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鳴らない鈴  作者: 久賀 広一
3章 遠き思い、近き人
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第14話 窮鼠(きゅうそ)


 白い部屋の赤いマスが、もうひとつ点った。


 青年は、呼吸すら一瞬忘れた。

 集中して考える。向こうの手順を折るための、こちらは折れない冷たい芯を。


 台の向こうの人物が、淡々と言った。

「……監査、最終介入」

 監査立会者が続ける。

『……記載主導、こちらへ』

『……追記。利用者名。確定』

 名。

 なじみの、国が綺麗に閉じる鍵。

 青年は、紙面を見ないまま答えた。

(いい。それを――書く)

 ツムギの視線が、わずかに動いた。

 コハクも眉を動かした。

 止めない。止められない。青年が決めた形だ。


 監査立会者の目が細くなる。

『……よろしい。それでは』

(ただし)

 青年は言葉を切る。

(“お前も”らんに書く)

 空気が止まった。

 監査立会者が、初めて声の温度を上げた。


『……規定違反だ』

 台の向こうの人物が、機械のように補う。

「……規定。利用者名は、照会者欄」

 青年は首を振らない。

 ただ、外交官の目で“条文の隙”を撃つ。

(俺が、記載において一番に求めているのは、退国理由そのものじゃない。“正しさの運用”だ! 運用は、運用者の名で成立する。ここでのやり取りも、無論すべて含めての理由に結実する)

 監査立会者が、薄く笑った。笑いというより、判定だ。

『……詭弁』

『……抽象』

(抽象じゃない。――正規の手順だ)


 青年は、原文を口にしない。

 もう言わない。

 代わりに、いちばん速い形で、答えを“見せる”。

(お前は、名が欲しい)

(名で責任が一つになれば、“正しい処理”で国が閉じる)

(――なら、その責任を、お前に置く)


 監査立会者の表情が動かないまま、部屋の線だけが動いた。

 床の黒線が、監査立会者の靴先へ伸び――ほんの少しだけ、枠の角が出来る。

 監査立会者の目が、初めて揺れた。

 苛立ちじゃない。

 自分が「当事者の欄」に近づくのを感じた揺れだ。


『……停止』

 短い命令。

 だが、ここは命令で止まる場所じゃない。

 手順でしか止まらない。


 青年が言う。

(監査の最終介入は、“虚偽確定”か“根拠証明”などの決定的なものだ。お前は、その前段階で名を要求している。そっちの役人はともかく、監査立会人に与えられた権利ではない。誤ったな――手順外だ)

 台の向こうの人物のペン先が、紙の上で止まった。

 “手順外”という語が引っかかり、システムが停止した。


 監査立会者が、冷たく返す。

『……根拠提示を要求している』

『……提示不能なら、代理補正』

(提示する)

 青年は、即答した。

 監査立会者の目が、わずかに細くなる。


(この場で出せないように、国を閉じた――その運用こそが根拠だ)

 監査立会者が口を開きかける。

 だが青年が、先に切った。

(一般論で言う証拠は、すでに“処理”されている。そして、新たな証拠が出てきたとしても、潰せる。だから国は、その暴力的なまでのオペレーションシステムを、外へ出さなかった。世界を守るため、という看板で)

 ──核心だけを叩き込む。

 この場の「勝ち筋」に直結する要点だけを。


 監査立会者が、言葉を削るように言う。

『……なお抽象』

『……名を』

 青年は頷いた。

 ――だから書く。相手が、一番嫌う形で。

(“二つ”書け。照会者の名と……運用者の名を)


 監査立会者の目が、完全に冷える。

『……運用者名の記載欄は存在しない』

(嘘をつくな)

 青年は、台の向こうの人物を見た。

(お前がさっき、“監査、最終介入”と記録した。記録があるなら、運用者は確定できる)

 台の向こうの人物の目が、ほんの一瞬だけ止まる。


 紙の端をめくる確認が、その視線に走る。

 そして、淡々と告げた。

「……監査介入。記録、あり」

 監査立会者の顔色は変わらない。

 しかし、その沈黙から、はっきりと読み取れる。

 “手落ち”。

『……記載主導は、監査権限。──権限は、名を要しない』

(要する。名がない権限は、ただの暴力だ。責任の出所がまったく違ってくる。それは、お前が嫌う言い方で言えば――無法だ)


 部屋の黒線が、監査立会者の足元を、もう半歩ぶん囲った。

 まだ全てじゃない。

 でも、十分だ。

 枠は一度ついたら、広がる。

 碑守が、息だけで言った。

(……当事者化を、返した)

 ツムギは、青年の横で、わずかに視線を落とす。

 線の動き。

 枠の濃さ。

 “あと何秒で、誰が沈められるか”が見える。


 青年も見えている。

 だから、次で終わらせる。

 青年は、静かに言った。

(名は書く)

