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竜の負う十字架  作者: 東 吉乃
第二章 蒼き薫風が抱く者たち

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39.それぞれの夜


 夜の深まりと共に、嵐は激しくなっていた。

 うねる風と叩きつける雨音が大きい。用意された御殿の一室で、フレイは冴えた目のままで控えめに灯る明かりを見つめていた。

 あれからずっと考えている。

 大宮に問われた言葉が深く胸に刺さったまま自問自答を繰り返し、時を読めば既に日も変わった。それでも休む気には到底なれず、また同じ問いを自分へ投げかける。


 人は生まれながらにして不平等であってはならない。

 例えば生まれた家が貧しいからといって、差別を受けていいはずがない。


 そう信じて、自分はゴルガソス国王に忠誠を誓い、これまでやってきた。

 国王は、――あの方は、この荒んだ世界に再び理想郷を作り出したい、と語っていた。かつて竜の一族のもとで花開いた華やかなる文明、その世界は豊かで皆平等だったと。

 フレイ自身はその考え方に強く賛同している。

 四大陸はどこも不安定だ。本国であるゴルガソスは内戦が続き、北のカルキノスはセヴァス公国とラ=シェイが交戦状態にある。西のサルディアは部族間抗争が絶え間なく、南のファティマスはそれこそ末裔狩りの火が再燃した。誰も彼もが自身を守ることで精一杯。手を取り合うには程遠く、理想郷どころか平和であるとさえ言えない。

 そんな世を根本から変えること、自らの理想に向かって努力すること。

 その為に、己にできることは何でもやる覚悟があった。それは絶対に正しいことなのだと信じてきた。

「俺は」

 ようやく絞り出した声は、無様に掠れていた。

 虚空に向かって放り投げたその言葉。

 それを受け止めてくれたのは、無二の親友――アンリだった。二人部屋の反対側、壁に背を預けたままの彼から視線だけが返ってくる。いつもは分隊副官として固くあるが、二人だけの時はその固さが取り払われる。

「そんなつもりじゃなかった。今だってそうだ」

「――そんなことは分かっている」

 すぐに返ってきた相槌。その篤さに救われながら、フレイは思い返せば痛い言葉をもう一度頭の中で繰り返した。


 大宮は言った。

 ゴルガソスと、フレイ自身が目指す理想は素晴らしい世界であろう、と。しかしその素晴らしい世界にあってさえ、全ての人間が幸せにはなれないのだと、この国の為政者ははっきりと断じた。

 繁栄の礎には、必ず払われる犠牲がある。

 それを他者に強要して良いのか。よしんば他者がそれを受け入れてくれたとしても、果たして本当に間違いではないのか。美しく気高い理想の為ならば、全てやむを得ないと割り切れるのか。きっとこれが正しい、最善の道であるからと胸を張れるのか。

 犠牲になる人間は、目指したその世界には辿り着けないかもしれないのに。

 正しいはずのその世界で笑っているのは、なに一つ痛くなかった人間たちだけかもしれないのに。


 大宮から投げかけられた警鐘は、深くフレイの胸に突き刺さった。

 あまりにも深すぎて、生涯これは抜けない楔になる。そんな予感が押し寄せる。

「理想郷は、……遠いな。いや、違う。遠いことは間違いなく分かっていた。自分が痛いのも傷付くのも上等だった。でも、守るべき存在……守りたい相手がそうなると言われたら、俺は」

