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第一話 はじまりは、砂の味

「……いや俺、完全に詰んでね?」




誰にも聞こえない声でそう呟いた瞬間、俺の意識は、激しい目眩とともに五年前の記憶へと引き戻されていた。




――五年前。転生直後、十歳のあの日。


ズキ、と頭に激しい痛みが走る。


脳が焼け付くような感覚。




「おい、聞いてんのかルーク!」


「あぁ」




ちょっと怒った声に、俺は反射的に生返事を返していた。


まだ混濁する前世の記憶と、この身体の記憶。パニックになりそうな脳を置き去りにして、十歳の俺の身体は、染み付いた習性のままに動き出す。




「また聞いてなかったのかよ。今日の標的はあのばあさんだ」




薄暗い路地裏から大通りへと顔を出した、相方の少年が顎で獲物を示した。


視線の先。


少し腰の曲がった老婆が、布袋を大事そうに抱えて歩いている。




「娘夫婦と孫が王都から来るから、ご馳走を出すって昨日店で張り切って喋ってやがった。さっき銀行で金を下ろしてんのも見た。財布は、カバンの中の右側だ」




少年は手元で手をクイクイと動かしながら、財布の場所を教えてくれる。




「じゃ、いつも通りな。ばあさんが通り過ぎた瞬間――」




ニヤリと口を歪める。




「よし、いまだ!」




ばあさんが路地の真横を通り過ぎた瞬間、弾かれたように俺の身体が飛び出した。前世の『俺』が「待て、それ普通に犯罪だろ!」と叫ぶより早く、スラムのガキとしての身体が、迷いなく動いた。




「――場所まで競争だ!」




周囲に怪しまれないよう、少年が悪ふざけを装って声を張る。




俺は“いつも通り”、老婆の背後をすれ違いざまに通り過ぎる。


十歳の足りない身長を補うため、絶妙なタイミングで跳躍。


流れるような動作でカバンへ手を滑り込ませた。




指先に触れる、ずっしりとした革の感触。


財布。


引き抜く。




そのまま一瞬で服の懐へ隠す。


体は止めない。


着地の勢いを誤魔化すように軽快なスキップへ繋げ、そのまま無邪気な子供を装って駆け抜ける。




頭がうるさいほど鳴っていた。


だが、心臓は正常だ。足も迷わない。


十字路を抜け、大通りを挟んだ反対側の細い路地へ滑り込む。




そこでようやく、俺は息を吐いた。




「……はっ、は……」




成功。


身体はそう理解していた。




だが、強烈な吐き気が込み上げてきた。


服の中に隠した財布が、皮膚越しに妙に重く感じる。




頭の痛みはまだ引かない。その痛みに油を注ぐように、前世の記憶が脳の奥底から一気に溢れ返っていた。


コンビニ。スマホ。満員電車。大学。夜勤バイト。漫画。アニメ。


――そして、法と倫理観。




スラムのルークにとっては呼吸と同義の“日常”だった行為。だが、前世の俺にとっては、言い訳のしようもない完全な犯罪。




「お、おいルーク? どうした?」




少年が、不審そうにこちらを覗き込んできた。


目の前の少年は俺より10cmほど小さく、灰緑色の髪の間から覗く耳がツンととんがっている。見た目は小学三、四年生くらいだ。




「……なんでも、ない」




路地の向こう。


財布を盗まれたことすら気づかず、まだのんびりと歩いている老婆の背中が見えた。




娘夫婦と孫が来る。


きっと、ずっと楽しみにしていた、久しぶりの再会だったんだろう。


そのために、なけなしの金を下ろして。


少し奮発して、美味いものを食わせようと、あんなに嬉しそうに……。




「…………」




胃の奥から酸っぱいものがせり上がる。


だが同時に、その「前世の良心」をガリガリと噛み砕く、別のドス黒い感情がせり上がってきた。




――で?


――それを返したら、今日の俺たちの飯はどうなる?




現実を、この十歳の身体は冷徹に熟知していた。


盗まなきゃ、飢える。


飢えれば、確実に死ぬ。


ここは、そういう場所だ。




綺麗な正義も人道的な倫理も、一粒のクソの役にも立たない。腹は膨らませてくれない。


服の隙間から、手の中の革財布をじっと見つめる。




傷だらけの指を丸め、脳味噌が完全に冷えていくのを自覚した。




前世の俺は、もうあの平和な日本にはいない。死んだんだ。


ここにいるのは、ゴミ溜めで這い回るスラムのガキだ。


ここは華やかな剣と魔法の世界ですらない。もっと単純で、もっと救いのない――ただの弱肉強食の世界だった。




「……ふっ」




乾いた笑いが漏れた。


前世の倫理観なんて、この世界じゃ腹の足しにもならない。




路地裏に吹き込んだ冷たい風が、乾いた砂埃を巻き上げる。


口の中が、じゃり、と鳴った。




砂の味がした。


俺がこの世界で、最初に覚えた生存の味だ。

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