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鳴らない鈴  作者: 久賀 広一
3章 遠き思い、近き人
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第15話 優先順位


 白い部屋の空気が、音もなく張りつめる。


 青年のわくが沈んだ跡は、虚無になっていた。不可思議な力だ。先ほどまでのやり取り、そこで感じたさまざま気持ちが、嘘のように薄らいでゆく。

──“忘れられた人”、“忘れられた国”。

 今さらのように理解する。それは人として、生きる意味の一部を失わせるものだ。


 ツムギは、もう一度部屋を見回した。

 ……残っているその場の“力”は、紙の上に走った線と、監査立会者を含めた、皆の足元を囲った黒線。


 監査者は、最初からそこにいたみたいに姿勢を正した。

 声は平板なまま、唯一、囲われていない台の向こうの人物へ告げる。

『……運用者、枠確定。監査対象の更新を要求』

「……監査対象、更新」

 台の向こうの人物が返す。いつもの淡々とした声。

 しかし、その温度のなさが、刃として、状況が進むほど鋭利になっていく。


『……照会者、手続き完了。──続いて、外部者混入の件。関連者処理へ移行』

 ツムギとコハクを囲った黒線が、捕縛する鎖のように太くなる。

 碑守ひもりが、息だけで吐いた。

(……まとめて終わらせる気か。名を作る仕掛けでくるかもしれんぞ)


 ツムギは動かない。

 しかし、何もしなければ、青年が開けた穴は、ここで塞がる。

 コハクが、視界の端で指を一本立てた。


 “やるよ、今”。

 ツムギは、瞬きひとつで返した。

(分かった)

 コハクは笑わない。工具袋にも手を入れない。

 代わりに、親指で、指輪のない薬指を一度だけ押さえる。癖。

 それから、ごく自然な動作で、足元のスカートの裾を払った。


 ――カサ。

 布の裏から覗いたのは、薄い灰色の紙片だった。

 紙片、というより「束」。爪の半分ほどの幅に折り畳まれた薄膜。

 彼女の指先が、その端をそっと撫でる。


 監査立会者の視線が、ほんのわずかに逸れた。

 だが、逸れた先はコハクではない。

 床の線。枠の濃さ。処理がどこまで進んだか。

 ――“運用者”として、自分が沈まないための確認だ。

 コハクは、不意に訪れたその瞬間を、迷いなく使う。クラン(故郷)の神は、人の平等のための猶予を、必ず与える。


 ──台の上。青年が伝え残した文章紙。

 あれはもう「持ち出し不可」だ。触れれば死ぬ。

 だから触れない。盗まない。奪わない。

 ただ――写す。

 コハクは、一歩だけ、台に近づいた。

 枠の線が、彼女を牽制するように揺れる。


『……外部者、介入』

 監査立会者が、“あわてて”平板な声を出す。

 ツムギが、そこで初めて音を発した。

 短く、滑らかに。

「立会人の介入行動は、照会者の有無に左右されない」

 言った瞬間、事後に致命的な事態にならないか、恐れが立ち上がる。

 間違いなく危険だ。

 しかし、それでも言う価値がある。


 監査立会者が、ツムギへ視線をうつした。

 人格を見ない目。誤りを探す目。

『……外部者、発言。記録』

 ツムギは、それだけで止めた。ほんのわずかな時間でよかった。それに、さらに踏み込めば青年へのを奪われる恐れもある。……まだ、すべてを諦めるには早い。


 ──コハクは、台の縁に手を置かない。

 空気の上で動くだけだ。

 薄膜を、台の紙の上にすべらせるようにかざした。

 紙面に触れない、ぎりぎりの距離。それでも薄膜は、紙の凹凸と、書き癖の圧を拾う。


 ――本来、クランの声を、街の心臓を扱う、彼女の仕事。

 鐘塔の記綴司、その技術だ。


 インクじゃなく、痕跡、紙に残った「押し」を写す。

 コハクの指先が、ほんの一度だけ、薄膜の端を折る。

 それで終わり。

 ツムギは、『この国にあるはずのない力』に賭けた。

 その行為を処分する法、そのものがないことへ。


 薄膜がコハクの掌へ戻る瞬間、白い部屋の方眼が、かすかに波打った。

 運用が、警戒感として歪みを生む――が、それを差し止める権利は、ここには存在しない。


 監査立会者が不審に思い、声を少しだけ上げた。

『……不許可行為』

『……関連者処理、即時』

 床の黒線が、コハクの足元で不安定にしなるが、彼女は気にしない。

 強制力もない。もうすでに、動き終えている。


 碑守が、歯を食いしばった。

(……持ち出せるか?)