 そこで一度区切る。

 圧し掛かってくる紛れもない重圧に、胸の底がただ冷えた。

「珍しいな。フレイが弱気になるなんて」

「弱気、か……分からん。それなら頬でも張ってもらえば正気に戻れそうだが」

「後ろめたさがあるのか」

 アンリから掛けられた一言で、フレイはその感情に初めて気がついた。

 あまり饒舌ではない相棒の言葉はいつも重い。フレイは頬を歪めて、苦い笑みを漏らした。

「そうかも知れん。今思えば、ほぼ無理矢理に連れてきたようなもんだ」

「人攫いか?」

「そう呼んでもいいかもな」

 フレイはそこで項垂れた。


 優しい彼女は、旅立ちの理由を彼女自身に置いた。

 今にも泣き出しそうな顔で、少しだけ震える声で、酷薄さを装って彼女自身の身勝手さを口に出した。

 優しい嘘だった。

 本当は、彼女は独りで往って良かった。お前たちの勝手な都合など知ったことかと、この手を振り払う権利があった。濡れ衣を着せられ世界から排斥された一族、その末裔。最後の一人になった彼女はむしろ、そうすべきだった。

 それをその境遇につけこんで平穏から引きずり出したのは自分だ。

 命に代えても守る気概はある。

 だが「必ず傷付く」と予言されれば、迷いが出る。不遇な彼女を、せめてそうではない世界へ連れ出したかった。出来ることなら幸せにしてやりたい。けれどそれだけでは済まないことを、自分は是としていいのか。

 それなのに、ではあのまま彼女を放逐できたのかと問われると、絶対に頷けない自分がいるのだ。


 無言の部屋の中に嵐の音が時折響く。

 吹き抜ける風、ばらばらと叩きつける雨粒。耳を傾けていると、ややあってふとアンリが口を開いた。

「過程はどうあれアリシアはついて来てくれた。今は彼女を信じるしかないだろう」

「分かっている。分かっていて尚、俺は彼女を傷付けたくないんだ。こんなになにかを怖いと思うのは、……初陣以来か」

 あの日、僅かに震えたこの手。

 それを明かしたのは他でもない今目の前にいる親友だけだった。こういう自分の弱さを最後に口にしたのはいつだっただろうか。

 誰かを損なうことをこれほど怖いと思ったことなどかつて無かった。

 自分の中のなにが変わったのかが分からないまま、フレイはアンリへと視線を投げる。すると彼は僅かな驚きを滲ませた顔で、フレイを見てきた。

 そんな顔を向けられる理由が思いつかない。

 怪訝に思って眉を潜めたフレイに対し、アンリが不意に「一つだけ」と呟いた。

「フレイのそれは、人間として必要な感情だ。同時に、ゴルガソス国軍の大佐としてある以上持ってはならない感情でもある」

「やはり許されないことか? たった一人を、だなんて」

 国軍の竜騎士として生きる限り、自分たちは公僕なのだ。国民全体、国を最優先にしなければならないわけで、そこにいかなる私情も挟んではいけない。

 それはゴルガソスの軍人として最初に叩き込まれる絶対原則だった。

「……彼女のことは守る。お前がどんな風でも」

 その為に、自分は表舞台から下りてこの分隊を組織した。

 静かに続いたアンリの言葉に、フレイは忘れ得ぬあの日をまた思い返した。一体今まで何度、この寡黙な親友に支えられてきたことだろうか。自分が地位を持つばかりに上手くできないことを、いつも事も無げに助けてくれる。そうすることで、周りから様々な、決して好意的にはとれないような言葉を浴びせられることもあったというのに。

「結局、頼もしいよな。いつだって」

「茶化すな」

「ありがとう、……な」

 言葉の終わりは掠れてしまった。

 いつもこうなのだ。

 アンリよりも強い人間をフレイは知らない。いつだってこの親友は、一番困難なことを無条件で請け負うのだ。そういう彼こそが、本当は自分より誰より陽の当たる場所にいるべきであるのに。

 強い憤りが胸の内で渦巻く。

 しかしそれらを適切な言葉に変えられないまま、フレイは口を真一文字に引き結んだ。

「前だけ向いていろ。立ち止まるな。普通の人間には為し得ないことをフレイは目指しているんだろう。色々なことがあったが、それでもお前は諦めずにここまで来た。お前がそうして在る限り、俺にできることはなんでもやってやる。だからお前は目指すものを追えばいい」

