吸ったもの。


 ツムギは、呼吸を大きく三つ数えた。

 それから、目で紙片を追うと、そばに布切れも落ちている。青年が胸に当てていた、あの布の端だろう。熱を失って、ただのうち捨てられた物になっている。


 そこまでが、青年の輪郭だ。

 コハクが、布にれない距離で膝をついた。視線だけで、そこに流れる力を読もうとこころみる。

「……そのまま沈んだんじゃない」

 声が、わずかに揺れた。

「……運ばれた。ここで一回、置かれてる」

 碑守が、低くうなる。

「置かれた、だと?」

「うん。……たぶん、何かの確認?念押し、かな」

 ツムギは、その言葉で理解する。

 ここは、最後の一線というだけじゃない。真相の現場だ。


 運用が、こちらに何かを見せたがっている。

 名じゃなく、仕組みを。青年の最後の願いは、この国の都合に包まれてしまったが、道義の叫びという、人倫の根幹だ。


 ――この国の中で、止めろ。

 ツムギの喉が、ひくりと動く。

 止めるには、まず知るしかない。だが、知った瞬間から、こちらも処理対象として完成していく。

 そのとき、紙束の壁のどこかで、ぱたり、と小さな音がした。

 紙がめくれる音だ。

 闇の中に、淡い四角が浮かぶ。

 白い部屋の方眼みたいな、規格的な四角だが、ここではそれが“窓”に見えた。


 その向こうに、文字が並ぶ。

 読めないはずの文字が。意味が、逃げるはずの文字が……

 ツムギは、反射で目を逸らしかけて――踏みとどまった。ここで逸らしたら、青年の熱が無駄になる。

 コハクが、囁く。

「……読める形にされた」

「……運用が、そうした?」

「うん。……誰かのために。たぶん、外のため──原初の純粋な目的のために」


 碑守が、息を吐く。

「……運用は止まらん、って言ったな。なら、運用そのものに、運用をずっと止めさせろってか」


 ツムギは、ゆっくりと右手をにぎった。

 窓の文字列の一番上。そこだけ、異様に整っている。


 ――未完案件:照会者(国民)

 ――移送先:処理現場

 ――目的:運用説明(※外部流出防止条項に抵触の恐れ)


 最後の一行が、刃みたいに光った。

 外部流出防止。

 青年が叫んだ“本当の理由”が、ここで条項になって息をしている。……国は、外へ出ることを恐れている。 ごく一部の者が、“国”の行為だと、そう認識して行ってきたことが、周知されるのを。


 コハクが立ち上がる。

 感情を抑えるように、一度目を閉じて言う。

「……ねえ、ツムギ」

「うん」

「これ、助ける順番、逆かも」

「逆?」

「先に青年を引き上げるんじゃない」

 コハクは、窓の文字を見たまま言った「“あっちの説明”を押さえる方が先」


 コハクの目が、白い四角に据わっている。    

 ──青年はまだ、“未完案件”として運ばれている。なら、いま運用がやってることは二つある。ひとつは青年の処理。もうひとつは――その処理を、外に出ない形で説明し直す手続き。