(どうかな。ただ──どんな形でもいいと思う)

 ツムギは、胸の内で答えた。

(残すことが、この国にとって何より大切なんじゃないかな)


 台の向こうの人物が、淡々と告げる。

「……照会者不在。……追記、代理補正へ移行」

 監査立会者が、紙を指差した。

『……利用者名および、外部者確定』

 その瞬間、ツムギの拳に力が入る。

 来る。


 ここからは、青年がきっかけとして残していった“運用者の穴”を塞ぐために、こちらの処理に動く。

 ツムギは、仕掛けに出た。

「監査立会者。あなたは“運用者”だ」

 監査立会者の目が細くなる。 

 否定するための計算を、即座に広げていく。

『……私は記載主導。運用は制度』

 ツムギは、言葉を重ねない。

 そのまま、台の向こうの人物へと視線を投げた。

 青年が落ちる直前、この人物は言ったのだ。

〈監査介入。記録あり〉

〈運用者。該当〉

 ツムギは、それらの言葉だけを抜く。

「該当しているなら、枠はあなたにも回る」

 台の向こうの人物は、ただ手を動かしている。

 ペンの先、紙面の上に落ちた影に、自身のわずかな感情を逃がすように。


『……役人は運用者ではない』

 監査立会者が、焦りをふくんだ声を出す。

 ツムギは、首を振らない。

 ただ、問いを置く。

「では、誰が運用者だ」


 ――名を置け。

 名を置けば、責任とともに閉じる。

 青年が書き残した骨が、いま空気の中で立っている。

 ──そして、いち市民でないものの名は、閉じても終わらず、その責の重さに応じて、永遠に“誰か”に追われる。


 監査立会者は答えない。

 答えられない。

 だから、別の方向へと、そのエネルギーと意志を、手段として流す。

『……外部者の違反を確認』

『……照会者への合図。記載誘導。手続き介入と認定。処理、開始』


 床の黒線が、ツムギとコハクを囲い込む。

 輪郭が濃くなる。

 息が苦しい。肺が圧で押し込められていく感覚。

 碑守が、唇を動かす。

(……来るか)

(来させない)

 ツムギは、心の中で返す。

 つづいて少年は、コハクの掌を見た。

 薄膜。

 あれは「紙の外側」。

 規定の抜け穴だ。

 持ち出しではない。証拠の添付でもない。

 ただの、職人が持つ材料。

 ツムギは、声を出さずに、コハクへ合図を送る。

 視線だけで。


 “見せろ”。

 コハクは、薄膜を二つ折りにする。

 そして――自分の手袋の内側に押し込んだ。

 どこにでもある動作。

 しかし、そのいくぶん大げさな動きの瞬間、監査立会者の目がきびしく動いた。

 見た。

 “何かが出た”と。


『……提出物あり』

 来た。

 監査は、勝手に「提出」と呼んだ。そうでなければ、“正しく”無かったことにできないから。

 提出にして、虚偽にして、代理補正に落とす。


 ツムギが言う。

 短く、硬く。

「提出ではない」

『……ならば没収』

 監査立会者が、一歩だけコハクへ寄った。

 寄っただけで、床の黒線が彼の枠をさらに濃くする。

 枠の中で動けば、当事者化が進む。

 青年が作った反転が、まだ生きている。

 監査立会者は止まる。

 止まったまま、台の向こうへ命令する。

『……没収の記録を――』


「……監査立会者」

 台の向こうの人物が、初めて監査へ呼びかけた。

 いつもの淡々が、少しだけ人間に寄る。

「……あなたの“没収”は、運用の介入である」

 監査立会者の目が揺れた。

 ほんの一瞬。

 その揺れは、感情と――枠が自分を食い始めたときの、身体の反射だ。

 床の黒線が、監査立会者の足元を、ぎり、と締める。

 完全な輪郭になる寸前。

 逃げ場が薄くなる。


 監査立会者は、選ぶ。

 名を残さずに生きるための選択を。

『……撤回』

 その一語で、部屋の空気が、ふわりと戻った。

 枠の締まりが一段だけゆるむ。

 だが、遅い。

 撤回は記録だ。

 “運用者が、運用した”証明になった。

 碑守が低く笑い、両(こぶし)を合わせる。

(……踏ませた)