 なあ、フレイ、と名を呼ばれる。

 返せたのは目線だけだった。

「これから先、お前がもしも道を踏み外した時は、――俺があの時みたいに殴ってやるから」

 痛すぎる過去を、これもまた何でもない風でアンリが言う。

 その強さを眩しく思いながら、同時に己の不明さを今尚恥じながら、それでもこの目だけは逸らすまいと踏み留まる。

「二度目は……そうだな、御免だ」

「俺もさ」

 また事も無げに言ったアンリが小さく笑う。

 幼い頃の面影を残したままの笑顔に、フレイもまた頬を緩めた。


*     *     *     *


 木で造られた廊を歩くと、時折ぎしりと軋む音がした。

 それが妙に耳障りで、ノルズは顔を顰める。夜更けに人の気配はないが、ぽつりぽつりと灯りが置かれていて視界は確保されている。真っ直ぐ続く廊の向こうは左右に分かれていて、どちらに行けば誰にも見咎められずに済むだろう。

 考えながら、ノルズは左の肩口に指先を這わせた。途端、

「っ……!」

 ビリ、と強い痺れが襲ってくる。

 短刀が突き刺さったこの傷口。最初は痛みだけだったものが、時間と共に違和感が出てきて、今や痺れが肩のみならず二の腕と鎖骨あたりまで広がっていた。触れば冷たく、じっとりと汗をかいている。早めに休んだのは良いが、これのせいで眠りから覚めてしまった。

 まるで自分の身体ではないような不快感に目が冴え、再び寝ようにも寝付けなかった。

 灯りを落としていた室内では先輩騎士のトラヴィスが休んでいた。寝返りを打つ度に響く衣擦れが気になり、結果、ノルズはこうして御殿の中を歩いている。

 歩きながら、この痺れは全身に広がるのか、と考える。

 おそらく毒の類なのだろうが、悪ければ死ぬか、あるいは麻痺が残るかもしれない。あまり有難くないはずの想像だったがしかし、存外に胸中は落ち着いていた。

 その理由に意識を向けた時、ふと遠くから足音が聞こえてきた。

 ノルズが視線を上げると、廊の奥から姿を見せたのは赤朽葉色の狩衣をまとった貴人だった。

「……秋宮?」

 夜に落とされた灯りの中だが、赤が鮮やかに浮かび上がる。

 名を呼ばれた秋宮が、「良かった」と言いながら頬を緩めた。

「もうお休みかと思っていましたが」

「いえ、その……休んだのですが、どうにも寝付けませんでしたので、少し気分転換をしようかと」

「肩の痺れでしょう」

 ぴたりと言い当てられたことに対し、ノルズはすぐに返事ができなかった。

 なぜ分かる。

 疑念が渦巻く。出会った時に身に付けていた制服は確かに血で汚れていた。怪我をしていることは知れただろうが、しかしその傷が痺れるかどうかなどノルズ本人以外には解り得ない。

 秋宮の真意が見えない。

 ここで不用意な一言を放つわけにはいかず、ノルズは口を引き結んだ。

 すると、秋宮が一瞬面食らったように瞬きを二度三度した後、申し訳なさそうな顔になった。

「詰問ではありません。答えの如何であなたやトール大佐を弾ずるわけでもない。あなたの肩の怪我は私の責任によるもので、薬を渡しに来たまでです」

 狩衣の胸元から小さな薬壺が取り出される。

 それを見たノルズは、そこで緊張を解いた。雰囲気が伝わったのか、秋宮は口元を緩め「こちらへ」と言って歩き出した。



 幾つかの渡り廊を通って案内されたのは、小さな部屋だった。

 灯りは多く、昼間ほどではないが相手の表情が良く見える。中には一人の痩せた老人がいて、壁際に並ぶ戸棚からなにかを取り出している。物音に振り返った彼は、ノルズと秋宮の訪いを見て「おや」と白い眉を上げた。

