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鳴らない鈴  作者: 久賀 広一
3章 遠き思い、近き人
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第16話 優先順位Ⅱ


 白い部屋は、基準の空気を備えている。

 青年が一人沈んでも、監査立会者が消え、空席になっても、方眼はすぐにその“基準”へと戻る。

 すなわち、起きた出来事の忘却と、その時点での可能な継続。


「外へ出よう」

 ツムギが放った言葉は、この部屋の、感情のない中では不自然にさえ感じられた。

 過不足なくストンと“落ちる”のは、いつだって手順の命令の中だけだ。

 台の向こうの人物が、淡々と告げる。

「……外部者混入の再判定。 ……照会者の退国理由、未完」

 淡々が、戻ってきた。時にするどくなる刃は、いつもそこにある。

 碑守ひもりが低く唸った。

「……どうにもならん。いったい、これ以上何を続ける気だ」

 コハクは薄く息を吐いた。笑わない。

「続けるっていうか、止められないんだよ、運用は。本当にすべてが終わる時まで」

 ツムギは、床の黒線を見る。

 自分たちの足元の枠は、さっきより薄い。けれど消えてはいない。


 ――“当事者”の余韻。

 ここにいるかぎり、何が起ころうとも、こちらは材料にされるだけだ。

 台の向こうの人物は続ける。

「……外部者、退室希望。規定に従い、記録を要求」

 退室。

 その言葉が出た瞬間、床の黒線が、ゆっくりと“出口の形”を取り始める。

 線が伸びて、壁面に四角い枠を作る。地上への直通路か──それはまだ分からない。ただの、おりの口かもしれない。


 碑守が囁く。

(……退室に“手続き”をかませてきた。名か、違反か……どっちを求められても、よろしくはないな)

 ツムギは、この先の行動を思案する。

 青年が落ちた……その穴を空けたまま、ここで“退室の手続き”にかかったら、全部が塞がってしまうだろうか?

 果たして、青年を救える余地は、まだあるのだろうか?

 その時、コハクがふたたび視線だけで合図してくる。


 ――「今から、きびしい方へ進んでいい?」

 ツムギが曖昧な反応をしていると、彼女は台の向こうの人物へ向き直り、短く言った。

「退室記録は、誰が主導?」

 台の向こうの人物は、瞬きもしない。

「……記載主導、空席。よって、代理補正へ――」

 コハクが遮った。

「待って。空席って、誰も書けないって意味?」

「……空席は、権限の所在」

「……運用は、基準に従い継続」

 当然のように返る。まるで、“空席”という言葉だけで全てが正しく片づく、とでも言いたげに。

 コハクは頷いた。

「じゃあ、もっと簡単に」

 彼女は、壁にできかけた四角い枠を指で示す。「退室じゃなくて――引き渡しを希望する」


 碑守の眉が動く。

「誰にだ」

「現場に」

 コハクは、床の中央――青年が沈んだ場所を見た。

「照会者が未完なら、案件は残ってる。案件が残ってるなら、沈んだ場所は“現場”──なら、運用は引き渡せる。……そうでしょ?」

 台の向こうの人物の視線が、ほんのわずかに床へ落ちた。

 そして淡々と答える。

「……未完案件、継続」

「……関係者、現場へ移送」

 次の瞬間。

 床の黒線が、壁ではなく床に四角い縁を描き始めた。

 出口の形ではない。

 落下の縁だ。処理の底へ向かう、あたたかみのない枠。


 ツムギのこめかみが、一瞬引きつる。

 だが、青年とは怖さの種類が違う。

 これは罠じゃない。

 自分たちで、墓場へ飛ぶ形だ。

 碑守が唇だけで言った。

(……降りる気か)

(──しか、ないみたいだね)

 ツムギは心の中で答え、コハクを見る。

 彼女はもう決めている。

 青年の熱を、ここで腐らせないために。

 ──本当は、自分たちが真実を知ったなら、それは世界に伝わったのと同義だった。

 たとえ手段などなくとも、人の心はどこかで必ず繋がっている──故郷クランの神は、そうやって国を、全体を、世界を、少しずつ良いものへと導いてきた。彼女はそう信じている。 


 台の向こうの人物が、最後に一つ付け足した。

「……注意。移送は、復路を保証しない」

 ツムギはうなずく。

「分かってる」

 声が出た。

 冷徹だけれど、これは“命令”じゃない。

 覚悟の確認だ。


 床の縁が、口を開けた。

 白じゃない闇が、静かにこちらを待つ。

 記録の外側。処理の底。

 多くの悪人、そして国益とも言える人材、最後に青年が落ちた場所。


 コハクが一歩、先に踏み出す。

 ふり返らない。

「行くよ。……ただの現場へ」

 碑守が続き、最後にツムギが足を出す。

 落ちる直前、台の上の紙が、風もないのにめくれた。

 白い部屋が、勝手に“忘れる”前の、最後の癖だ。

 そこに、青年の言葉が残っている。

 綺麗な看板じゃない。

 何もかもを、ぎ落とした思い。


 ――この国の中で、止めろ。


 黒線が、三人の足首を掴んだ。

 まるで鎖のように。しかし、まるで導線のように優しく。

 そして、白い基準が遠ざかる。

 落ちる。

 信仰(心の思い)以外、何も保証されない底へ。



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