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鳴らない鈴  作者: 久賀 広一
3章 遠き思い、近き人
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第10話 答えの主権


 光の中へ踏み込んだ瞬間、空気が乾くような音がした。

 湿り気が消える、というより――余計なものが、ぎ落とされる気配。


 匂いや、温度、距離感がクリアになる。

 判断に必要な、純粋な要素が浮き上ってきて、どこか脳がんだように感じられた。


 扉の向こうは、先ほどとは違って部屋になっていた。

 壁は白。床も白。天井の高さだけが異様に高く、視線を上げるほど、自分の存在が薄くなっていく感覚があった。

 そして、天井も含めてすべての面に、方眼の模様がある。


 いくつもの、無数にあるかのような黒線が目に入った瞬間、ツムギの意識が冷えた。

 これは単純な模様じゃない。

 幾重にも用心された、“決めつける”ための仕切りだ。一つ一つに、微細な力が流れている。


 部屋の中央に、台があった。

 祭壇のように見えるが、儀式的な温度は感じられない。


 台の上には、紙が一枚。

 白いままの紙。まだ何も書かれていない。

 そして、台の向こうに人がいた。

 原本係とは違う。

 机の人間とも違う。

 背が高く、痩せていて、服はこの国の役所のものに似ているのに、肩だけが肩章けんしょうのような“軍”の形をしていた。

 男に動きは、ほとんどない。ないのに、存在感だけはやたらと重い。


「……ここが、決める場所だ」

 碑守が、喉の奥で息を殺したまま言った。

 声は出したが、余計な音を響かせないように、最低限の説明だった。

 コハクが、ツムギの袖をほんの少しだけ引く。

 目線で言う。

(ねえ、これ……というか、あの人。『誰なのか』っていうより、『役職』って立場だけだよね)

 ツムギも同じことを思っていた。

 あれは人間の形をしている。けれど、人格じゃなく、仕組みの代表としてそこにいる。


 青年は一歩、前へ出ようとして――止まった。

 床の黒線が、わずかに動いた気がしたからだ。

 踏み越えさせないのではない。踏み越えた者に、区画を与える。区画を与えた者を、分類する。──知らぬ間に、自分の行く末を決められてしまいそうだった。


 青年は、胸の布切れを押さえた。

 ほとんど印は残ってない。けれどまだ、完全に失われてもいない。

 台の向こうの人物が、ようやく口を開いた。

 お定まりの、淡々とした、だが几帳面なまでに意味が込められた声だった。

「……照会者。国民。退国の同意。最終確認」

 同じ文言。

 けれど、ここでは深刻さが違う。

 ここで答えたら、それは“記録”ではなく、“確定”になる。

 青年の指が震えた。

 ツムギは青年の横に立つ。触れない距離で、心の負担だけを共有するように。


 碑守が、青年だけに分かるように、低く言った。

「……お前は、ここで“正しい答え”を出す必要はない」

 青年が、かすかに眉を動かす。

 碑守は続けた。


「今、この国にとっての正しい答えは、国家を閉じる可能性が高い。向こうが欲しいのは、物事の善し悪しじゃない。――『完了』だ」


 台の向こうの人物が、ペンを持ち上げた。

 紙の上で、影が揺れる。

 黒線が、ゆっくり台へと寄ってくる。まるで結論を求めるみたいに。

 コハクが唇だけで呟いた。

(ツムギ、ここの強制力は強い。おそらく、小細工は裏目に出る)

 ツムギは、小さく頷いた。

 そして、青年の目を見る。

(……迷わなくていい。君がいちばん、自然に感じる答えでいいんだ。どうなろうと、きっと国を思う力は消えない。そして、だからこそ国も──)


 青年は、息を吸った。

 吸った息が、胸の奥の重みになる。

 この国の空気は、もう人に優しくはない。正しさを選ばせる顔で、ただ逃げ道を減らしていく。


 青年が、口を開いた。

 ――その瞬間。

 台の向こうの人物が、ペン先を紙に落とした。

 カリ。

 まだ何も答えていないのに。

 まだ何も同意していないのに。

 白い紙の上に引かれたのは、文字ではなかった。

 

 道筋でも地図でもない、「行き先だけを示す線」――それが、今度は手続きの書類上で生まれ、青年の足元へと伸びてくる。

 碑守が、歯を食いしばった。

「……来たな。“逃げ道”を用意して、逃げた側を罪にするやり方だ……。今、この国に留まれば、ほとんど〈無〉に近い者たちへの仲間入りになる。逆に外に出るなら、郷里は自分の中に残っても、権利はなくなる」


 青年の目が見開かれる。

 線の先――青年の立つ区画が、周囲から縁取られ始めていた。


 コハクが、工具袋に指を滑らせる。

 留め具ではない。もっと単純で、強い力を持つくさびだ。

 彼女の目が言う。

(ねえ。これ、次の問いは“同意か不同意か”じゃないよ)

 ツムギにも分かった。

 この国は、青年に「答え」を求めているのではない。

 青年に、“出ていく理由の形式”を選ばせようとしているだけだ。


 台の向こうの人物が、淡々と言った。

「……回送先は、外。記載するのは、『退国理由』。照会者は、国民本人」

 外。

 つまり、青年の選択肢だったはずの一つが、ここでは追放先として扱われる。


 碑守が低く吐いた。

「……終わりだと勘違いするなよ。この国は、消える時にまで『綺麗な言い訳』を欲しがる。──本番はここからだ」

 青年が、震える手をにぎり直す。

 ツムギは、その手元ではなく、青年の目だけを見る。

 選ぶのは彼だ。

 けれど、選ばせる形にしたのはこの国だ。

 ――なら、こちらも一つだけ、国に突きつける。


 ツムギは、口を動かした。

〈――退国理由は、こちらが書く!!〉

 台の向こうの人物の目が、初めて、ほんの僅かに揺れた。

 揺れは、驚きではない。

 “想定外”を受理するかどうかを、ただ測る目だった。





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