41.その理由は「誰でも」ではなく、「あなた」だから
御殿に戻ってから、アリシアは湯殿と寝所のどちらが良いかを尋ねられ、少し悩んでから湯殿を選んだ。
一晩中歩き回って眠くないわけがない。現にアリシアの意識は霞がかっていて、注意力が散漫になっている感覚がつきまとっている。が、洞窟内での戦闘で全身土埃まみれだ。横着してこのまま眠っても、きっと疲れは取れないだろうと思ってのことだ。
女官に案内された湯殿は美しい白木造りの浴場で、森と同じような爽やかな香りに満ちていた。
使われている木の芳香だろうか。
昂っていた神経が落ち着いていくようだ。漂うその香りを胸一杯に吸い込みながら、アリシアは来ていた服を手早く脱いで中へと入った。
まずは全身に湯をかけて洗い、一日の汚れを綺麗に落とす。それから湯気の立つ湯の中に、ゆっくりと身体を沈めた。
「はー……」
温かさに包まれて、あまりの心地よさに声が出る。
数人は入れるであろう広い浴槽、そこに溢れんばかりに湛えられた豊富な湯。ここだけを見ても、日の国が水や森林資源に恵まれていることが分かる。上下水を整えることも、湯を沸かすことも、どちらも多大な資源と労力を必要とするもので、ファーマでは日々の入浴はできても湯を張ることは基本的に無かった。
疲れと緊張に強張っていた身体が少しずつ解れていく。
それと同時、色々なことが頭に浮かんできた。
次にまたすめらぎを訪ねた時には、色々訊いてみたい。彼自身のことや、あの洞窟。砦のこと。水源地もそうだし、あの飛竜の骨はどうしてあそこにあったのか。人の手で運ぶにはいささか多すぎた気がする。もしかすると、陸ではなく空からの入口があの砦には存在するのかもしれない。
ファーマから届いた手紙。あれは、ずっと大切に持っておこう。返事は、――いつになるか分からないけれど。
火の花。美しいが謎が残る花。本当に自分にも導きとやらが来るのだろうか。どんな形で、だろうか。自分はそれを見過ごさず、導きなのだと理解することができるのだろうか。
そして、――腕。
思い出して、そこでアリシアは鼻まで湯に浸かって唸った。合わせてぷくぷくと気泡が浮かんでくる。
込み上げるこの気持ちをなんと呼べばいいのだろう。
回された腕、込められた力の強さ。否応なく聞こえた鼓動。穏やかなんかじゃなかった。すごく速かった。驚いたアリシアよりもずっと。そしてあの顔。無事の戻りを笑って喜んでくれると思っていたのに、あれほど真剣な顔で。
どうしてなの、とは最後まで訊けなかった。
聴いたが最後、戻れないような気がした。
「――駄目。のぼせそう。もうやめよ」
恥ずかしいのか居た堪れないのかなんなのか、分からない。これ以上は頭が煮詰まりそうだ。
もう上がろう。
そう決心して閉じていた目蓋を開けた時、アリシアはぎょっとした。
目の前の湯が赤く染まっている。
そのまま視線を滑らせて自分の胸の辺りを見ると、鎖骨を伝ってかなりの勢いで血が流れ出しているようだった。
「え、……っ」
どこからだ。
肩、鎖骨と順に確かめていって最後に首に触れた時、指がぬるりと滑った。見ると、掌に血がべたりとついていた。
そういえば、とそこで思い出す。
すめらぎとの戦闘で首に傷を負っていたのだ。今の今まですっかりその存在を忘れていたというのに、傷は存外に深かったようで、どくどくと血が溢れてくる。身体が暖まって、血の巡りが良くなったからだろうか。ぉその感触と、瞬く間に色づいていく湯に慌て、取りも直さずアリシアは浴室を出た。
焦りつつ手で首を押さえる。
傷口が脈打ち、それに合わせて生温かくぬめる血が溢れ出すのが分かる。日に焼けていない自分の胸や腹、そして腿に鮮やかな赤が伝っていく。
とりあえず、辺りを汚すのはまずい。
咄嗟に判断したアリシアは、用意されていた大判の更紗一枚を身体に巻きつけ、湯殿から飛び出した。
右、左。視線を素早く走らせる。
ちょうど廊下の少し先に歩く人が見え、その背に向かって声を張った。
「あの、すみません! なんでも良いので汚しても良い布、貸して頂けませんか!」
「布? いや、自分は――って、アリシア!?」
「フレイ!?」
