第8話 碑守(ひもり)
記念碑の裏へ回ると、空気の温度が一段だけ落ちた。
光はある。昼の光だ。
それなのに、そこだけ濃い闇が貼りついている。石が日陰を作るのとは違う。まるで、そこに立つ者の目を、勝手に伏せさせるような暗さだった。
青年が先に立つ。
石片の並ぶ輪の外側から、中心へと導かれるように置かれた形にならって、慎重に一歩ずつ近づいていく。
地面に置かれた小さな石は、均一な大きさではない。欠けたもの、角が磨かれた丸いもの、興味を惹くような動物形――どれも、誰かによって選ばれ、心を添えて置かれたもののようだ。
コハクが、低い壁を眺め、次いで足元の石片を指さす。
壁は記念碑を囲む、内側と外側のあいだに境い目を生むための、控えめな造りになっているようだ。
(石は……並べ方、変ね)
口の形だけで言う。相変わらず声は通らないが、意味だけは何とか伝わる。
(輪になってない。螺旋っぽい)
ツムギも気づいていた。
石片は、記念碑を中心に円形に置かれているわけじゃない。外側から内側へ、ゆっくり巻き込むみたいに並んでいる。祭壇に近づくための“順路”のようだ。
(……参列の道)
ツムギはそう思った。
墓参りのためじゃない。もうすこし事務的で、もうすこし冷たい――慣例化された儀式のための道だ。
青年が、石の影の最も濃い場所で立ち止まる。
そこには、何も刻まれていない石板が一枚、壁に埋め込まれていた。無記名の、ただの銘板にも見える。だが、その縁だけが不自然に新しい。
青年が唇を引き結ぶ。
そして、紙片の符号を見ずに、記憶だけで指を伸ばしかけ――止めた。
まだ触れふるべきじゃない。
ツムギは青年の横に立ち、目で訊く。
青年は小さく頷いた。
(ここだ。裏口じゃない。……正式な入口だ)
コハクが銀粉を取り出しかけたが、そのまま指で、慣れ始めた不自然な力をなぞった。
(やっぱり縫ってある)
コハクが眉をひそめる。(この国も、好きだね。何でも“綴じる”の)
ツムギが苦笑し、彼女も肩をすくめた。
そのときだ。
背後に、気配がした。
あわててふり向くと、さっき紙を滑らせてきた子どもが、石の影にまだいた。脇に紙束。鉛筆。目は赤い。泣いていないのに、泣き疲れた目だ。
子どもは、三人を見て、首を横に振る。
行くな――そう言いたいのに、喉が動かない。代わりに、書きかけの紙束を見せて叩いた。
トン、トン。
ツムギは、落ち着くように合図した。
大丈夫、分かった。危ないことはしない。
その合図を理解したのか、子どもはゆっくりと近づいてくる――走らない。走れない。ここでは、急ぐ動作ほど弾かれる。
子どもは記念碑のそばへ寄り、石片の一つを拾った。
そして、三人のほうへ見せる。
削られた跡。
紋がある場所。文字があった場所。
個人だけが、きれいに空白だ。
青年の喉が、ひくりと動いた。
声にはならない。それでも、口の形が「……ごめん」と言ったのが分かった。
子どもは首をふる。
違う、と。謝るな、と。
そして、石板の縁を囲うように指で示し、次に、自分の胸を指す。
(“中”に入ると、もっと取られる?)
ツムギは直感で理解した。
命や、手足のように、悲惨になるものではないが――「外へ届けるためのもの」。
声。名。証明。帰る理由。
青年が、仕舞っていた布切れを押さえた。
その布は、もう薄い。けれどまだ力は残っている。残っているからこそ、ここに来られた。
ツムギは青年に視線で問う。
(使える?)