 ツムギは、ここで勝負を決めにいくため、台の向こうの人物に言う。


「記録を出せ」

 たったそれだけ。

 外交官の青年が落ちたのと同じ、命令の形。

 台の向こうの人物が、視線を上げる。いつものように、淡々と。

「……閲覧、国外者不可──」

 言いかけて、止まった。

 止まる理由が、部屋の床にある。

 監査立会者の枠。

 関係者としての枠。

 台の向こうの人物は、ペン先を紙の上に置いた。

 そして、言い直す。

「……監査介入記録。……当事者。閲覧、可能」

 監査立会者の顔が、初めて動いた。

 その動きは、怒りより先に“拒否”だった。

『……規定の拡大解釈だ』

 ツムギは、返さない。

 返す必要がない。


 規定の拡大解釈で世界を殺してきたのは、向こうだからだ。

 台の向こうの人物が、紙を一枚差し出した。

 手を伸ばし、台の端へと、そっと滑らせる。

 ツムギより先に、コハクが手袋のまま紙の端を押さえた。触れて、紙の上の「記録番号」だけを見る。

 ……正式な書類というものは、どんな国であっても大差ない。発展に差はあるが、総体ではほぼ平凡に近くなる。


「……これ」

 コハクが、指先で番号の列を示した。

「監査の欄、あるじゃん」

 声音は小さい。だが、笑わない。あざけりなどではなく、断罪の静けさだ。

 台の向こうの人物が、淡々と補う。

「……監査介入。運用記録。条件により、欄、存在」

 監査立会者の口が、ほんのわずかに歪んだ。

 “都合の良い手続き”が、白い部屋の中心に晒された。


 ツムギは、その瞬間を逃さない。

 ふたたびコハクへ視線を送る。

 “いまだ”。

 コハクは、手袋の内側から薄膜を取り出した。

 小さな折り畳み。

 それを、台の端へやる。

 置くのではない。

 落とすのでもない。

 意味ありげに「添える」。


 監査立会者が、反射で言う。

『……禁止』

 台の向こうの人物が、淡々と返す。

「……禁止事項。紙の持ち出し」

 コハクが、そこで短く笑い、声に出す。

「……薄膜ハ、紙デハナイ」

 勝ち誇ることなく、救いのための笑顔で。

「写しだよ〜」

 薄膜の面には、青年が書いた線の凹凸が残っている。

 字そのものじゃない。

 インクでもない。

 “押し”だ。

 だから整形できない。

 削れない。

 監査立会者が、一歩も動けないまま告げる。

 声が冷たい。震えが混じり、考えるより先に発言している。

『……虚偽。代理補正へ移行』

 台の向こうの人物が、淡々と遮った。

「……代理補正は、記録の改変である。監査介入記録がある以上、改変は運用の証明となり、〈処理された危険者〉の関係者となる」

『!』


 ――致命的なミス。文字通り、青年が容赦したはずの“致命的な答え”が、ここに巡ってきた。

 何よりも、国よりも優先させた、当人の保身ゆえに。正しさが、正しさの顔をしたまま初めて噛み返した。


 監査立会者の足元の枠が、ぎり、と鳴った。

 完全な輪郭になり、逃げ場が消える。

 碑守が、吐き捨てるように言った。

「……お前は名を晒すことを嫌うくせに、名よりはるかに汚いものを抱えてる」

 監査立会者は、言葉を返せない。

 反射的な言動は、すべてが記録として不利に働いてしまう。

 充分に理解しながらそれをやってしまったのは、相手を侮っていたからだ。


 台の向こうの人物が、淡々と宣告する。

「……監査対象、運用者確定」

「“処理”関係者として危険者認定。……同、処理手続き開始」

 床の黒線が、監査立会者の足元から、上へ伸びる。

 足首。膝。腰。

 枠が“人”を囲うのを、今度は冷ややかにツムギは眺めていた。

 監査立会者の目が、ツムギを射抜く。

 人格を見ない目が、初めて“憎しみ”を帯びる。

『……外部者……』

 青年と同じように、身体が沈み始める。

 だが、彼とは違う。

 これは傲慢な超越者のための犠牲じゃない。

 ただの思い上がった“正しさ”の反転。自滅だ。

 沈みながら、監査立会者は、最後の抵抗として台の向こうへ命令した。

『……記録……封緘……』

 台の向こうの人物は、淡々と首をふった。

「……封緘は、運用者権限」

「……運用者は、いま処理中」

 監査立会者の口が、初めて開いたまま止まった。

 声にならない。

 助けを求めたのに、手順を扱う者が、手順に殺される。

 沈みきる直前、監査立会者の目が、薄膜に落ちた。


 あれが外へ出る。

 その未来を理解した目だった。

 ――ズン。

 床が静かに戻る。

 部屋の赤いマスが、一つだけ、ゆっくりと消灯した。


 台の向こうの人物が、淡々と告げる。

「……監査立会。消滅」

「……記載主導、空席。外部者混入、再判定。照会者不在、退国理由も未完」

 ツムギの足元の枠が、わずかに薄くなる。

 コハク、碑守の枠も、同じように緩む。


 碑守が、もはやあきらめなのか、慣れたように言った。

「……聞いたな。継続だ」

「……そうだね。運用は、止まらない──このまま、止まるわけがない」

 ツムギは、白い部屋の方眼を見上げた。

 一マス一マスが、まだ答えを待っている。


 青年の国は、まだ閉じたままだ。

 けれど、閉じた理由の“骨”は、いま掌の中にある。

 「……」

 ツムギは、薄膜を握るコハクの手を一度だけ見て、言った。短く。


「外へ出よう」

 コハクがうなずく。

 するどい視線で。

 ――運用を、外へ晒す。国を閉じた罪を、誰もが納得する形で暴く。

 ──そして──青年が落ちた場所へ行く。


 白い部屋の赤いマスが、最後にもうひとつ点った。

 次に沈むのは誰か、の選択ではない。

 次に“外へ出るものは何か”だ。







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