第30話 狂愛の果て
「喰らえッ――!」
咆哮とともに、全身の結を掌に集約し、融合精霊の中心――“一つ眼”へと叩きつける。
『鍛結系結術結滅光掌破!!!』
瞬間。
閃光が世界を白く染めた。
音が消える。空間が歪み、全てがスローモーションになるような錯覚。重力すらねじ伏せるほどの衝撃が爆発し、床が砕け、壁が弾け、黒い靄が一瞬で浄化されていく。
融合精霊が、呻くように声をあげた。触手が千切れ、羽が崩れ、巨大な身体が後方へと吹き飛ばされていく。
その眼が、最後の最後までシロウを見ていた。
そこに映っていたのは、恐怖ではない。
――ただ、微かな安堵。
「……ああ……綺麗……」
真帆の声が、霞んで消えるように空間に溶けた。
次の瞬間、融合精霊の身体は、音もなく崩れ落ち、蒼白い結の粒子となって空へと舞い上がっていった。
──静寂。
膝をつきながら、シロウは荒く息を吐いた。蒼白い装甲はすでにひび割れ、右肩の結装は消えかけている。重く垂れた腕からは血がにじみ、戦闘の余波であらゆる神経が焼け焦げていた。
砕けた床、漂う蒼白の粒子の中で、仁美のまぶたがわずかに震える。
シロウが、息を飲んだ。
「……仁美?」
呼びかけに応えるように、ゆっくりと仁美のまつ毛が持ち上がり、瞳がうっすらと開かれる。視界はまだぼやけていて、明暗も定かでない。だが、目の前に映ったその“金色”だけは、はっきりと認識できた。
「……シロ……?」
かすれた声が、部屋の静寂を優しく破る。
シロウは思わず目を伏せ、声を絞るように応えた。
「……ああ、俺だ」
仁美は、ぼんやりとその言葉を聞いていた。顔を少しだけ傾け、崩れかけた椅子の上で力なく笑った。
仁美の笑顔を見届けた直後、シロウは微かに気配の揺れを感じた。
背後――砕けた床の一角、蒼白い粒子がゆっくりと沈殿する空間に、まだ黒の名残がわずかに滲んでいた。
「……」
立ち上がる力もないまま、シロウがその場に目を向ける。
そこにいたのは――座り込む真帆だった。
髪は乱れ、服は破れ、精霊との融合の痕跡がわずかに体に残っている。だが、瞳だけははっきりと開かれていた。
「……負けたのね、私……」
呟きのような声。シロウは眉をひそめながら、ゆっくりとその場に歩を進めた。足元がふらつき、膝が笑いそうになるのを必死に堪える。
「……まだ意識が残ってるのか。しぶといな、お前は」
真帆は笑った。血の気の引いた唇で、かすかに。
「だって……シロウ様に、ちゃんと“見てもらえる”のって……これが、初めてだったから」
「……」
シロウは返さなかった。その沈黙を、真帆は勝手に“優しさ”だと解釈したのか、少しだけ涙をこぼした。
「おかしいよね。ずっと、あなたのことだけを見てたのに……あなたの目には、私なんて、何ひとつ映ってなかったんだもん」
その声は、怒りでも、哀しみでもなかった。ただ、空っぽの諦めが染み込んだ、虚ろなものだった。
「仁美さんは……どうせ、忘れるんでしょ? この痛みも、怖さも……そのうち、夢みたいに消えていく。でも、私は……一生、忘れられないのに」
シロウは、仁美のほうへ視線を一瞬向けた。眠るように倒れているその少女の横顔を見て、静かに口を開いた。
「人に愛されたいなら、まず、自分がどれだけ歪んでるかを知らなきゃいけなかった。自分が満たされないからって、誰かの自由を壊していい理由にはならない」
「……そう、ね。私、壊しちゃったのよね……いろんなもの」
「でも……」
シロウはそこまで言いかけて、ひとつ深く息をついた。吐く息に、戦いの余韻がまだ残っていた。
「俺が“見た”のは、お前の中の狂気だけじゃない。最後に見せた安堵、あれが……お前の中に残ってた、人間の部分だと思いたい」
「……それって、慰め?」
「違う。ただの、俺の勝手な願いだ」
真帆はもう、立ち上がる力もなかった。ただ、顔だけをゆっくりとシロウの方に向けて、微笑んだ。
真帆が微笑んだその瞬間――
空気が、急激に変わった。
空間の端に、音もなく黒い“裂け目”が生まれる。かすかに焼けた匂いとともに、そこから染み出すように闇が這い出した。
シロウは反射的に顔を上げる。血の気が引いていく。直感ではない――確信だった。
「……来やがったか」
真帆の頬から、微笑みが失われた。目に怯えが走る。
「柊さん……終わったのよ。もう、何もない。私の“結”も、全部……」
しかし、その声は虚しく空に消える。
闇の裂け目から現れたのは、異様に中性的な姿をした者。
長く銀白の髪を肩に流し、黒衣を身に纏ったその姿は、男女どちらともつかず、異様な威圧感と静けさを併せ持っていた。背後には、炎のように揺れる黒い結を纏った男と、白い花びらのような結晶をまとう青年が続く。
「……よくやったね、真帆。きみは、あと一歩で幹部にもなれたのに」
「ちがう……私は……もう、やめたの……!」
真帆がかすれる声で叫ぶ。
「やめた? 途中で投げ出すことを私は許していない」
柊は一歩前へ出て、ひび割れた床を軽く踏みしめた。
「私が与えた逆結があったおかげで君は念願かなって神城シロウと接触できた。それなのに私の指示なしで神城から手を引こうとしていてる。そんな勝手を許せば逆勇舎に亀裂がはいる。それは首魁の私にとってよろしくない」
「やめろ……」
シロウが声を絞り出す。
「こいつはもう戦えない。ただの人間に戻っただけだ。お前らの道具じゃない」
「猫のくせによく吠えるぜ」
柊の背後で、幹部の一人が、くぐもった声で笑う。
肩から腰にかけて巻かれた帯状の黒い結が、鈍く赤く明滅する。
「……あんたがどう言おうが、こいつは一度でも“逆結”を操った。それだけで資格がある。もう逃げられねぇんだよ、“俺たちの側”からは」
そしてもう一人、女幹部が、静かに真帆へ歩み寄る。手にした白扇がひらりと開かれ、舞うように振られると、空間が歪んだ。
「感情の余韻が、まだ空間に残ってる。愛、依存、怒り、後悔……その残滓だけでも、ひとつの“精霊”を再構築できるくらいには濃い」
女幹部の足元に、ひとつ、黒い羽のような影が芽生え始めていた。