青年は、迷った。
そして、静かに頷いた。
布切れを取り出して両手で畳み直すと、石板の縁――コハクがたどった線の上に、そっと押し当てた。
白い石が、ほんのわずかに軋んだ。
帳面に認められた時と、同じような反応。
それだけで、背筋に何かが走ったように鳥肌が立った。
――やがて、“受付”が開く。
石板の縁から、世界の縫い目が、ほどけるのではなく、逆に整うようにクリアになった。
カチリ。
かすかな振動が体を抜け、石板の中心が左右に分かれた。
裂け目だ。きちんとした仕掛け扉であり、通路でもある。だが、その本質が尋常でないことは、開いた空気の冷たさだけで分かる。
ツムギは反射的に、子どものほうを振り向いた。
あの子も、いまの音に肩をすくめている。紙束を抱え直し、入口と三人の顔を交互に見ていた。
ツムギはしゃがみ、声を出さずに、できるだけ大きく口を動かす。
――ここには入るな。
――人のいるところへ戻って。
――待たなくていい。
子どもはすぐには頷かなかった。
唇を噛み、紙束の端をぎゅっと握る。
それから、記念碑の外側――広場の石片の並びの先を指さし、次に自分の胸を叩いた。
「分かった。隠れている」
そう言いたいのだと、ツムギには伝わった。
コハクが、子どもの目線まで少しだけ腰を落とし、掌を開いて見せる。
大丈夫、という合図。
ふざけない、まっすぐな顔だった。
子どもはようやく小さくうなずき、石の影の向こうへ下がる。……それでも、去る前に一度だけ振り返り、裂けた石板の暗がりと、ツムギたちを強く見つめた。
行くな、というより、「忘れないで」に近い目だった。
ツムギは、その視線を胸に受けたまま、入口へ向き直る。
青年はすでに息を整えている。まだ恐れと迷いはどこかにあるが、足は引いていない。
……三人は、目配せだけで順番を決め、裂け目の中へ踏み込んだ。
最初の数歩は、緩い下りだった。
地下へ潜るのかと思ったが、石の腹側へ回り込むための、短い回廊のようだ。
コハクが苦笑いしている。
(“正式な道”──ねえ)
(一応、ちゃんとした手続きに則った道だよ)
ツムギも返しながら、強引なこじつけに微笑する。
……通路に足を踏み入れた瞬間から、空気が変わっていた。
紙の匂いが薄れ、代わりに、石と水と――金属の匂い。工場の匂いだ。
左右の壁には、浅い棚が刻まれている。
棚の一つ一つに、小さな石片が置かれていた。外の広場に並んでいたものと同じ。けれどこちらは、削られていない。“なかったこと”にされていない。
ツムギは息を飲んだ。
(ここが……“置く場所”)
青年が視線だけで言った。
(真の系譜を、ここに。――外へ出ないように)
その奥で、誰かが咳をした。
コホン――。
声だ。
小さい。枯れている。
でも、確かに“外へ届く形”の声だった。
三人が一斉に身構える。
しかし、気圧されるような気配ではない。
足音は、ゆっくりと、動じることのない太さで近づいてくる。
男が、暗がりから姿を現した。
老人ではない。だが若くもない。四十を少し過ぎたくらい。
服は役所の作業着に似ている。袖は擦り切れ、指先は黒かった。
男は三人を見て、眉を寄せた。驚きではない。困っている顔だ。
それから、口を開く。
「……外の人間を、ここへ入れるな」
(!!)
声が出た。
出せたこと自体が、異常だ。
コハクが一歩出かけ、ツムギが腕で止める。
たとえ口頭でも、安易な接触はマイナスになるかもしれない。
青年が、布切れを掲げる代わりに、胸の前で両手を重ねた。礼の形。
男の視線が布切れに落ち、ほんの一瞬だけ柔らかくなる。
「……外交の印か」
男はため息を吐いた。
「まだ残っていたとは……。運がいい。いや、運が悪いのか」
ツムギは、口を動かす。声は出ない。
――あなたは誰ですか。
男は、ツムギの口の形を読み取って、答えた。
声を出していい理由が、ここにはあるらしい。
「碑守だ。――呼び名はそれでいい」
男は目線を逸らし、棚に並ぶ石片を見た。
「名を残す仕事じゃない。名を“外へ出さない”仕事だ」
青年の肩が、小さく震えた。
怒りも恐怖もあったが、ようやく掴んだ“答えの入口”に触れたための震えだ。
碑守は言った。
「お前の国が消えたのは、滅んだからじゃない。
――忘れられることを、選ばされたからだ」
その一言が、通路の闇に重く落ちた。
ツムギの胸の奥で、何かがきしむ。人の選択。人の本性。――原因はむろん、心にしかない。
碑守が踵を返し、奥へ歩き出す。
ふり返らずに言う。
「来い。ただし触るなよ。触れた瞬間、ここに“記載”される。お前たちは、外部のまま――見ろ。聞け。覚えろ。……それが唯一の抜け道だ」
コハクが、口の形だけで呟く。
(ねえ、ツムギ。この人、たぶん味方じゃないよね)
(だとしても)
ツムギは目で返す。
(“説明できる人”なら充分じゃない?)
青年が、一度だけ外の方向へ視線を投げた。広場。石片。声を失った子ども。
それから前を向き、歩き出す。
棚の石片が、薄暗がりの中で無数の目みたいに並ぶ中、奥にもう一つ扉があった。
何も刻まれていない、白い板が貼られている。
碑守が、手をかざした。
「ここが“始点”だ。――退国宣誓の原本がある」
扉の向こうで、紙をめくる音がした。
パラ。
そして、ペン先が、紙に触れる音。
――まだ誰かが、書いている。
ツムギは、息を飲んだ。
終わっていない。過去じゃない。
この国の“選択”は、今もどこかで更新され続けている。
碑守が、扉を押し開ける。
白い板の向こうから、冷たい灯りが漏れた。




