第26話 朦朧
落下の衝撃と激しい消耗で意識を手放していたシロウは、夜風に揺れる街灯の光が閉じたまぶたを照らした瞬間、ゆっくりと瞼を開いた。ぼやけた視界に映ったのは、コンクリートの地面に転がる自分の小さな白い前足。
次に痛みが襲い、全身が硬く強張る。意識が戻ると同時に、自分が病院の敷地内、植え込みの中に倒れ込んでいることを理解した。
風に揺れる葉のざわめきと、どこか遠くで響く救急車のサイレンが耳を打つ。だがそれらの音がすべて遠くに感じられるほど、心の中は凍り付いた焦燥でいっぱいだった。
仁美の顔が脳裏を駆け巡る。あの優しい笑顔、温かい声、揺れる長い髪――それらが闇に呑まれていく悪夢のような映像が頭を支配する。
(……仁美……!?)
必死に立ち上がろうと、震える四肢に力を込めた。だが、骨の芯から抜け落ちたような力の感覚。血が巡らないのか、全身が冷え切っている。
足先がもつれ、まともに体を支えられない。視界が揺れ、口から荒い息が漏れた。夜風は容赦なく冷たく、全身を切り裂くように吹き抜けていった。
そんな時だった。頭上で微かに風を切る音が聞こえ、次の瞬間、黒い翼が夜気を裂いて舞い降りてきた。街灯の光に照らされて浮かび上がったのは、大きな漆黒のカラス。その足首には小型の金属製デバイスが鈍く光を反射していた。
「……神城やないかい、神城が逆結使いを倒したんか?」
夜気の中でカラスの目が鋭く光った。Sランク勇者・久我ハヤト。彼は逆結を探知するために自らの足首に装着した探知機で、この病院に残る逆結の痕跡を感知して駆け付けてきたのだ。
「……神城がこんなボロボロなって倒れているなんてな。何があったんや?」
夜風が二人の間を抜けるたび、黒い羽と白い毛が互いに揺れた。ハヤトの声は冷静に響いているが、その奥には緊張と苛立ちが滲んでいた。シロウの金色の瞳は何よりも雄弁に、今の彼の心情を物語っていた。狂おしいほどの焦りと怒り。そして守るべきものを奪われた深い絶望。ハヤトはその視線に、すべてを悟った。
「仁美が攫われた……はやく助けねーと……」
シロウの金色の瞳は何よりも雄弁に、今の彼の心情を物語っていた。狂おしいほどの焦りと怒り。守るべきものを奪われた絶望。ハヤトはその視線に、全てを悟った。
「はやくって言っても居場所が分からんし、なによりそんなボロボロの状態じゃまともに戦えないやろ……」
ハヤトは黒い羽根を整えるように翼を揺らし、探知機に目を落とした。先ほどまで不規則に震えていた足首の装置は、今は沈黙している。探知機の青いライトが月明かりに反射し、夜の静寂に冷たい光を放っていた。
「うるせー、俺は”最強”の神城シロウだ……」
白猫の身体は小刻みに震えているだけだった。呼吸は荒く、吐く息は夜気に白く溶けていく。どれほど心が昂ぶっても、限界を超えた身体は応えてはくれなかった。
「最強、ねぇ……」
ハヤトは鋭い瞳を細め、シロウの金色の目を真っ直ぐに見下ろした。その顔には呆れとも、哀れみともつかない微妙な感情が滲んでいる。だがその奥にあるのは、同じSランク勇者としての意地と仲間としての決意だった。
「最強やからって全部1人で抱え込むなや。俺もSランク勇者や、助け合うのが勇者ってもんやろ」
ハヤトは羽を大きく広げ、夜気を巻き起こすように羽ばたく。月明かりに黒い翼が怪しく光り、周囲の影を揺らした。
「ここにいてもなにもすすまないやろ、とりあえず行くで!!」