「お早いお戻りで。どうなされましたかな」

「ちょうど行きあってね。それならばおうに診てもらった方が良いと思ってお連れしました」

「左様でしたか」

 眦を緩めた老人が、手にしていた乾いた草や木の実を部屋の中央にある卓に置く。

 その上には秤や小鉢とすりこ木、大小様々な鑷子せっしが並んでいる。名前の分からない器具も多い。壁際は入口以外は全て戸棚で埋め尽くされ、それらは沢山の小さな引き出しがついていた。

 微かに香ばしいような焦げのような、不思議な香りが鼻腔を掠める。

「我が国の医の道における師範です」

 つい物珍しくて視線を巡らせるノルズに対し、横から秋宮が教えてくれる。

 ところが老人は手元の薬草らしきものを手でより分けながら、はて、と首を傾げた。

「その冠はお返ししましたぞ」

「翁。そういうことを言うから、名誉師範にまでなられたでしょう」

 呆れ混じりに秋宮が息を吐く。

 どうやら現役の人間に贈られるのは最高師範という名目だが、それを厭ってさっさと引退してしまったのが目の前にいる御仁らしい。しかしそこは為政者たる大宮が引き留めた。最終的に最高位となる名誉師範の称号を与えられ、仕事も通常の昼間ではなくこうして夜の人目につきづらい刻となったというのが顛末のようだ。

 秋宮が苦笑交じりで軽口を投げると、老人――師範の翁がさも可笑しそうに笑った。

「ほほ。さて、そんなことありましたかいな。爺は忘れましたわ」

「現存する医術書全てが頭に入っている御方に言われても、ですね。それはともかく、お願いできますか」

「おおそうだった。お若いの、――名は?」

 問われ、一瞬だけノルズは躊躇した。

 しかし身構えたとて、絶対に欺いてはならない相手であることは分かっている。日の国の為政者、その血族がこれだけ敬意を表す人間だ。ノルズは隠すことをやめた。

「ノルズ・ヘイスターヴィアと申します。ゴルガソス国軍情報本部、特務課第三室の所属です」

「俗に言う『親衛隊』か。しかも第三竜騎兵連隊長付き。これが動くとなれば、此度の任務は相当に危険性と秘匿性の高いもののようですな」

「……」

「返事は要らぬよ。爺の単なる感想だ。こちらに来なされ」

 翁が手招きをする。

 ノルズは戸惑いを隠せず、秋宮と翁を交互に見た。

 翁は穏やかな表情のまま二の句を継がない。秋宮は真面目な顔のまま、ややあって口を開いた。

「あなたのその肩口の傷。私の配下戦力である『影』によるものです。立場役割的にはあなたの情報本部に近しいですが、しかしそちらほどの力はありません」

 事前にトール大佐から送られた書簡があった為、大宮の指示であのような形になってしまった。

 そう明かした秋宮は、だから傷を負わせることそのものは本意ではなかったのだ、と続けた。

「あくまでも牽制、アリシア様を先に迎える為であって本気で交戦するつもりはありませんでした。とはいえ、やはりトール大佐とその親衛隊ともなれば、あしらうどころかこちらが危なかったわけでして。結果、離脱する為に飛び道具を使わざるを得なかった、と報告を受けたのです」