(俺の名だ)

(――そして、運用者の名も書く)

『……照会者。自名の記載は許可』

 監査立会者が即答する。

 そこは許可できる。

 自分が安全だから。

 青年は、その“許可”を待っていた。

(なら)

(俺は、ここに“運用”を添える)

(名を出せば終わる、その仕組みを書き残す)

 ――そして俺は、処理対象になる。


 ツムギの喉が、ひくりと動いた。

 コハクは笑えなかった。


 青年は、ツムギを見ない。

 見たら、揺れる。

 揺れた瞬間、名だけを奪われる。

 監査立会者が言う。

『……照会者の処理は、規定に従い実施』

 台の向こうの人物も言う。

「……記載。開始」

 ペン先が、紙に触れた。

 カリ。


 青年の名が、書かれていく。

 書かれるたびに、青年の胸の布切れが、熱を失っていく。

 国民としての輪郭が、薄くなる。


 ――これが“処理”。

 名を記録の中へ落とす。

 権利も、所属も、帰る場所も、可能なものをすべて削っていく。


 監査立会者が、最後の釘を打つように言う。

『……追記。運用者名』

『……不要』

 青年は、そこで初めて監査立会者を見た。

 まっすぐ。

 外交官の目だ。

(不要なら、お前は運用者じゃない。運用者じゃないなら、ここにいる資格がない)


 監査立会者の視線が、一瞬だけ逸れた。

 逸れた先は、台の向こうの人物。

 ――“機械”に、助けを求めた。

 台の向こうの人物が、淡々と言う。

「……監査。立会」

「……介入。記録」

「……運用者。該当」

 黒線が、監査立会者の足元をすべて囲った。

 角が角ではなくなり、枠になる。

 監査立会者が、初めて声を荒くした。

『……停止!』

 青年は、止めない。

 止めるのは、もう監査じゃない。

 手順でなければブレーキにならない。


(――俺の名で始まった。なら、最後まで俺が書く。これも、正しさの運用だ)

 ペン先が走る。

 紙の上に並ぶのは、美しい言い訳じゃない。

 短く、誰も逃がさない骨。

 ――名を置けば、責任が閉じる。

 ――責任が閉じれば、国も閉じる。

 ――そして運用者は、名を持たずに外へ逃げる。……代わりに、死ぬまで、隠した名を辿られることに怯えながら。


 青年の文は、途中から崩れた。

 崩れてもいい。

 整形されにくい形になった。

 監査立会者が、歯を食いしばった。

『……虚偽』

『……代理補正へ――』

「……監査対象」

 台の向こうの人物が、淡々と遮る。

「……運用者。枠、確定」

 監査立会者の足元が完全に囲われ、逃げ道が消える。


 この場の、青年の政権告白からつながる“正しさ”が、初めて運用者に牙を向く。

 青年は、そこでようやく、ツムギの方を見た。

 ほんの一瞬。

 充分だった。


(外へ運べ)

(――俺の国の、失敗を)

 ツムギは、頷く。

 声は出さない。

 ここで声を出すのは、青年の仕事を奪う行為だ。

 コハクが、青年の視界の端で、指を一本立てた。

 「一つだけ、やる」

 そういう合図。


 ――青年が消える前に、外へ渡すための最小の動き。

 青年の胸の布切れが、薄くなる。

 輪郭が、削れる。

 それでも彼は、最後の一行を伝えた。

 運用者の名を書く代わりに、運用者が一番嫌う形で。


 ――運用者は、名を持たない。

 ――巧妙に出来事の脇にひかえ、だからこそ、運用が止まらない。

 ――国の中枢がはじめた、この愚かな権力のおごりを止めるには、崩壊しかない。

 ――この国の中で、止めろ。


 伝え終えた瞬間、青年の指から力が抜けた。

 立っているのに、何もかもが、どこか遠い。

 台の向こうの人物が、淡々と告げた。

「……記載。完了」

「……文言の多くから“危険者”と判定。『運用処理』。開始」

 青年の枠が、静かに沈む。

 床へ吸い込まれるように、記録の外へ、落ちていく。

 ──この地の系譜が記された、記念碑の地下──まさにこの場が、この国にとっての有益者も多数失われた、処理場だった。


 青年は、最後にもう一度だけ言おうとした。

 声は出ない。だがそんなものは、もう必要なかった。

(――頼んだ。どんな形でもいい。絶対に終わらせないでくれ)

 ツムギの奥歯が、強く噛み合う。

 コハクは、かすかに震える目で、青年の落ちる方向を見送った。

 そして、監査立会者の足元の枠が、ぎり、と鳴る。

 ――正しさが、正しさの顔をしたまま、初めて噛み返した。


 赤いマスが、もうひとつ点った。

 次は、誰の名がのこされ、何が消える番か。

 それとも――運用そのものが、外へ晒される番か。






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