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鳴らない鈴  作者: 久賀 広一
3章 遠き思い、近き人
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第9話 担当


 板の向こうは、部屋ではなかった。


 ――通路が、さらにまっすぐ伸びているようである。

 ただし、さっきまでの回廊とは、壁の材質が違った。石でも木でもない。役所の内側にしか存在しないような、均一な板と金具の匂い。ここは街の続きではなく、「施設」だった。


 冷たい灯りは、床の縁、壁の継ぎ目など――線の部分が白く光り、空間の輪郭を描き出している。

 灯りというより、少しでも違い、間違いを防ごうとするような“表示”だ。


 碑守が先に入る。

 扉を押さえたまま、ふり返らずに言った。

「足元を見ろ。ここでは、つまずいた奴が失う」

 コハクが口の形だけで返す。

(それ、人生の格言か何か?)

 碑守は返さない。返す価値がない、という切り捨て方でもないようだ。


 “ここでは雑談も危険”なのだと、首をふって教えてくる。

 青年が、緊張のためか喉を鳴らした。

 呼吸が早い。いつもそうするように、布切れを入れた胸のあたりを、御守りのように握っている。


 ツムギは一歩、扉の敷居を越えた。

 ――パラ。

 遠いはずの紙の音が、すぐ隣で鳴ったみたいに近い。

 空間が、音を届けるこことをやめていない。むしろ、音の発生源へ引き寄せているようだ。


 通路の先に、硝子ガラスに似た仕切りがあり、さらにその奥に、机が見えた。

 机の上には、一冊の分厚い本。白い紙束。黒いインク壺。ペン。


 そして、そこに“書く者”がいる。

 不思議だった。音も、姿もしっかりと“届いて”くるのに、個性を感じられない。膨大な量の何かを通りすぎて、もはや何に対しても心が波立たなくなったような──人間?

 

 碑守が、そこで初めて立ち止まった。

 息を吐き、言葉を落とす。

「……原本係だ。あいつは、庁舎の机にいるような人間とは、また別の扱いだ」

 青年が、わずかに前へ出る。

 硝子の向こうへ手を伸ばしかけたが、どう話していいか分からない。


 コハクは、通路の壁を見た。

 歩んできた途中から、左右の壁にはうすい金属板が、無数に並んでいた。

 金属板は、どれも空白である。

 けれど、無記、無刻のはずなのに、目を合わせた瞬間、胸の奥に「決まり文句」が浮かぶ。


 ――退国宣誓──


 ツムギの背筋が寒くなる。

 “読まされる”力のある掲示だ。

 そのとき、碑守が、書く者への硝子の枠を越えた。何かに触れたわけではない。

 だがそれだけで、通路の白い表示が、一段強くなる。

 

「ここから先、口を動かすな」

 碑守が言う。

「意味が届く場所で、余計な意味を落とすな。拾われる」

 それを聞いたコハクが、口の形だけで笑ってみせ、すぐ真顔に戻る。

(了解)

 硝子の向こうの“原本係”が、ペンを止めた。

 止めたまま、顔を上げる。

 目が合った。

 簡単に、合ってしまう。

 瞬間に分かる。彼にも――人間味が感じられる。機械的処理者じゃない。理解している。


 原本係が、口を開いた。

 声はかすかなもの。けれど意味は、硝子越しに刺さる。


 ――照会者。

 ――国民。

 ――退国の同意、再確認。

 青年の肩が、びくりと跳ねた。

 再確認。

 つまり、これから書かれるのは「国の過去の決断」じゃない。今ここで、もう一度、個人によって選ぶことができる。


 碑守が、ほんのわずかに歯を食いしばった。

 怒りではない。悔しさだ。

 止めたいのに、自分にはできない──止め方、その可能性を知っているからこそ出る顔だ。

「……お前が答えたら……いや、もしお前が、『最後に』外部にいた人間なら、国は記載を完了する材料を手にする。つまり、永遠にこの国は“外へ出ない”」


 碑守が青年にだけ分かるように、視線で言う。

「しかし答えないなら――別の形で取られる。もっと汚い形で、権利をな」

 ツムギは、青年の横へ立った。

 肩に触れない距離で、呼吸だけを合わせる。

(ここで、君にすべてを押しつけない)


 ツムギは口の形で伝える。

(選ぶなら、選ぶ理由ごと保証する。僕らが、必ず“外”への声になる)

 青年の目が、ほんの少しだけ潤んだ。

 泣くな、と自分に言い聞かせる目だ。

 原本係が、ペンを持ち上げる。

 紙に落とす寸前で止め、硝子に向けて宙をなぞった。

 すると、硝子に二つの答えが書かれ、その黒線が、それぞれ“こちら側”へ伸びてくる。

 境界を越える気配。

 まだ逡巡しゅんじゅんしているのに、“完了する選択”が近づいてくる。


 コハクが、腰の工具袋に手を滑らせた。

 素早く抜いたのは、小さな金属の留め具。

 彼女の目が言う。

(ツムギ。これ自体にそれほどの強制力はない。止める? それとも――利用する?)

