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竜の負う十字架  作者: 東 吉乃
第二章 蒼き薫風が抱く者たち

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40.愛しさへの向き合い方


 昇り始めた朝陽に照らされながら、アリシアは一人で帰路についた。

 周囲の樹々を見るとその枝葉がどれも輝いている。嵐の後、残された雫が光を反射していた。綺麗だ。そんなことを考えながら歩いていると、ふと頭上に影が差した。

 空を見上げる。

 すると聞き慣れた羽音と共に、梢の隙間から蒼い翼が見えた。

「ベルス」

 見慣れた蒼に嬉しくなって、呼びかけながらアリシアは走った。

 やがて樹々の梢が薄くなり少し開けた場所に出ると、上空からアリシアをずっと追ってきていたベルスが降りてきた。

 その大きな頬に腕を回して抱きつくと、フルル、と優しい鳴き声で返してくれた。

「ありがとう、来てくれて」

 声をかけて額をそっと預けると、温かな吐息が返ってきた。

 遠くファティマスから追ってきてアリシアの危機を救ってくれたというのに、ゆっくり労いもできていなかった。そんな自分を反省しながら、アリシアはベルスの首筋を軽く叩く。

 翼が緩やかにあおがれる。

 それはいつもベルスがアリシアを待ってくれている時の仕草だった。その柔らかい動きを目に映しているとまるで母に撫でられているようで、母の手を知らぬ自分でありながらも不思議と心が落ち着くのだった。

 もう一度だけ頬を寄せてから、抱きついていた腕を解く。

 すると、ベルスの視線がとある一点に注がれていることに気付き、アリシアはそこに手を伸ばした。

「どうしたの、これ」

 手綱から繋がっている肩口の装具に、小ぶりな革袋が結わえ付けられている。アリシア自身は付けた覚えのないものだ。

 小首を傾げながら紐を解いて中を検めると、乾いた感触が指に触れた。

「……手紙?」

 まさか、という思いを抱きながら見ると、「愛しい娘、アリシアへ」と見慣れた筆跡で宛名が書かれていた。

 デールのものだ。


 アリシアの育ての親であり、アリシアの本当の父ヴァースの親友でもあった人の。

「もう子供じゃない」などと子供じみた八つ当たりをぶつけたアリシアに対して、まだ「愛している」と言ってくれた、言ってくれている人の。


 角ばった文字は変わらずその実直さを表していて、その懐かしさにふと涙が出そうになった。

 酷く窮屈だった生活、けれど絶対に愛されていた日々。

 思い出せば無二の記憶だ。いらなかった、と簡単には決して投げ捨てられぬほど。

 唇を噛み締めて堪え、遠く届いたその手紙を暫時胸に抱く。何度か深呼吸を繰り返し、それからアリシアは手紙の封を切った。

「――」

 中にはアリシアを想う言葉が沢山並べられていた。

 長い航海の無事を願い。体調の変化を気遣い。見知らぬ国へ赴くことへの励ましと、いつもアリシアの心が安寧であることを祈り。

 そのどれもが真摯で、温かくて、そしてどこまでも優しかった。

「ファーマの皆は、レベノスへ越した――?」

 だからもう後顧の憂いはない、と書かれていた。

 ベルスの力を使って順番にファティマス山脈を越え、首都レベノスの片隅に溶け込むように新生活を始めたという。その中にはアリシアの親友ヘレンとその夫となるギルもいて、慎ましやかながらも小さな一軒家で暮らしているらしい。

 アリシアの旅立ちと共に、ファーマはその役目を終えた。

 今はデールとコルトだけが残り、静かに弔いと祈りの日々を重ねている。二人だけならば充分な量の食料は蓄えられていて、冬も越えられる。

 もう、翼の恩恵は要らない。

 アリシアは皆の為にとベルスを残していった。だがベルスは元はアリシアの母の飛竜で、その形見だ。ベルスはアリシアと生きるべきで、だからベルスと共に心の赴くままに広い世界を見てきてほしい、そう書かれていた。

