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鳴らない鈴  作者: 久賀 広一
3章 遠き思い、近き人
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第13話 たった一人の真実


 床の黒線が、青年の足元から伸びて、ツムギの靴先に触れた。

 逃げ道をなくし、枠で囲んでいく。

 同じ線が、コハクの方へも寄る。

 彼女は一歩だけ下がり、すぐ止まった。下がった先にも、線が来ると分かったからだ。


 碑守ひもりが、抑えた声で吐き捨てるように言う。

「……監査が入る。ここからは、些細な一言の危険度が、さらに上がるぞ」

 青年が、手元の原文を見た。

 乱暴な字。消し跡。書き直し。追い詰められた人間の筆圧。


 ――この国の中で、止めろ。

 たったそれだけの言葉が、まるで自分自身の底よりも深くから響いてくるように、届く。


 台の向こうの人物が、淡々と告げた。

「……追記。利用者名。記載」

 青年の指が、ぎし、と鳴るほど硬くなる。

 名前。

 誰か一人の名を置けば、そこに責任がまとまる。きれいに終わる。きれいに閉じる。

 ――その“きれい”が、いちばん汚い。


 ツムギは変わらず青年の横に立ち、何も告げない。

(……)

 青年は、小さく息を飲んで、頷いた。

 その瞬間。

 しばらく前から点灯していた赤い一マスの横に、もう一つ赤がともる。

 監査の足が、ここへ届いたという合図。

 そして――壁の一角が、音を立てずに開いた。

 最初からそこにあったただの継ぎ目が、“許可されたから開いた”というように自然に割れた。


 意外なほど重みを感じさせずに、灰色の外套の人物が入ってくる。

 男か女か、年齢も読めない。

 顔は普通だ。普通なのに、視線だけは異様さを感じる。

 他人の人格を気にしていない。常に、世界にとっての誤りを探している目。


 監査立会者は、台の向こうの人物に目礼し、それから青年へ視線を落とした。

「……照会者。国民。退国理由。記載中」

『……外部者、混入あり』

 混入。

 その言葉が、石みたいに心へ落ちた。

 ツムギとコハクの足元の枠が、じり、と濃くなる。

「……下手に動くなよ。今ここで“相手の言動によって動いた”という事実だけでも、あとでうまく料理されるかもしれない」

 碑守が低く告げ、ツムギもコハクも、しずかに頷く。

 この場の主役は、あくまで青年だ。

 

 ……彼は、無言で息を吸っていた。

 紙を見つめたまま。

 乱暴な字を、睨むみたいに見ている。

 台の向こうの人物が、淡々とくり返す。

「……利用者名」

 監査立会者が、ごく自然に続けた。

『……追記未確定は、保留不可。……期限、短し』

 “短し”。

 それは脅しじゃない。

 ただの事実の形をした刃だ。


 青年の喉が動く。

 声は出ず、だが意味だけは刺さる。

 そして、下手な言葉は、刃を自分に返すことになる。


(──名は、書かない)

 それを知らされた監査立会者の視線が、ほんのわずかに細くなる。

 その反応だけで分かった。

 “名を置けば終わる”ことを、こちらも知っていることを認識された。


『……記載不能は、代理補正へ移行』

 監査立会者が淡々と続けた。 『……代理補正は、整形基準に従う』

 整形。

 青年の歯が鳴りそうになった。

 碑守が、背後で小さく息を吐いた。

「……何か手はないか。完全にあっちの都合の文章にされるぞ」


 青年は、必死に考えを巡らせている。

 ――そのとき、床の黒線が動いた。

 青年の足元だけではない。

 ツムギとコハクの靴先まで伸びた線が、輪郭をなぞる。

 監査立会者が言う。

『……外部者、当事者化。……介入記録、準備』

 混入、の次は当事者化。

 責任を散らす。全員の逃げ道を塞ぐ。

 ここまでが“正しい運用”だ。


 ツムギは動かない。

 コハクも笑わない。

 二人の仕事は、この場を荒らさず、青年の心を折らせないことだった。


 青年が、紙を見たまま、短く伝える。

(“誰が”じゃない)

 監査立会者が間髪を入れず、返す。

『……規定は、利用者名。抽象は、記載対象外』

 青年の瞳が、わずかに揺れた。

 抽象じゃない。

 言わされる“名”こそが、ここで一番の嘘だ。

 ――名を出させて。

 責任を一人にまとめて。

 その瞬間、国を閉じる理由が“綺麗な結末”になる。

 青年は、原文の一文を、指先でなぞった。

 触れてはいない。

 触れたら、それすら“記載の材料”になると分かっているから、空気の上をなぞる。

 そして、言った。

 今度は、短く、削れない形で。


(全部告げる)