ハヤトはそう言うや否や、大きな黒い翼をさらに強く羽ばたかせ、舞い上がった風が周囲の木々をざわめかせた。次の瞬間、しっかりと爪で白猫のシロウを掴み上げ、夜空へと跳躍するように飛び立った。
力強くシロウを掴んだハヤトは、夜空を裂いて上昇していく。街灯の明かりが遠ざかり、風切り音と共に冷たい夜気が二人を包む。街のネオンが小さな光の川のように流れ、その中を一直線に滑空していった。
「ちょっと待て……どこに連れて行くつもりだ……」
白猫のシロウの細く鋭い金色の瞳に浮かぶ焦りと怒り。
「勇者庁本部や!お前1匹で空回りしとってもしょうがない。まずは情報と戦力を揃えるのが先決やろ!」
ハヤトの黒い翼が月明かりを掠め、鋭く夜空を駆け抜ける。ビル群の合間を縫い、街を見下ろす視界には無数の灯りが点滅していた。疾風のように滑空するたび、シロウの白い毛が冷たい夜気に揺れた。
「大丈夫や!仁美ちゃんを攫う理由なんかお前を誘き出す以外にないやろう?だからそう簡単になにかされる訳ではあらへん。だから俺たちはその時間に準備をしておかんとあいつらの思う壺や……」
夜の闇に二人の影が溶けていく。遠ざかる病院を背に、勇者庁本部を目指して、ハヤトの黒い翼は力強く羽ばたき続けた。
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勇者庁本部の敷地に降り立ったハヤトは、黒い翼を大きく広げて夜気を払いながら着地した。白猫のシロウを抱えたまま、大理石張りのエントランス前に降り立つと、庁舎の重厚な自動ドアが無音で開く。
冷たい光が溢れるロビーに、犬の姿をした勇者庁長官・鷹森ユズハが佇んでいた。優雅な毛並みを夜気に揺らし、その琥珀色の瞳はどこか呆れ混じりの光を湛えている。
「ハヤト、あなた、子供を預けてどっか行ったかと思えば、今度は白猫を抱えて飛んでくるなんて……ほんと自由気ままなカラスになってしまったみたいね」
低く、しかしどこか威圧感を帯びた声がロビーに響く。ユズハの隣には田所が立っており、シロウとハヤトを見て顔をしかめた。
「状況は?」
ユズハの鋭い視線がハヤトを捉える。ハヤトはシロウをそっと床に降ろすと、羽を畳み、探知機を軽く振ってみせた。
「ここに来る間も探知機に反応はなかった、そんで神城はボロボロで休ませる……仁美ちゃんを救出する作戦を考えるんや」
シロウはフラつきながらも、なんとか自力で体を支えようと足を踏ん張った。けれど四肢は震え、白猫の身体は限界を超えているのは明白だった。ユズハはそんなシロウを冷静に見つめると、鋭い瞳をわずかに細める。
「……分かったわ。まずは医療班を呼ぶ。君を回復させずに作戦を練っても意味がない」
ユズハの命令に応じ、すぐさま庁舎奥から白衣を纏った数名のスタッフが現れた。シロウを乗せるための簡易ストレッチャーが押されてくる。
「仁美ちゃんはおそらく囮にされている。焦って動けば逆結者の思う壺だわ。こちらで持てる全ての情報を洗い出し、奴らの拠点を探る」
琥珀色の瞳を月明かりに光らせながら、ユズハは田所へ鋭い視線を向ける。
「田所、逆結者に関するこれまでの全情報を洗い出して。潜伏先、構成員の交友関係、動き……何でもいい。次に備えなさい」
「了解しました!」
田所は短く返事をすると、そのまま勇者庁の奥へ駆けていった。ユズハは白猫の姿のシロウに歩み寄り、顔を近づける。犬の形をしたその顔は、威厳と優しさを同居させていた。
「安心して。仁美ちゃんは必ず取り戻す。あなたは今は、自分の役目を果たすために、力を取り戻しなさい」




