第16話 優先順位Ⅱ
白い部屋は、基準の空気を備えている。
青年が一人沈んでも、監査立会者が消え、空席になっても、方眼はすぐにその“基準”へと戻る。
すなわち、起きた出来事の忘却と、その時点での可能な継続。
「外へ出よう」
ツムギが放った言葉は、この部屋の、感情のない中では不自然にさえ感じられた。
過不足なくストンと“落ちる”のは、いつだって手順の命令の中だけだ。
台の向こうの人物が、淡々と告げる。
「……外部者混入の再判定。 ……照会者の退国理由、未完」
淡々が、戻ってきた。時にするどくなる刃は、いつもそこにある。
碑守が低く唸った。
「……どうにもならん。いったい、これ以上何を続ける気だ」
コハクは薄く息を吐いた。笑わない。
「続けるっていうか、止められないんだよ、運用は。本当に国が終わる時まで」
ツムギは、床の黒線を見る。
自分たちの足元の枠は、さっきより薄い。けれど消えてはいない。
――“当事者”の余韻。
ここにいるかぎり、何が起ころうとも、こちらは材料にされるだけだ。
台の向こうの人物は続ける。
「……外部者、退室希望。規定に従い、記録を要求」
退室。
その言葉が出た瞬間、床の黒線が、ゆっくりと“出口の形”を取り始める。
線が伸びて、壁面に四角い枠を作る。地上への直通路か──それはまだ分からない。ただの、檻の口かもしれない。
碑守が囁く。
(……退室に“手続き”をかませてきた。名か、違反か……どっちを求められても、宜しくはないな)
ツムギは、この先の行動を思案する。
青年が落ちた……その穴を空けたまま、ここで“退室の手続き”にかかったら、全部が塞がってしまうだろうか?
果たして、青年を救える余地は、まだあるのだろうか?
その時、コハクがふたたび視線だけで合図してくる。
――「今から、厳しい方へ進んでいい?」
ツムギが曖昧な反応をしていると、彼女は台の向こうの人物へ向き直り、短く言った。
「退室記録は、誰が主導?」
台の向こうの人物は、瞬きもしない。
「……記載主導、空席。よって、代理補正へ――」
コハクが遮った。
「待って。空席って、誰も書けないって意味?」
「……空席は、権限の所在」
「……運用は、基準に従い継続」
当然のように返る。まるで、“空席”という言葉だけで全てが正しく片づく、とでも言いたげに。
コハクは頷いた。
「じゃあ、もっと簡単に」
彼女は、壁にできかけた四角い枠を指で示す。「退室じゃなくて――引き渡しを希望する」
碑守の眉が動く。
「誰にだ」
「現場に」
コハクは、床の中央――青年が沈んだ場所を見た。
「照会者が未完なら、案件は残ってる。案件が残ってるなら、沈んだ場所は“現場”──なら、運用は引き渡せる。……そうでしょ?」
台の向こうの人物の視線が、ほんのわずかに床へ落ちた。
そして淡々と答える。
「……未完案件、継続」
「……関係者、現場へ移送」
次の瞬間。
床の黒線が、壁ではなく床に四角い縁を描き始めた。
出口の形ではない。
落下の縁だ。処理の底へ向かう、暖かみのない枠。
ツムギのこめかみが、一瞬引きつる。
だが、青年とは怖さの種類が違う。
これは罠じゃない。
自分たちで、墓場へ飛ぶ形だ。
碑守が唇だけで言った。
(……降りる気か)
(──しか、ないみたいだね)
ツムギは心の中で答え、コハクを見る。
彼女はもう決めている。
青年の熱を、ここで腐らせないために。
──本当は、自分たちが真実を知ったなら、それは世界に伝わったのと同義だった。
たとえ手段などなくとも、人の心はどこかで必ず繋がっている──故郷の神は、そうやって国を、全体を、世界を、少しずつ良いものへと導いてきた。彼女はそう信じている。
台の向こうの人物が、最後に一つ付け足した。
「……注意。移送は、復路を保証しない」
ツムギはうなずく。
「分かってる」
声が出た。
冷徹だけれど、これは“命令”じゃない。
覚悟の確認だ。
床の縁が、口を開けた。
白じゃない闇が、静かにこちらを待つ。
記録の外側。処理の底。
多くの悪人、そして国益とも言える人材、最後に青年が落ちた場所。
コハクが一歩、先に踏み出す。
ふり返らない。
「行くよ。……ただの現場へ」
碑守が続き、最後にツムギが足を出す。
落ちる直前、台の上の紙が、風もないのにめくれた。
白い部屋が、勝手に“忘れる”前の、最後の癖だ。
そこに、青年の言葉が残っている。
綺麗な看板じゃない。
何もかもを、削ぎ落とした思い。
――この国の中で、止めろ。
黒線が、三人の足首を掴んだ。
まるで鎖のように。しかし、まるで導線のように優しく。
そして、白い基準が遠ざかる。
落ちる。
信仰以外、何も保証されない底へ。