まさかの展開だった。
アリシアが声を掛けたのはどうやら風呂上がりだったらしいフレイで、確かに湯殿は男女双方設えられていると説明を受けたなと思い出すも今さら後の祭りである。
互いに驚き合って、その場に固まる。
しかしアリシアが声を張り上げたのが功を奏したのか、複数の足音が聞こえる。そしてすぐに女官が駆け付けてくれた。フレイに対して説明する間もなく、慌ててアリシアは女官へと向き直る。
「いかがなされましたか」
「私、怪我していたのをすっかり忘れていて、気が付いたらこんなことに……申し訳ないのですけど、使い古しの布があればお借りできませんか」
「まあ大変!」
捲し立てたアリシアの説明に合わせ、傷口に視線を向けた女官が目を見開く。そのまま彼女はすっ飛んでいってしまった。
事なきを得た。
そう思う間もなく、今度はガラガラと横開きの扉が開く音がした。
「なんの騒ぎ……うおっ」
小さな悲鳴、辿ると立っていたのはこれまたラフな格好をしたアンリだった。
ちょうど湯殿から出てきたところだったらしい。常日頃、冷静さを崩さない彼だったが、その顔はこれまで見たことがないほど驚きに満ちていた。
洗いざらしの湿った髪がどこか新鮮だ。そんなことを考えつつ、アリシアは「これには深い訳が」と項垂れながら言った。
「その、これ、全然大したことないんだけど、大したことないから忘れてて。それで、多分お湯に入ったせいで派手に血が出て、うっかりあちこち血まみれで慌てて……」
「あー……そうか。いや、大したことないようには見えないが……」
困惑の表情を隠さないまま、それから意を決したようにアンリが歩み寄ってくる。
それから彼は自身の持っていた上衣をアリシアの肩に掛けてきた。
「とりあえず、次からもう少し格好を考えて出てきてくれるか」
「だって周りを汚しちゃいけないと思ったから急いでて。お湯は汚しちゃったけど」
「そうじゃなくて……いや、いい」
なにかを噛み締めるようなアンリだったが、寡黙な彼はそのまま押し黙ってしまった。
日の国までの旅路で距離が少し近くなって、アンリはようやく敬語をやめてくれた。それはいいのだが、雄弁ではない彼の端的な言葉には余白が多く、アリシアとしてはつい色々と言い訳をしたくなってしまう。
どう説明したら良いだろうか。
考えあぐねていると、背後から「アリシア」と呼ばれた。
振り返るとそこに立っていたのはフレイで、こちらもこちらでしっとりと濡れて鈍色になった金髪が見慣れなかった。
そんな些細なことに気を取られていると、フレイが腕組みをして口を引き結ぶ。並々ならぬ迫力に思わずアリシアは息を呑んだ。
「いいかアリシア、まずは湯殿に戻って早急に扉を閉めるんだ。そして中で待つように。女官にはそう伝えるから。この状態はさすがに看過できん」
「でも」
「目のやり場に困る、という言葉を知っているか?」
「知ってるけどでも」
「まだ言うか? こんなあられもない格好の人間に発言権はないぞ。いいか、この件に関しても後で説教だ」
「でも、……え? この件に関して、も? ってどういう」
「さっき怪我を忘れていたとかなんとか言っていただろう。今後を見据えてまずはそこからよく話し合う必要がある。これについては言い訳の余地はないと思っておいてもらおうか」
有無を言わせぬ迫力のまま、フレイが立て板に水のごとく畳みかけてくる。これはフレイ個人の、というより口調も佇まいも明らかにトール大佐のそれだ。
これ以上の反駁はどう考えても得策ではない。
そんな雰囲気をひしひしと感じ、アリシアは蚊の鳴くような声で「はーい……」と一言返すのが精一杯だった。
その後、アリシアは女官の手助けを得つつ、まずは身体中の血を洗い流して着替えをした。
首の傷は渡された布を何度か替えねばならないほどで、結局アリシアは医術の名誉師範と呼ばれる人物の元へと案内されることとなってしまった。付き添いにはフレイとアンリが来て、さらに翁の部屋には秋宮とトラヴィス、そしてノルズまでもが待っていた。
並ぶ全員の神妙な顔。
大事になっている。
そして手厚すぎる扱いだ。