 碑守が、低く唸った。

「……説明を先に潰す、と?」

「そう」

 コハクは、慎重に窓へ向かって歩いた。

 ツムギもすぐに追う。

 足首の黒線が、行く手を塞ぐのではなく、むしろ窓の下へ導くように伸びる。運用の流れは、“ここで見せる”つもりなのだ。


 窓の下に立つと、紙の壁の冷たさが、皮膚じゃなく喉に触れた気がした。声を──外への訴えを吸う冷たさだ。

 窓の文字列が動き、ひとつ下の欄へと、見る内容をうながされる。


 ――処理現場、案内開始

 ――関係者観覧、限定許可

 ――観覧目的:納得形成

 碑守の顔が、はっきり歪んだ。

「……くそったれ」

 ツムギも複雑な顔をする。

 納得形成……つまり、ここで見せるものは、真実そのものじゃない。真実を“受け入れやすい形”にしたものだ。


 コハクが、ゆっくりと唇の端を上げた。今度は皮肉ではなく、獲物を見つけた時の顔だった。

「決まりね。“彼”をそのまま助けに走っても、無駄にしかならない」

「……先に、舞台装置を止めなきゃいけない──のかな」

「うん。少なくとも、“一方的に語られる状態”は崩せる」

 ツムギは、窓のふちを見た。

 白い部屋の方眼ほど整ってはいないが、ここにも規格の癖がある。四角い表示の右下だけ、わずかに線が濃い。 何らかの事態が生じたときの、“力による”更新口だ。


 コハクも気づいて、目だけで頷いた。

「そこ、揺らいでるね。おなじみの、貼り替え口かな」    

 碑守が短く言う。

「簡単には触れるなよ。よほどの確証を得たあとだ」

さわらないよ」

 コハクは即答した。「それを向こうにさせるのが、いちばんの正解だし。こっちは触れないようにやる」

 彼女は工具袋に手を入れかけて、思い出したようにやめた。手袋の内側にしまっておいた、薄膜を取り出す。

 青年の言葉の“押し”を写した、あの薄膜だ。

 ツムギが息を呑む。

「使うの?」

「ここで使わなきゃ、彼に怒られる」

 コハクは、ほんの少しだけ口の端を上げた。「この国の都合で整えられる前に、青年の訴えの“骨”を、運用の窓に噛ませる」

 碑守が、目を細める。

「……できるのか」

「できるかどうかじゃない。やると、間違いなく向こうが嫌がるから。それだけ」


 コハクは窓の右下へ薄膜をかざした。

 触れない。けれど、近い。

 白い四角の文字列が、一瞬だけ滲む。

 ――観覧目的:納得形成

 の行が、ふっと揺れた。


 ツムギはすぐに口を動かす。

(いま、何してる)

 コハクは窓から目を離さず、短く返す。 (説明の順番を、ずらしてる。向こうは“結論→納得”で見せたい。けど、こっちは“運用→被害→結論”にする)

 シンプルだ。 そして、効く。前提が変わってくる。

 碑守が喉の奥で笑う。

「……説明を奪う、ってそういうことか」    

 コハクは答えない。集中している。

 やがて、薄膜の端がかすかに震えはじめ、窓の文字が、音もなく並び替わっていく。


 ――観覧目的:運用確認

 ――未完案件:照会者(国民)

 ――処理現場、案内開始

 ――外部流出防止条項に抵触の恐れ


 最後の行が、先ほどより濃く浮いた。

 ツムギの胸の奥で、何かが噛み合う。

 そうだ。青年が命を削って残したものは、“可哀想な被害者の話”じゃない。この国が何を恐れ、何を隠し、どうやって傲慢な正しさを運用してきたか、だ。


 その瞬間、床の黒線が、ぴんと張った。

 導線が変わる。窓へ向いていた線が、今度は部屋の奥――段差の向こうへ、一斉に流れる。

「見せる先を切り替えた……のか?」 

碑守が、顔を上げながら言う。

 コハクは薄膜を引き、素早く畳んだ。

「うん。この告白文は、当人じゃなく、第三者が関与すると、さらにごまかしにくいはず。だから“現物”で押してくる」

 ツムギが問う。

「青年?」

「たぶん、青年を含む」

 コハクの声は低い。「でも、見せたいのは彼そのものじゃない。――“青年がこうなるのは正しい”って、また説明したいんだよ」


 ツムギは、段差の向こうを見た。

 闇は深い。だがもう、怖さの質が変わっていた。見えない怪異じゃない。人が作った運用(悪事)の底だ。

 碑守が、いつものぶっきらぼうな声音で言う。

「……なら、やることは一つだな」

 ツムギが頷く。

「うん。“見せられる”前に、見る(理解する)

 コハクが、そこでやっと自然に笑った。

「ようやく話が早くなった」

 次の瞬間。

 段差の向こうから、何か重いものがきしむ音が響いた。もうずっと昔から、何度も往復に使われた、古びた台車のような音。


 ギ、……ギィ。

 ツムギの喉が──透声が、強く反応する。

 青年がいる。そう確信できる音だった。

 黒線が、三人の足首を同時に引いた。

 進行方向はひとつ。段差の先、処理場の奥。


 コハクが先に足を出す。

「……今度は、向こうの順番じゃない」

 碑守は、鼻で息を鳴らして続いた。

「道だけ借りる。裁きは、こっちでやる」

 ツムギは、二人の背を見て慎重に一歩踏み出した。

「真実と体裁ていさい──どっちが人にとって重いのか、きちんと見届けよう」


 白い窓の文字が、背中側で最後に一度だけ書き換わった。

 ――観覧目的:運用確認

 ――関係者、現場接近

 ――記録継続


 運用は止まっていない。

 だからこそ、まだ間に合う。

 三人は、段差を下りた。処理場のさらに奥――青年がまだ終わっていない場所へ。


 そこで待っているものが救いか、もっと深い絶望かは、分からない。

 ただ一つだけ、もう確かだった。

 この国の罪は、本当の名を隠したままでは終わらない。


 ならば終わらせるのは、名目ではない。

 運用そのものだ。




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