第9話 担当
板の向こうは、部屋ではなかった。
――通路が、さらにまっすぐ伸びているようである。
ただし、さっきまでの回廊とは、壁の材質が違った。石でも木でもない。役所の内側にしか存在しないような、均一な板と金具の匂い。ここは街の続きではなく、「施設」だった。
冷たい灯りは、床の縁、壁の継ぎ目など――線の部分が白く光り、空間の輪郭を描き出している。
灯りというより、少しでも違い、間違いを防ごうとするような“表示”だ。
碑守が先に入る。
扉を押さえたまま、ふり返らずに言った。
「足元を見ろ。ここでは、躓いた奴が失う」
コハクが口の形だけで返す。
(それ、人生の格言か何か?)
碑守は返さない。返す価値がない、という切り捨て方でもないようだ。
“ここでは雑談も危険”なのだと、首をふって教えてくる。
青年が、緊張のためか喉を鳴らした。
呼吸が早い。いつもそうするように、布切れを入れた胸のあたりを、御守りのように握っている。
ツムギは一歩、扉の敷居を越えた。
――パラ。
遠いはずの紙の音が、すぐ隣で鳴ったみたいに近い。
空間が、音を届けるこことをやめていない。むしろ、音の発生源へ引き寄せているようだ。
通路の先に、硝子に似た仕切りがあり、さらにその奥に、机が見えた。
机の上には、一冊の分厚い本。白い紙束。黒いインク壺。ペン。
そして、そこに“書く者”がいる。
不思議だった。音も、姿もしっかりと“届いて”くるのに、個性を感じられない。膨大な量の何かを通りすぎて、もはや何に対しても心が波立たなくなったような──人間?
碑守が、そこで初めて立ち止まった。
息を吐き、言葉を落とす。
「……原本係だ。あいつは、庁舎の机にいるような人間とは、また別の扱いだ」
青年が、わずかに前へ出る。
硝子の向こうへ手を伸ばしかけたが、どう話していいか分からない。
コハクは、通路の壁を見た。
歩んできた途中から、左右の壁にはうすい金属板が、無数に並んでいた。
金属板は、どれも空白である。
けれど、無記、無刻のはずなのに、目を合わせた瞬間、胸の奥に「決まり文句」が浮かぶ。
――退国宣誓──
ツムギの背筋が寒くなる。
“読まされる”力のある掲示だ。
そのとき、碑守が、書く者への硝子の枠を越えた。何かに触れたわけではない。
だがそれだけで、通路の白い表示が、一段強くなる。
「ここから先、口を動かすな」
碑守が言う。
「意味が届く場所で、余計な意味を落とすな。拾われる」
それを聞いたコハクが、口の形だけで笑ってみせ、すぐ真顔に戻る。
(了解)
硝子の向こうの“原本係”が、ペンを止めた。
止めたまま、顔を上げる。
目が合った。
簡単に、合ってしまう。
瞬間に分かる。彼にも――人間味が感じられる。機械的処理者じゃない。理解している。
原本係が、口を開いた。
声は微かなもの。けれど意味は、硝子越しに刺さる。
――照会者。
――国民。
――退国の同意、再確認。
青年の肩が、びくりと跳ねた。
再確認。
つまり、これから書かれるのは「国の過去の決断」じゃない。今ここで、もう一度、個人によって選ぶことができる。
碑守が、ほんのわずかに歯を食いしばった。
怒りではない。悔しさだ。
止めたいのに、自分にはできない──止め方、その可能性を知っているからこそ出る顔だ。
「……お前が答えたら……いや、もしお前が、『最後に』外部にいた人間なら、国は記載を完了する材料を手にする。つまり、永遠にこの国は“外へ出ない”」
碑守が青年にだけ分かるように、視線で言う。
「しかし答えないなら――別の形で取られる。もっと汚い形で、権利をな」
ツムギは、青年の横へ立った。
肩に触れない距離で、呼吸だけを合わせる。
(ここで、君にすべてを押しつけない)
ツムギは口の形で伝える。
(選ぶなら、選ぶ理由ごと保証する。僕らが、必ず“外”への声になる)
青年の目が、ほんの少しだけ潤んだ。
泣くな、と自分に言い聞かせる目だ。
原本係が、ペンを持ち上げる。
紙に落とす寸前で止め、硝子に向けて宙をなぞった。
すると、硝子に二つの答えが書かれ、その黒線が、それぞれ“こちら側”へ伸びてくる。
境界を越える気配。
まだ逡巡しているのに、“完了する選択”が近づいてくる。
コハクが、腰の工具袋に手を滑らせた。
素早く抜いたのは、小さな金属の留め具。
彼女の目が言う。
(ツムギ。これ自体にそれほどの強制力はない。止める? それとも――利用する?)