 白い部屋の方眼が、くっきりと浮かんだように感じた。

 空気が一段冷えるように、密度を増す。

 監査立会者の目が、初めて温度を帯び、確認を求めてきた。

『……全部?』


 青年は、そちらを向いていなかった。 

(名を……すべてを)

 泣きそうな目で、ツムギとコハクを見て、強くうなずいた。

 まるで、彼はここで終わることを決めたように。

 あとを託すに足る、信じられる人間を見つけたように。


 そして、これまで抑え込まれていたものを一気にぶつけるように、語りはじめた。

 ……それは青年が知っていたこと。思い出したこと。この国に戻ってから、対峙した人間のニュアンス、すべてから導き出した答えだった。

  

(……この国の役所は、“上”に行くほど仕事の能力に、プラスαの特殊な力が必要になってくる。80年ほど前に共和制になってから、そういった首長と枢機院が、この国を取り仕切っている)


語り始めると、彼の目の強さは増していった。


(今の枢機院──枢機卿12人の方々は、歴代でも類を見ないほどこの国を繁栄させたが……それはのちに、決定的な過ちをも生み出すことになった。──それは、彼らが持つ、優れた支配階級としての能力と、高位の特殊な“力”によって作り上げられた──『どのような人間でも、正しく処理できる手順』だった)


 青年は拳をにぎり、台の向こうの人物と、監査立会人を見つめた。

 二人は、目の色を固くしている。彼の訴えが誤りではないことを、二人はわずかながらも証明している。


(……そりゃそうさ。たとえどんなに国が栄えようと、きびしく罪を取り締まろうと、法のもとに裁けない悪は、生まれ続ける。むしろ、栄華を極めた国なら、なおさらそこに巨大な悪も、甘い汁を吸うために現れる。法をくぐる狡猾なそれらを裁くために……最高に有能だった枢機院は、人を都合よく処理するための“手続き”を作り上げたんだ)


 力を込めて告げる青年は、もう覚悟を決めていた。

 これらの事実は、すべて個人としての意見に過ぎず、国の決定事項である退国宣誓には、ほとんど意味を及ぼさない。

 ただ、国民一人ひとりをきちんと“片づけ”ないと、国も片づかない──きっと、彼らの理由はただそれだけで、そこに自分の真実も、たしかに存在してしまうだけなのだ。


(……最初は、巨悪だけが相手だった)

 その言葉に、監査の目が光る。

 「それなら正当だ」と言える材料だ。

 青年は続けた。

 その理屈を潰すために。

(──次は、要人関係の、裁きにくい罪人)

(その次は、関係者)

(さらに、口を挟んだ者)

(最後は、“まだ残っている者”だ)

 ――残っている者──

 その言葉が放たれた瞬間、床の黒線がもう一段濃くなり、ツムギとコハクまで強固に囲まれた。

 “外部者混入”が、もう仮の扱いじゃなくなる。

 当事者。処理対象。

 その手前。

 碑守が、かすれた声で吐いた。

「……見ろ。これが“正しさ”だ。正しさは──拡大する」

 青年は、唇を引き結んだ。

 そして話は、崩壊の核心へと進む。


(やがて、枢機院の力、国の隆盛に陰りが見え始め、次世代の有能者が台頭し始めたころ、次々に人が“処理”された。……政治者としてのピークを過ぎても、まだその高い位置にあるイスに座り続けたい──ありがちで傲慢な老害となった枢機院が、将来の国にとって有益な人物を……己の立場に取って代わる者たちを、消し始めたんだ)


 ……もはや、台の向こうの人物のペン先は、紙面の上で完全に止まっていた。

 青年の言葉は、たった一人の国民が訴えている、想像の意見に過ぎない。だが、それが真実であった場合の力は、一票の権利など、はるかに超える。

 後世への綺麗な証明と、彼と国の“処理”に、多大な影響が出る。


(“外を守るため”だって?──それは、まったく違う!!)


彼は叫んだ。声なき、必死の形相で。


(これは、この国の退国宣誓は、経済に陰りが見えたこの国が、隣国ミノス帝国の悪臣に付け入られ、“処理”の手続きの力ごと、利益を奪われそうになったためだ! 戦争よりもはるかに卑劣なその力を防ぐため──他国に処理の力を振るわれるのを防ぐため、『外を守る』名目で、自分たちのしてきたことをすべて闇に葬ろうと、『優秀な』枢機院の御大がたが、正しさを訴えた退国宣誓──それは、国家最大の悪行だ!!)


