表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
鳴らない鈴  作者: 久賀 広一
3章 遠き思い、近き人
34/39

第8話 碑守(ひもり)



 記念碑の裏へ回ると、空気の温度が一段だけ落ちた。

 光はある。昼の光だ。

 それなのに、そこだけ濃い闇が貼りついている。石が日陰を作るのとは違う。まるで、そこに立つ者の目を、勝手に伏せさせるような暗さだった。


 青年が先に立つ。

 石片の並ぶ輪の外側から、中心へと導かれるように置かれた形にならって、慎重に一歩ずつ近づいていく。

 地面に置かれた小さな石は、均一な大きさではない。欠けたもの、角が磨かれた丸いもの、興味を惹くような動物形――どれも、誰かによって選ばれ、心を添えて置かれたもののようだ。


 コハクが、低い壁を眺め、次いで足元の石片をゆびさす。

 壁は記念碑を囲む、内側と外側のあいだに境い目を生むための、控えめな造りになっているようだ。

(石は……並べ方、変ね)

 口の形だけで言う。相変わらず声は通らないが、意味だけは何とか伝わる。

(輪になってない。螺旋っぽい)

 ツムギも気づいていた。

 石片は、記念碑を中心に円形に置かれているわけじゃない。外側から内側へ、ゆっくり巻き込むみたいに並んでいる。祭壇に近づくための“順路”のようだ。


(……参列の道)

 ツムギはそう思った。

 墓参りのためじゃない。もうすこし事務的で、もうすこし冷たい――慣例化された儀式のための道だ。

 青年が、石の影の最も濃い場所で立ち止まる。

 そこには、何も刻まれていない石板が一枚、壁に埋め込まれていた。無記名の、ただの銘板にも見える。だが、そのふちだけが不自然に新しい。


 青年が唇を引き結ぶ。

 そして、紙片の符号を見ずに、記憶だけで指を伸ばしかけ――止めた。

 まだ触れふるべきじゃない。


 ツムギは青年の横に立ち、目で訊く。

 青年は小さく頷いた。

(ここだ。裏口じゃない。……正式な入口だ)

 コハクが銀粉を取り出しかけたが、そのまま指で、慣れ始めた不自然な力をなぞった。

(やっぱり縫ってある)

 コハクが眉をひそめる。(この国も、好きだね。何でも“綴じる”の)

 ツムギが苦笑し、彼女も肩をすくめた。


 そのときだ。

 背後に、気配がした。

 あわててふり向くと、さっき紙を滑らせてきた子どもが、石の影にまだいた。わきに紙束。鉛筆。目は赤い。泣いていないのに、泣き疲れた目だ。

 子どもは、三人を見て、首を横に振る。

 行くな――そう言いたいのに、喉が動かない。代わりに、書きかけの紙束を見せて叩いた。

 トン、トン。


 ツムギは、落ち着くように合図した。

 大丈夫、分かった。危ないことはしない。

 その合図を理解したのか、子どもはゆっくりと近づいてくる――走らない。走れない。ここでは、急ぐ動作ほどはじかれる。


 子どもは記念碑のそばへ寄り、石片の一つを拾った。

 そして、三人のほうへ見せる。

 削られた跡。

 紋がある場所。文字があった場所。

 個人だけが、きれいに空白だ。


 青年の喉が、ひくりと動いた。

 声にはならない。それでも、口の形が「……ごめん」と言ったのが分かった。

 子どもは首をふる。

 違う、と。謝るな、と。


 そして、石板の縁を囲うように指で示し、次に、自分の胸を指す。

(“中”に入ると、もっと取られる?)

 ツムギは直感で理解した。

 命や、手足のように、悲惨になるものではないが――「外へ届けるためのもの」。

 声。名。証明。帰る理由。


 青年が、仕舞っていた布切れを押さえた。

 その布は、もう薄い。けれどまだ力は残っている。残っているからこそ、ここに来られた。


 ツムギは青年に視線で問う。

(使える?)