ツムギは、コハクを見つめ、すぐ碑守に視線を移した。
コハクは、原本の力の源流までたどれる。
碑守は──一瞬、目を伏せた。
(止めるな)
ツムギの眉が動く。
碑守は続ける。今度は、青年にも分かるように、わずかに大きく口を動かした。
(止めたら、“この場”が動く)
(動けば、次は“番号”だ。外部者も、国民も関係なく、全員が処理に落ちる可能性がある)
ここにいる個人それぞれが、ではない。
この国全体が、だ。
コハクが一瞬、苦味で舌を出すような顔をした。
(最悪。ボタン押したら自爆するタイプ)
硝子の向こうで、原本係のペン先が、わずかに揺れていた。
……こちらの反応を、待っている。待ちつつ、いつでも進められる位置で止めている。
硝子に浮かぶ二つの答えが、蜘蛛の糸みたいにこちらへ伸びてくる。
同意。不同意。
青年の喉が、乾いたように動いた。
答えたら終わる。答えなくても終わる。
そんな形に追い込むのが、“正しい”手続きのやり方だ。
ツムギは、硝子の線を見つめた。
(……こっちに押しつけてるのは、答えじゃなく、“責任”だ)
碑守が、ほんの僅かに首を動かす。
その目が言っていた。
(気づいたな。この国のやり取りは、今はすべて、無知なままでいた個人へと罪を返すためのものだ)
ツムギは、コハクを見る。
コハクは留め具を指で弾き、軽く掌で受けて、目だけで訊く。
(止めない──じゃあ、利用するね?)
ツムギはうなずいた。
(“第三の札”を出す)
コハクの目が細くなる。
(そんなのあるの?)
(作れる)
碑守の眉が、ほんの少しだけ上がった。
「やめろ」とは言わない。言えない。
代わりに、視線が床の白い表示へ落ちる。
──この国の者は、強い言葉より先に“規則”が来る。
ツムギは息を整え、硝子の向こうの原本係をまっすぐ見た。
口を動かす。声は出さない。けれど、ここは意味が刺さる場所だ。
――照会、保留。
――期限延長申請。
原本係の瞳が、わずかに揺れた。
その反応で分かる。
“保留”はここにもある。だが、それは本来、こちらが使える札じゃない。
原本係はペンを置かずに、硝子へもう一度、宙をなぞった。
二本だった黒い線が、硝子の中央でキュッと締まり、分岐の形を変える。
そして──
三本目が生まれた。
同意/不同意の二つに、細い第三の枝。
枝の先には、文字ではなく、簡素な記号。
“回送”の印。次へ送る符号だ。
コハクが、目だけで笑う。
(ほら出た。受付あるある。“担当外ですので”)
ツムギは笑わない。
いまのは勝ちじゃない。
ただ、“抜け道”が一筋できた。
碑守が、唇だけで言う。
(それだ。原本係は最終じゃない。回送の先に、決める場所がある)
ツムギの胸の奥が、すうっと冷える。
この国を消したのは、怪物でも事故でもない。
時として国の閣僚の決断を、軍部の意向が力で超えてしまうように、国民のための決まりが、一部の力によって暴走させられている。
──「決める場所」は、今もずっと動いている。
原本係が、ふたたび硝子にペン先を向けた。
同意の線でも不同意の線でもない。
三本目、“回送”の線の根元だ。
彼は、こちらを見たまま、口を開く。
人間味のある目をしていた。──だからこそ、残酷でもある。
「……期限は短い。回送先で答えろ」
ペンが、紙へ落ちる。
カリ――。
その瞬間、通路の白い表示が一斉に強まり、床の線が“進行方向”へと促した。
まるで、全員の足を同じ場所へ誘導するみたいに。
碑守が、低く吐き捨てる。
「……来るぞ。“正式な道”が、お前らを連れて行く」
そして、通路の先――壁が割れ、もう一つの扉が現れた。
記念碑の裏側でも、役所の尖塔でもない。
この国の“選択”が保管される、さらに奥。
扉が、ひとりでに開く。
冷たい灯りが、今度は外へ漏れるように流れ出した。
……青年が、一歩を踏み出した。
ツムギとコハクも、並ぶ。
碑守が、最後に自らも思案するように、つぶやいた。
「……中で見たものを、外へ持ち帰るなよ。持ち帰れるのは、たった一つだ。――“帰る理由”だけにしろ」
白い光の中へ、四人の影が吸い込まれていった。