「……どうしてもガラティアを捨てられないから、だって」

 短い一文に全てが込められていた。

 その字面を何度も目でなぞって、痛いほど伝わってくるなにかがそこにあって、けれどそれを言葉に換えられないまま暫時アリシアは立ち尽くしていた。

 やがて浮かんだのは、削ぎ落とされた言葉だった。


 きっとそういうこともあるのだろう、と。


 それ以外にはなにも。

 簡単に割り切れることばかりではないのだ。その必要がもはや無くなったとしても、そうしたいと思う気持ちまでもが綺麗に清算されるわけではない。

 コルトとデールはガラティア出身の最後の二人だ。末裔狩りの時にガラティアを脱出してファーマに身を寄せたのは、そこが他の竜の一族がかつていた集落で、一族に対して理解があったからだ。そういう意味で、アリシアの存在がヘレンたちを繋ぎ止める直接の理由であったと同時に、コルトとデールにとってはそれだけが理由ではなかった。

 アリシアは手紙を丁寧に折り畳み、胸元へと忍ばせた。

 いつか帰る日が来たのなら、きっと笑顔で帰ろうと心に決めながら。

「行きましょう、ベルス。御山に。大宮が待ってる」

 成人の儀の前に交わした約束だ。アリシアはベルスの背に跨り、手綱ごとその肩口を叩く。ちらりと振り返ってきたベルスは少しの間を置いてから、空へと飛び立った。

 眼下に森と、彼方に火の山が見える。

 御山の方角を見定めた時、アリシアはその不思議な光景に目を奪われた。


 濃い緑の中に、点在する薄紅色。


 樹木の種類が違うのだろうか。花のようだ。それが、向かおうとしている御山に向かって等間隔に並んでいた。

 目を転じると、成人の儀の場所となった洞窟付近を取り囲むように薄紅色が見える。目印なのだろうか、でも一体誰の為に。

 日の国には飛竜はいない。大鷲はいるから、それ用か。とはいえ数がそれほどいるようには到底思えないが。

 偶然にしては出来過ぎている気がする。

 そんなことを考えながら手綱を繰って方向転換してみる。すると、火の山の麓へと続く森の中、同じように点で差し伸びていく薄紅色があった。

 誘導されているようだ。

 気にはなったが、今は一人で勝手に火の山へと向かうわけにはいかない。もう一度、食い入るようにその光景を目に映しながら、アリシアは御山へと飛んだ。

 自分の足で山道を歩くのとは違い、空を往けばやはり早かった。

 昨日、大宮と共に訪れた社が見える。しかし周囲は木立が近く、降りるのは難しそうだ。どうしようかと迷ったアリシアだったが、社のほど近くにぽっかりと開けた場所があった。

 上空からでもすぐに分かった。

 社の裏側から真っ直ぐ、薄紅色に彩られた細い道が伸びる。そしてその先の終着に、彼らの姿がはっきりと認識できた。

 三人いる。

 一人は小柄な、濃紫の狩衣。残る二人はもう見慣れてしまったゴルガソス国軍の制服だ。

 アリシアは社の上あたりから細い道に沿って徐々にベルスの高度を落とす。昨夜の嵐の名残か、一陣の強い風が吹く。薄紅色に染まった梢がざあと鳴り、千々に散る冷たい花弁が頬を掠める。まるで雪景色の中にいるようだった。

 その向こう、霞むように立つ三人――大宮とフレイ、そしてアンリの前に降りる。

 三人の視線が寄せられる。

 フレイの目が僅か赤く染まっていて、まさか夜通し起きていたのだろうか。しかし冷静に考えると得体の知れない相手から襲われた挙句に彼らの目の前でアリシアは大鷲に攫われたわけで、和やかというか穏当な再開になる要素がなかった。

 フレイは口を引き結び、頬が硬い。

 心配をかけて申し訳ない気持ちがせり上がり、鼓動が早まる。アリシアは「あの」と口を開いた。

「ごめんなさ、――っ!?」

 息が詰まった。

 跳ねる鼓動を抑えようと無意識に胸元に引き上げかけた手。それは途中で手首ごと捕らえられ、有無を言わせぬ力で引き寄せられた。

 崩しかけた体勢、たたらを踏んだ足。

 受け身、と思う間もなく次の瞬間に目の前が青一色に染まった。制服だ。ゴルガソスの。嗅ぎ慣れない、けれども決して不快ではない香りが鼻腔を掠める。押し付けられている頬は鍛えられた身体の固さを感じて、そして耳には自分のものではない鼓動が届いていた。

