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鳴らない鈴  作者: 久賀 広一
3章 遠き思い、近き人
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第11話 退国理由


 ツムギの口が動いた瞬間、白い部屋の空気がわずかに鳴った。

 音というより、紙をめくる直前の静けさが、きしむような揺らぎ。

 台の向こうの人物が、まばたきを幾度かくり返す。


 それは、“申請”が来たときの、判断待ちのだった。

 しばらくして、黒線が床の上をすべるように青年に寄り、その足元を縁取っていた枠が、もう一段くっきりする。

 区画。分類。責任の置き場所のせばまり。


 碑守が、喉の奥で息を殺して言った。

「……あっちの都合で書かせるな。そうなれば、そこで国は終わる。だが——」

 言葉が続かない。

 止めればいい、という話ではないことを、碑守自身が一番知っている顔だった。


 コハクが、腰の工具袋からくさびを取り出す。

 掌に収まる、小さな金属。

 けれど、それを持つ指の角度が、冗談の時とは違う。

(ツムギ。いくらか、時間稼ぎくらいはできる──と思う)

 目線だけで伝えてくる。

 ツムギは小さく頷く。

 対策としては弱い。しかし、それができるだけでも、コハクの力は大きい。

 ——戦わず、奪わせず。

 可能な限りの高い妥協点を、精一杯さぐっていくしかない。


 台の向こうの人物が、ペン先を紙の上に置いたまま、淡々と告げた。

「……照会者の代理申請。可否、確認」

 声は平坦なのに、意味だけが重い。

「退国理由の記載権(・・・)は、国民本人にある」

 青年の肩が、びくりと跳ねた。

 まただ。

 また“個人”へ、正しく思える答えと責任を、押し返す。

 場を流れる力は、圧倒的に向こうが上なのに。


 ツムギは青年を見る。

 震えている。怖い。怒りもある。

 それでも目だけは、台の上の紙から逸らさない。

 ——ここで折れたら、国そのものも折れることになるかもしれない。


 碑守が、青年にだけ分かるように唇を動かした。

(お前がこれから出す言葉は、おそらく向こうに都合よく添削される。──法規に抵触するケースが多いため、本人が直接書けない決まりだからな。そうなれば、国は問題なく閉じる。……だから、勝ち筋は一つしかない。“理由”を、奪わせるな)


 青年の瞳が、揺れる。

 分からない、ではない。

 “分かってしまった”揺れ方だった。

 この国は、退国宣誓をした。

 ——その理由だけは、本来外へ出してはいけない。

 相手は、それを“言い訳”として整形してきている。国を、うまく閉じるために。


 コハクが、青年の足元にちらりと視線を投げた。

 黒線が一本、もう一本、と増えていく。

 まるで「答えるまで狭くする」みたいに、逃げ場を削ってくる。

 ツムギは、台の向こうの人物を見た。


 まだ、彼は動かない。

 けれどいつでも、“決着”へ落とせる位置にペンがある。

(ツムギ。とりあえず私、やるよ。青年は、まだ時間が必要みたいだし)

(うん)

 ツムギは、碑守を見る。

 碑守は、目を伏せたまま小さく頷く。

 それが許可に見えた。

 “やれ”ではなく、“それしかない”の頷きだ。

 コハクが、楔をそっと打ちつけた。


 ——キィン。


 乾いた音が鳴るより早く、床の黒線がぴたりと止まった。

 寄ってくるはずだった線が、途中で固まる。

 青年の区画が、それ以上狭まらなくなる。

 台の向こうの人物が、初めて眉を動かした。

 怒りではない。

 “手順外の介入があった”という記録の顔。

 碑守が、かすれた声で吐いた。

「……この国の一般人に、こんな不可思議な力を持つ人間はいない。これで時間は買えた。——だが長くはない」

 ツムギは青年の横に立つ。

 れない距離のまま、ただ並ぶ。

 そして、青年にだけ届く形で、口を動かした。

(君が書け(・・)。心は届く。本質をついた言葉は、時に形骸的な決まりを超える)

 コハクは、少し意地悪そうにほほ笑む

(あなたが、一人で全部を背負う必要はないからね。私たちは、“外”に戻れる。あなたの理由を、ちゃんと外に運べる)


 青年が、深く息を吸った。

 胸の布切れを、両手で押さえる。

 薄い。危うい。

 けれど、まだ残っている。

 台の向こうの人物が、最後の確認をするように言った。


「……退国理由。記載。開始」

 青年が、台の上の白い紙を見る。

 その白さは、清潔ではない。

 “如何いかようにも作り変えるための”空白だ。


「……理由は——」

 青年の口が、ゆっくり動いた。

 言葉を発した瞬間、彼の布切れの紋が、ほんのわずかだけ濃くなる。

 ——国が、彼の言葉を“国の言葉”として認めた。


「……俺たちは、滅びたんじゃない。俺たちは、“選ばされた”。正しい顔をした連中に——忘れられることで、守れ、と」

 その瞬間、白い部屋の方眼が、ひとつだけ暗く沈んだ。

 黒線が、一本、壁の奥へ伸びる。

 まるで核心へ繋がる通路が、開いたみたいに。

 碑守が、喉の奥で呻く。

「……言ったな。——やっと、入口に触れた」

 台の向こうの人物が、淡々と言う。

「……記載。継続」

 ペンが動く。青年の言葉が、紙に乗る。

 だが——

 ツムギは見た。

 書かれているのは、青年の文字じゃない。

 青年の言葉が、“整えられた文章”に変換されていく。

 怒りが削られ、痛みが薄められ、責任が個人へ戻される形へ。

 コハクが、唇だけで悪態をついた。

(出た。美文化。最悪の翻訳)

 ツムギの目が鋭くなる。

 ここから先は、もう“理由を書く”勝負じゃない。

 ——奪われるものを、奪い返す勝負だ。

 碑守が、低く告げる。

「……次で分かる。お前の国が、何から、いったい何を守ろうとしたのか。そして、誰がそれを“正しさ”として利用したのか」


 白い部屋の奥。

 方眼の線が、一斉に揺れた。

 まるで、次のページがめくられるみたいに。

 ——まだ終われない。

 むしろ、ここからが本当の生き残り──尊厳のためのやり取りだ。


 




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