 ツムギは、コハクを見つめ、すぐ碑守に視線をうつした。

 コハクは、原本の力の源流までたどれる。

 碑守は──一瞬、目を伏せた。

(止めるな)


 ツムギの眉が動く。

 碑守は続ける。今度は、青年にも分かるように、わずかに大きく口を動かした。

(止めたら、“この場”が動く)

(動けば、次は“番号”だ。外部者も、国民も関係なく、全員が処理に落ちる可能性がある)

 ここにいる個人それぞれが、ではない。

 この国全体が、だ。


 コハクが一瞬、苦味で舌を出すような顔をした。

(最悪。ボタン押したら自爆するタイプ)

 硝子の向こうで、原本係のペン先が、わずかに揺れていた。

 ……こちらの反応を、待っている。待ちつつ、いつでも進められる位置で止めている。

 硝子に浮かぶ二つの答えが、蜘蛛の糸みたいにこちらへ伸びてくる。


 同意。不同意。

 青年の喉が、乾いたように動いた。

 答えたら終わる。答えなくても終わる。

 そんな形に追い込むのが、“正しい”手続きのやり方だ。


 ツムギは、硝子の線を見つめた。

(……こっちに押しつけてるのは、答えじゃなく、“責任”だ)

 碑守が、ほんの僅かに首を動かす。

 その目が言っていた。

(気づいたな。この国のやり取りは、今はすべて、無知なままでいた個人へと罪を返すためのものだ)


 ツムギは、コハクを見る。

 コハクは留め具を指で弾き、軽く掌で受けて、目だけで訊く。

(止めない──じゃあ、利用するね?)

 ツムギはうなずいた。

(“第三のカード”を出す)

 コハクの目が細くなる。

(そんなのあるの?)

(作れる)


 碑守の眉が、ほんの少しだけ上がった。

 「やめろ」とは言わない。言えない。

 代わりに、視線が床の白い表示へ落ちる。

 ──この国の者は、強い言葉より先に“規則”が来る。


 ツムギは息を整え、硝子の向こうの原本係をまっすぐ見た。

 口を動かす。声は出さない。けれど、ここは意味が刺さる場所だ。


 ――照会、保留。

 ――期限延長申請。

 原本係の瞳が、わずかに揺れた。

 その反応で分かる。

 “保留”はここにもある。だが、それは本来、こちらが使える札じゃない。


 原本係はペンを置かずに、硝子へもう一度、宙をなぞった。

 二本だった黒い線が、硝子の中央でキュッと締まり、分岐の形を変える。

 そして──

 

 三本目が生まれた。

 同意/不同意の二つに、細い第三の枝。

 枝の先には、文字ではなく、簡素な記号。

 “回送”の印。次へ送る符号だ。

 コハクが、目だけで笑う。

(ほら出た。受付あるある。“担当外ですので”)

 ツムギは笑わない。

 いまのは勝ちじゃない。

 ただ、“抜け道”が一筋できた。


 碑守が、唇だけで言う。

(それだ。原本係は最終じゃない。回送の先に、決める(最後の)場所がある)

 ツムギの胸の奥が、すうっと冷える。

 この国を消したのは、怪物でも事故でもない。


 ときとして国の閣僚の決断を、軍部の意向が力で超えてしまうように、国民のための決まりが、一部の力によって暴走させられている。

 ──「決める場所」は、今もずっと動いている。


 原本係が、ふたたび硝子にペン先を向けた。

 同意の線でも不同意の線でもない。

 三本目、“回送”の線の根元だ。


 彼は、こちらを見たまま、口を開く。

 人間味のある目をしていた。──だからこそ、残酷でもある。

「……期限は短い。回送先で答えろ」

 

 ペンが、紙へ落ちる。

 カリ――。

 その瞬間、通路の白い表示が一斉に強まり、床の線が“進行方向”へとうながした。

 まるで、全員の足を同じ場所へ誘導するみたいに。

 碑守が、低く吐き捨てる。

「……来るぞ。“正式な道”が、お前らを連れて行く」

 そして、通路の先――壁が割れ、もう一つの扉が現れた。


 記念碑の裏側でも、役所の尖塔でもない。

 この国の“選択”が保管される、さらに奥。

 扉が、ひとりでに開く。

 冷たい灯りが、今度は外へ漏れるように流れ出した。


 ……青年が、一歩を踏み出した。

 ツムギとコハクも、並ぶ。

 碑守が、最後にみずからも思案するように、つぶやいた。

「……中で見たものを、外へ持ち帰るなよ。持ち帰れるのは、たった一つだ。――“帰る理由”だけにしろ」


 白い光の中へ、四人の影が吸い込まれていった。




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