「良く、無事で……!」

 フレイの声は身体の奥底から絞り出されているかのようだった。

 そして更にきつく、彼の腕に力が篭る。

 苦しい、と言えるような隙は一分もない。閉じ込められた腕の強さに狼狽える。ただ、そこに込められた力がフレイの言葉代わりであることだけは、強く伝わってきた。

 どれだけ心配をかけただろう。

 一人でさっさと腹を括るのではなく、この人たちを待てば良かった。一人で動くことが当たり前すぎて、自分の行動や決断が周囲にどれほど影響するのかを一つも想像していなかった。

「……心配かけてごめんなさい」

「違う。詫びねばならないのは俺の方だ」

「ちょっ、フレイ、苦し……!」

 もはや締め上げられる勢いに、思わずアリシアはフレイを押し戻そうとする。が、その胸はびくともせず、むしろそれまで以上に力が篭った。

「ほっほ。仲の良いことだの」

「ちっ違います、そんなんじゃ……!」

 からかいを含んだ大宮の言葉に反論しようにも、さらにきつく抱きしめられ、最後まで言わせてもらえなかった。

 これはあれだろうか。

 今はもう、なにを喋っても駄目なのかもしれない。

 諦めて力を抜くと、しばらくしてからようやくアリシアはフレイの腕から解放された。人心地つき、ふと見ると数歩離れた場所にいるアンリと目が合った。彼は二度三度瞬きした後、小首を傾げつつ明後日の方を向いた。

 含みしかないその動きに、アリシアは眉を潜める。

 直後、「アリシア」と呼ばれたので視線を向けると、そこには複雑な顔のフレイが立っていた。

「護衛の手落ち、申し訳も立たない。許してもらえるとは思わないし、本来であれば懲罰ものだ。どんな叱責も受け入れる準備がある。それでも、どうか忠誠の棄却だけは待ってほしい」

「いえ、あの、あれはさすがに無理だったと思う、けど……?」

「無理?」

 フレイの目に力が篭る。

 その眼光の鋭さに気圧されつつ、アリシアはどうにか続けた。

「だってあんな、空から急に大鷲が来るなんて普通誰も考えないし、だから手落ちだなんてそんなこと」

「駄目だ」

「えっ」

「甘やかさないでくれ」

「ええ……?」

「俺の力不足が招いたことだ。精進する。だからその、もう少しだけ時間をくれないか」

 フレイが真っ直ぐな目でアリシアを見てくる。

 それはなんの為の時間なのだろう。僅かに跳ねた鼓動を悟られたくなくて、アリシアは深く息を吸い、続く言葉に備えた。が、

「どんな相手であろうと次は必ず屠ってみせるから」

「……真面目すぎない?」

 そういう決意表明が来るとは思わなかった。なので、つい口が滑ってしまった。

 ぷ、と小さく噴き出す音が耳に届く。

 出所のアンリを見ると彼は片手で頬ごと口元を押さえながら、微かに肩を震わせていた。

「成人の儀は無事に終わったようだの」

 再会を見守っていた大宮が、頃合いと見たか口を開く。

 受けたアリシアは「はい」と返し、「一族として生きることにしました」と明かした。大宮は是も否も言わず、穏やかな顔のまま暫時アリシアを見つめていた。

 やがて視線が外される。

 大宮は景色が霞むほど舞い上がる花弁を見遣り、そして言った。

「では一つだけ。これは『火の花』と呼ばれるこの国を代表する花。火の粉が舞うように散るこの花は、空を往く者を導くのだと古来より我が国で言い伝えられておる。あなたにもその導きがいつか必ずあるでしょう」

 その日が来るまで、日の国はずっと祈り続ける。

 それは詩歌のような美しい言葉だった。


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