アリシアは「大した怪我でもないのに」と恐縮しきりだったが、しかし彼らはアリシアの傷を見て一様に顔を顰め「重傷だ」と断じた。まさかの満場一致である。そんな彼らは部屋の隅に控えつつ、アリシアだけが部屋の真ん中にある椅子に座らされた。
名誉師範の翁がにこりと笑って、彼の首筋を指差す。
意図を解し、アリシアはそれまで左手で押さえていた布をそっと外した。翁の顔色は変わらなかったが、診てもらう時の手つきが極繊細で、ほとんど触れないようにしてくれているのが分かった。
「……ふむ」
ややあって、翁が呟いた。
「どうですか?」
アリシアより早く、フレイが尋ねる。それを受けて翁はそこで初めて眉を寄せた。
「あまり良くないのう。軽い怪我とは言えんわい。怪我をしたらすぐに止血をしなければいかんぞ、お嬢さん」
「はい。すっかり忘れてて……」
「まったく、良くもまあこれで一日過ごしたもんだわ」
呆れつつも彼は薬を傍らから取り出し、それをアリシアの傷口に塗り始める。
走った鋭い痛みに、思わずアリシアの顔が歪んだ。
「……っ!」
「すまんの。少し辛抱だ」
傷口が深い為に、薬がかなり沁みる。
声にならない悲鳴を噛み殺し、眉間に皺を寄せて目を瞑り痛みを耐えるアリシアに、極力優しく丁寧に、しかし素早く翁は薬を塗った。化膿を防ぐという薬を塗り終わり、大きく柔らかな布を当てられた時、思わずアリシアは堪えていた息を吐いた。
静かに首に包帯が巻かれていく。当然のことながら窮屈だった。
「これから一日一回この薬を塗って、包帯を取り替えてな。十日は必ず。治りが芳しくなければ半月は同じようにして、様子を見るように」
「十日!? それも毎日!?」
「そりゃそうじゃ。お嬢さんの傷はそんなに軽くないと言ったじゃろ。そうしなければいつまでも治らんぞ」
「痛くなかったのに……」
「痛くなくてもまず止血せい、馬鹿たれ。青い顔しおってからに、血を流しすぎとるわ。痕も残ってしまうだろうて」
「傷痕はどっちでも……」
「どうあれしばらく無理は禁物だ。膿めば今より痛むことになる」
「はい……」
「もう一つ。自分が気にせんから怪我をしてもいい、というのは感心せんぞ。お嬢さんが良くてもほれ、周りが良くない」
「う……」
翁から特大の釘を何本も刺されてしまい、アリシアは項垂れた。
しばらくこの痛みに耐えねばならないかと思うと憂鬱でしかない。が、完全に傷の存在を忘れていた自分に非があるわけで、ここはもう諦めるより他にない。
しかしなにより気まずいのが、
「……」
横からとてつもなく強い視線を感じる。
フレイだ。
治療の間はかろうじて気付いていない態で目を逸らしていたのだが、さすがにその手はもう使えない。恐る恐るアリシアが顔色を窺うと、彼は眉間に皺を寄せ渋い顔をしていた。
目が合う。
慌ててアリシアは視線を外してしらばっくれようとしたものの、そうは問屋が卸さなかった。翁に処置されている間はかろうじて止んでいたフレイの小言が再開する。
「大体な、アリシア」
「はい、分かってます」
「いいや、分かっていない。そもそも君には自覚というものが足りない。一人で洞窟に行ったのはやむなし、まだ良いとしよう。本当は良くないんだがな」
「どっちなのよ~……」
「口ごたえするな。君が一人で出歩くのが良いか悪いかでいったら良いわけがない。今回の件は特例中の特例だ。成人の儀という竜の一族特有の事情があってのことで、本来ならば絶対に許容できない話だったんだぞ。なんの為に俺たちがいると思ってるんだ。いいか、君がいくら剣や槍を扱えるからといっても、君は女性だ。そこを忘れないでくれ。まったく、自分の事に神経が回らないのにも程がある!」
かつてこれほど流れるような理詰めの小言をもらったことがあるだろうか。
一つ言えば十ほど返ってくる。
程があると言うなら、弁が立つにも程があるのではないだろうか。これはフレイの生来の気質そのものなのか、それともやはりゴルガソス国軍の大佐という役職の為せる技なのか。どちらなのかは分からないが、どうあれ事ここに及んで更に言い訳しようものなら火に油を注ぐ未来しか見えない。
誰か助け船を出してほしい。
