第10話 答えの主権
光の中へ踏み込んだ瞬間、空気が乾くような音がした。
湿り気が消える、というより――余計なものが、削ぎ落とされる気配。
匂いや、温度、距離感がクリアになる。
判断に必要な、純粋な要素が浮き上ってきて、どこか脳が澄んだように感じられた。
扉の向こうは、先ほどとは違って部屋になっていた。
壁は白。床も白。天井の高さだけが異様に高く、視線を上げるほど、自分の存在が薄くなっていく感覚があった。
そして、天井も含めてすべての面に、方眼の模様がある。
いくつもの、無数にあるかのような黒線が目に入った瞬間、ツムギの意識が冷えた。
これは単純な模様じゃない。
幾重にも用心された、“決めつける”ための仕切りだ。一つ一つに、微細な力が流れている。
部屋の中央に、台があった。
祭壇のように見えるが、儀式的な温度は感じられない。
台の上には、紙が一枚。
白いままの紙。まだ何も書かれていない。
そして、台の向こうに人がいた。
原本係とは違う。
机の人間とも違う。
背が高く、痩せていて、服はこの国の役所のものに似ているのに、肩だけが肩章のような“軍”の形をしていた。
男に動きは、ほとんどない。ないのに、存在感だけはやたらと重い。
「……ここが、決める場所だ」
碑守が、喉の奥で息を殺したまま言った。
声は出したが、余計な音を響かせないように、最低限の説明だった。
コハクが、ツムギの袖をほんの少しだけ引く。
目線で言う。
(ねえ、これ……というか、あの人。『誰なのか』っていうより、『役職』って立場だけだよね)
ツムギも同じことを思っていた。
あれは人間の形をしている。けれど、人格じゃなく、仕組みの代表としてそこにいる。
青年は一歩、前へ出ようとして――止まった。
床の黒線が、わずかに動いた気がしたからだ。
踏み越えさせないのではない。踏み越えた者に、区画を与える。区画を与えた者を、分類する。──知らぬ間に、自分の行く末を決められてしまいそうだった。
青年は、胸の布切れを押さえた。
ほとんど印は残ってない。けれどまだ、完全に失われてもいない。
台の向こうの人物が、ようやく口を開いた。
お定まりの、淡々とした、だが几帳面なまでに意味が込められた声だった。
「……照会者。国民。退国の同意。最終確認」
同じ文言。
けれど、ここでは深刻さが違う。
ここで答えたら、それは“記録”ではなく、“確定”になる。
青年の指が震えた。
ツムギは青年の横に立つ。触れない距離で、心の負担だけを共有するように。
碑守が、青年だけに分かるように、低く言った。
「……お前は、ここで“正しい答え”を出す必要はない」
青年が、かすかに眉を動かす。
碑守は続けた。
「今、この国にとっての正しい答えは、国家を閉じる可能性が高い。向こうが欲しいのは、物事の善し悪しじゃない。――『完了』だ」
台の向こうの人物が、ペンを持ち上げた。
紙の上で、影が揺れる。
黒線が、ゆっくり台へと寄ってくる。まるで結論を求めるみたいに。
コハクが唇だけで呟いた。
(ツムギ、ここの強制力は強い。おそらく、小細工は裏目に出る)
ツムギは、小さく頷いた。
そして、青年の目を見る。
(……迷わなくていい。君がいちばん、自然に感じる答えでいいんだ。どうなろうと、きっと国を思う力は消えない。そして、だからこそ国も──)
青年は、息を吸った。
吸った息が、胸の奥の重みになる。
この国の空気は、もう人に優しくはない。正しさを選ばせる顔で、ただ逃げ道を減らしていく。
青年が、口を開いた。
――その瞬間。
台の向こうの人物が、ペン先を紙に落とした。
カリ。
まだ何も答えていないのに。
まだ何も同意していないのに。
白い紙の上に引かれたのは、文字ではなかった。
道筋でも地図でもない、「行き先だけを示す線」――それが、今度は手続きの書類上で生まれ、青年の足元へと伸びてくる。
碑守が、歯を食いしばった。
「……来たな。“逃げ道”を用意して、逃げた側を罪にするやり方だ……。今、この国に留まれば、ほとんど〈無〉に近い者たちへの仲間入りになる。逆に外に出るなら、郷里は自分の中に残っても、権利はなくなる」
青年の目が見開かれる。
線の先――青年の立つ区画が、周囲から縁取られ始めていた。
コハクが、工具袋に指を滑らせる。
留め具ではない。もっと単純で、強い力を持つ楔だ。
彼女の目が言う。
(ねえ。これ、次の問いは“同意か不同意か”じゃないよ)
ツムギにも分かった。
この国は、青年に「答え」を求めているのではない。
青年に、“出ていく理由の形式”を選ばせようとしているだけだ。
台の向こうの人物が、淡々と言った。
「……回送先は、外。記載するのは、『退国理由』。照会者は、国民本人」
外。
つまり、青年の選択肢だったはずの一つが、ここでは追放先として扱われる。
碑守が低く吐いた。
「……終わりだと勘違いするなよ。この国は、消える時にまで『綺麗な言い訳』を欲しがる。──本番はここからだ」
青年が、震える手をにぎり直す。
ツムギは、その手元ではなく、青年の目だけを見る。
選ぶのは彼だ。
けれど、選ばせる形にしたのはこの国だ。
――なら、こちらも一つだけ、国に突きつける。
ツムギは、口を動かした。
〈――退国理由は、こちらが書く!!〉
台の向こうの人物の目が、初めて、ほんの僅かに揺れた。
揺れは、驚きではない。
“想定外”を受理するかどうかを、ただ測る目だった。