 青年は、迷った。

 そして、静かに頷いた。

 布切れを取り出して両手で畳み直すと、石板の縁――コハクがたどった線の上に、そっと押し当てた。

 白い石が、ほんのわずかにきしんだ。

 帳面に認められた時と、同じような反応。

 それだけで、背筋に何かが走ったように鳥肌が立った。

 ――やがて、“受付”が開く。

 石板の縁から、世界の縫い目が、ほどけるのではなく、逆に整うようにクリアになった。


 カチリ。

 かすかな振動が体を抜け、石板の中心が左右に分かれた。

 裂け目だ。きちんとした仕掛け扉であり、通路でもある。だが、その本質が尋常でないことは、開いた空気の冷たさだけで分かる。

 ツムギは反射的に、子どものほうを振り向いた。

 あの子も、いまの音に肩をすくめている。紙束を抱え直し、入口と三人の顔を交互に見ていた。


 ツムギはしゃがみ、声を出さずに、できるだけ大きく口を動かす。

 ――ここには入るな。

 ――人のいるところへ戻って。

 ――待たなくていい。

 子どもはすぐには頷かなかった。

 唇を噛み、紙束の端をぎゅっと握る。

 それから、記念碑の外側――広場の石片の並びの先を指さし、次に自分の胸を叩いた。

 「分かった。隠れている」

 そう言いたいのだと、ツムギには伝わった。


 コハクが、子どもの目線まで少しだけ腰を落とし、掌を開いて見せる。

 大丈夫、という合図。

 ふざけない、まっすぐな顔だった。

 子どもはようやく小さくうなずき、石の影の向こうへ下がる。……それでも、去る前に一度だけ振り返り、裂けた石板の暗がりと、ツムギたちを強く見つめた。

 行くな、というより、「忘れないで」に近い目だった。


 ツムギは、その視線を胸に受けたまま、入口へ向き直る。

 青年はすでに息を整えている。まだ恐れと迷いはどこかにあるが、足は引いていない。

 ……三人は、目配せだけで順番を決め、裂け目の中へ踏み込んだ。


 最初の数歩は、緩い下りだった。

 地下へもぐるのかと思ったが、石のはら側へ回り込むための、短い回廊のようだ。 

 コハクが苦笑いしている。

(“正式な道”──ねえ)

(一応、ちゃんとした手続きにのっとった道だよ)

 ツムギも返しながら、強引なこじつけに微笑する。


 ……通路に足を踏み入れた瞬間から、空気が変わっていた。

 紙の匂いが薄れ、代わりに、石と水と――金属の匂い。工場こうばの匂いだ。


 左右の壁には、浅い棚が刻まれている。

 棚の一つ一つに、小さな石片が置かれていた。外の広場に並んでいたものと同じ。けれどこちらは、削られていない。“なかったこと”にされていない。


 ツムギは息を飲んだ。

(ここが……“置く場所”)

 青年が視線だけで言った。

(真の系譜を、ここに。――外へ出ないように)

 その奥で、誰かが咳をした。


 コホン――。

 声だ。

 小さい。枯れている。

 でも、確かに“外へ届く形”の声だった。 

 三人が一斉に身構える。

 しかし、気圧されるような気配ではない。


 足音は、ゆっくりと、動じることのない太さで近づいてくる。

 男が、暗がりから姿を現した。

 老人ではない。だが若くもない。四十を少し過ぎたくらい。

 服は役所の作業着に似ている。袖は擦り切れ、指先は黒かった。

 男は三人を見て、眉を寄せた。驚きではない。困っている顔だ。

 それから、口を開く。

「……外の人間を、ここへ入れるな」


(!!)

 声が出た。

 出せたこと自体が、異常だ。

 コハクが一歩出かけ、ツムギが腕で止める。

 たとえ口頭でも、安易な接触はマイナスになるかもしれない。


 青年が、布切れを掲げる代わりに、胸の前で両手を重ねた。礼の形。

 男の視線が布切れに落ち、ほんの一瞬だけ柔らかくなる。

「……外交の印か」

 男はため息を吐いた。

「まだ残っていたとは……。運がいい。いや、運が悪いのか」


 ツムギは、口を動かす。声は出ない。

 ――あなたは誰ですか。

 男は、ツムギの口の形を読み取って、答えた。

 声を出していい理由が、ここにはあるらしい。

碑守ひもりだ。――呼び名はそれでいい」

 男は目線を逸らし、棚に並ぶ石片を見た。

「名を残す仕事じゃない。名を“外へ出さない”仕事だ」


 青年の肩が、小さく震えた。

 怒りも恐怖もあったが、ようやくつかんだ“答えの入口”に触れたための震えだ。


 碑守は言った。

お前(俺たち)の国が消えたのは、滅んだからじゃない。

 ――忘れられることを、選ばされたからだ」

 その一言が、通路の闇に重く落ちた。

 ツムギの胸の奥で、何かがきしむ。人の選択。人の本性。――原因はむろん、心にしかない。


 碑守がきびすを返し、奥へ歩き出す。

 ふり返らずに言う。

「来い。ただし触るなよ。触れた瞬間、ここに“記載”される。お前たちは、外部のまま――見ろ。聞け。覚えろ。……それが唯一の抜け道だ」


 コハクが、口の形だけで呟く。

(ねえ、ツムギ。この人、たぶん味方じゃないよね)

(だとしても)

 ツムギは目で返す。

(“説明できる人”なら充分じゃない?)


 青年が、一度だけ外の方向へ視線を投げた。広場。石片。声を失った子ども。

 それから前を向き、歩き出す。


 棚の石片が、薄暗がりの中で無数の目みたいに並ぶ中、奥にもう一つ扉があった。

 何も刻まれていない、白い板が貼られている。


 碑守が、手をかざした。

「ここが“始点”だ。――退国宣誓の原本がある」

 扉の向こうで、紙をめくる音がした。


 パラ。

 そして、ペン先が、紙に触れる音。

 ――まだ誰かが、書いている。

 ツムギは、息を飲んだ。


 終わっていない。過去じゃない。

 この国の“選択”は、今もどこかで更新され続けている。

 碑守が、扉を押し開ける。

 白い板の向こうから、冷たい灯りが漏れた。




評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