淡い期待を抱きつつ秋宮に視線を投げると、彼は困ったように眉を下げつつも「さすがに自分には無理では?」と言いたげに小首を傾げる。
トラヴィスを窺うと、彼は小さく苦笑して肩を竦めた。彼は詫びるような目配せを寄越しつつ、目立たぬようにするりと部屋の外へと出ていってしまった。その横に座るノルズへと視線をずらすも、そっと目を逸らされる。これはまあ分からないでもない反応ではある。最年少の彼にはおそらく荷が重い。となると最後の頼みの綱、縋る思いでアンリを見たが、彼もまた静かに首を横に振った。
つまり、こうなったフレイは誰も、アンリですら止められないらしい。これで完全に進退窮まった。
「聞いているのか、アリシア!?」
「はい、聞いてます!」
そして目ざとい。
アリシアは極力小さくなりつつ、時が過ぎるのを待つしかなかった。
片付けをしながら翁が呵々と笑う。
すると、扉が軽くノックされた。部屋にいた人間の視線が集まる。翁が「開いている」と声を掛けると、数舜後に顔を覗かせたのは誰あろうトラヴィスだった。その後ろには、小柄な女官が控えている。
「大佐。言い足りないのは分かりますが、食事だそうです」
「――分かった。時間切れだな、伺おう」
延々続きそうだった小言がそこでようやく終止符を打たれる。
秋宮が案内で先に出ていき、その後にフレイが続く。その背を見つつ、アリシアはこっそり息を吐いた。
「時間切れって、勘弁してよ~……」
「あれはまだ序の口だったが」
泣き言を零すアリシアに、独り言の態でまったく顔色を変えずにアンリが呟く。
あれで序の口。信じられない話だ。
ちらと窺うと、アンリと目が合った。
「そうなの……?」
「本国の隷下騎士にはもう少し手加減なしだな」
「嘘でしょ~……」
正直なアリシアの本音を耳にしたアンリは、そこで苦笑を浮かべつつも小さく頷く。それから彼は翁に辞去の挨拶をしてから、ノルズを伴い先に部屋から出ていった。
残ったのはトラヴィスだ。
げっそりしつつもアリシアは救世主とも言うべき彼を拝んだ。
「トラヴィスさん、助かりました……」
「最初にしては中々厳しめでしたね。まあ大佐の小言はいつもああですから、機が難しいんですよ」
「どういうこと?」
「少なすぎず多すぎず。大佐もそこそこ言いたいことを言って、言われている方もまだ限界には達していない。そこが打ち切るのに最良です」
「もしかして、ずっと見計らってた……?」
「どうでしょうか」
にこりと笑うトラヴィスに、アリシアは思わず項垂れた。
「もー……そうならそうと教えてくれてたら……」
「次はもう少し早めに来ます」
「お願いします……」
「……大佐はね、心配だったんですよ。他でもないあなたのことがね」
優しくかけられた言葉に、アリシアは唇を噛み締めた。
不意に鼻の奥がツンと痛み、僅かに視界が滲む。
そうだったのか、と気付かされて。
怒るというのは相手を心配する時にも出てくる感情なのだと、そっと教えられて。
そんなことさえ分かっていなかった自分に対して、今は言葉もない。
小さく首を横に振る。二度、三度と。
「一睡もせずに待っていたそうです。あなたを一人で行かせてしまった後悔で」
「そんなの、フレイのせいなんかじゃないのに」
「そういう部分で互いに割り切れるなら、大佐もあなたもここにはいなかったと思いますよ」
優しい笑み、けれどトラヴィスの言葉は輪郭がはっきりしていた。
「副官も、ノルズも。皆、眠れずにあなたを心配していました。本当は盾になりたかった。自分たちのなにに代えてもあなたを守りたかった。それなのに、あなたにこんな傷を負わせてしまうなんて、本当に後悔してもしきれないんです。あなたは悪くありません。ただ大佐や副官がそう思っているということは、知っておいてください」
「……はい」
「あとは、そうですね。ノルズが一番、責任を感じているということも」
本国に戻ったら、国軍を辞める可能性が高い。
続いたトラヴィスの言葉が、アリシアにはすぐには飲み込めなかった。
「ノルズが、……なぜ?」
疑問は宙に浮いたままだった。
トラヴィスは考え込んだ様子で、扉の向こう――廊下の先を歩くノルズの背を見ていた。