「!」

「!!」

その場にいたすべての者が、立ちすくんだ。


 退国宣誓原文──それは、後悔に至った枢機院の一人の、本心からの言葉だったのかもしれない。

 “もはや自分たちの立場がどうこうという場合ではない”。すぐにでも「この力」を消滅させねば、闇に葬らねば、史上類を見ないほどの国家群滅亡が始まる──


「◯◯を守るために──」

 その強く純粋な危機感は、他の『賢明な』枢機卿たちによって、見事に塗り変えられ、自分たちの犯した罪を、美しい看板でおおい、国民に退国を突きつけた。


 ……青年の言葉が尽きたあと、白い部屋には、音のない“間”が落ちた。

 方眼の一マス一マスが、答えを待つ顔をしている。


 監査立会者は、眉ひとつ動かさずに告げた。

『……国外勢力への言及。監査対象。根拠提示を要求』

『……提示不能の場合、虚偽扱い。代理補正へ移行』

 淡々とした口調なのに、刃の角度だけは正確だった。


 台の向こうの人物も続ける。

「……追記。利用者名」

「……根拠、添付」

 ペン先が、紙の上で待ち直す。今度は“語り”ではなく“証拠”を催促する待ち方だ。


 青年の喉が鳴った。

 証拠。――ある。

 削り跡。空白になった名。整形稿と原文の差。

 だが、触れられない。持ち出せない。ここではすでに、それらは終わった材料であり、ルールに抵触する行為となる。

 床の黒線が、すう、と伸びた。ツムギとコハクを越えてさらに、碑守の足元まで届く。


 監査立会者が言う。

『……関連者、確定へ』

 責任の“置き場所”が、四人分に広げられていく。

 碑守が、諦めたようにつぶやいた。

(……来るぞ。名に落とすつもりだ)

 青年は、台の上の白紙から目を逸らさない。

 そして――台の向こうの人物を、まっすぐ見た。外交官の目だ。恐怖や怒りより先に、手続きを読む目。

(根拠なら、ある!だが、“名”じゃない。――手順だ!!)

 監査立会者の目が、ほんのわずかに細くなる。

『……抽象は、記載対象外』

 青年は、そこで引かなかった。

(抽象じゃない。起きたことの、順番だ)

 息をするのも忘れたように、続ける。

(巨悪を口実に、“処理”を作った。……次に、裁きにくい者へ広げた。そして関係者へ、異議を言う者へ、最後は“残っている者”へ――正しさを便利な道具にして、人を消すのは可能になった。だがその正しさゆえに、手続きは常に残さなければ罪となる)


 その言い方は、整形しにくい。

 “誰が”を言っていないのに、“どうやって”が骨になる。

 台の向こうの人物のペン先が、ほんの一瞬だけ迷った。

 監査立会者が、間髪を入れずに応える。

『……手順の記載は、監査権限に抵触』

『……記載の整理を実施。代理補正、開始』

 台の向こうの人物が、紙を一枚、差し替えた。

 今度の用紙には、最初から欄があった。白いままの欄が、きちんと並ぶ。

 ――利用者名(複数)

 ――国外勢力(照会対象)

 ――関連外部者(記録)

 青年の顔が固まる。

 名を置かせるための“器”が用意され、ここから先は、言い方を間違えれば全員が沈む。


 ツムギは、まだ動かない。コハクも口をつぐんでいる。

 ただ、青年の視界の端で、二人は「ここにいる」と分かる距離に立つ。折れないための背骨として力を貸す。


 青年は、息をひとつだけ深く吸った。

 ――外交官として、最後にする照会の形を決めるために。

(……いい)

 小さく、唇だけで言う。

(なら、そこに書け。名じゃなく、“この国が閉じた本当の理由”を)


 監査立会者の目が、冷たく光った。

『……理由は整形基準に従う』

 青年は、まっすぐ返した。

(整形できない形で言う)

 台の向こうの人物が、ペンを持ち上げる。

 紙面の上に影が落ちる。

 黒線が、四人分の区画を、さらに一段だけ濃く縁取った。


 ――次に落ちる一語で、誰が“当事者”になるかが決まる。

 青年は、原文のあの一文を、胸の中で握り直した。

 外へ出すな。外を守れ。この国の中で、止めろ。


 そして、言葉を選ぶのをやめた。

(……俺は、ここで終わらせない)

 ペン先が、紙へ降りてくる。最後の言葉を受けるために。 

 青年は、この場の全てを、未来へ刻むために力を込めた。


(――“正しさの運用”を、記載しろ)


 白い部屋の方眼が、静かに鳴った。

 次の頁が、めくられる直前の音だった。 白い部屋の赤いマスが、もうひとつともった。








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