 その前段があったから、こうして薬を届けに来た、と秋宮が言った。休んでいるようであれば文を添えて部屋の外に置いておくつもりで、と。

「既にお気付きかと思いますが、あの刃には毒が塗られています。致死性はありませんが、解毒しなければ麻痺が残ることもありますので」

「その為だけに、あなたほどの高位の方が?」

 自分など、末端に過ぎない一兵士だ。

 その感情を露わにしたノルズに対し、秋宮が首を横に振った。

「逆です。我々にできる最大限のお詫びとしてお受け取りください」

「……ご厚情痛み入ります。ですが、私には過分すぎて受け取れません」

「竜騎士生命に直結しますよ」

「構いません。本国に帰任したら、国軍を辞すつもりです。いなくなる人間に詫びなど不要です」

 吐露した決心。

 耳にした秋宮が、それと分かるほど驚きを見せた。一方で、師範の翁は静かな面持ちでいる。ノルズを見つめる瞳は、凪いだ水面のようだった。

「なぜです?」

 秋宮が問うてくる。

 それは不思議な間合いで、どこにも重さがなくさらりとしていた。興味本位でも要求でもない。多分、答えなくてもきっとこれ以上追及してはこないのだろう。

 そんな空気を感じ取り、ノルズの方がふと軽くなった。そして、今生で二度と会わない通りすがりの雑談として、今の自分がなにを考えているのかを話してみるのも悪くないかと思った。

「ここにいるのが間違いなような気がしてなりません。自分で選んだ道でしたが、竜騎士にはなれても私は未だに誰のことも守れてはいないので」

 ノルズが竜騎士を目指したのは、幼い頃の経験からだった。


 家族で出かけた時に、護衛に来てくれた国軍の竜騎士がいた。

 彼の名前も顔ももう思い出せないが、槍を握る手が大きく温かく、その背中がなによりも揺るがぬ強さを滲ませていたことを覚えている。

 目的地に行く途中で魔獣に襲われたのだが、その竜騎士は一撃で薙ぎ払い、ノルズ達に近寄らせもしなかった。

 その強さに憧れた。いつか自分も誰かを守れる人間でありたいと、そう思った。

 ノルズ自身は優秀ではなかった。

 物を学ぶのは好きだったが、まず竜騎士になる為に何よりも先に求められる身体能力は、目立って高いわけではなかった。それでもどうしても諦めきれず、本当に血の滲むような努力をしてきた。

 両親は揃って猛反対したが、それを振り切ってまで入った国軍。

 それなのに、夢を実現した今でも本物にはなれていない。自分は未だに上官に守られてる上に、守るべき人を目の前で見失った。力の及ばなさが歴然としすぎて、もはや誰にも合わせる顔がない。

 足手まといになることは早晩分かっていた。

 ならば真に取り返しがつかない失態を犯す前に、見切りをつけた方がいい。


「ですから、どうあれもう構わないのです」

「仮に国軍を辞めたとしても、あなたはヘイスターヴィア家の直系なのではありませんか」

 やはり知らないわけがなかったか、と内心でノルズは呟いた。

 家名を名乗れば出自は知れる。

 ゴルガソス北部のライトス地方を古くから治めてきた一族だ。ゴルガソス建国当初から存在する九旧家のうちの一角で、傍系は多いが、ヘイスターヴィアを名乗れる人間は数えるほどしかいない。その中にあってこの年齢と性別を鑑みれば、自ずと答えは分かってしまう。

 秋宮は「直系」とぼかしたが、それはおそらく彼の人の配慮なのだ。

「――それこそ今さらです。確かに私は嫡男で次期当主ですが、この目のせいで出自に疑念がつきまとっていますから」

 純粋なライトスの灰色ではなく、緑が混じった紛いもの。

 身体に流れているのは不適格の血ではないのかと、生まれた時からずっと陰に日向に疑われてきた。だがその疑いは、ノルズにはどうしようもない過去の話だ。

「そういうわけで、自分の身体を気に掛ける必要はありません」

 言い終えた後、ノルズは笑った。

 だが秋宮は笑わなかった。師範の翁も同じだったが、彼はそれから立ち上がり、ゆっくりとノルズに歩み寄ってきた。

 無言のまま、前の合わせに手をかけて紐を解く。衣擦れの音と共に借りていた衣の上衣が緩められ、ノルズの肩口が晒された。

 翁の手がそっと傷口の周りに触れる。

 冷たく痺れているはずのそこはしかし、翁の手の温かさを感じた。その手を払い除ける強い理由もなく、ただノルズはぼんやりと翁の様子を眺めていた。

「さすが、平素鍛えているだけのことはある。血の流れが良い。既に回復傾向だな」

 独り言のように呟きながら、翁が薬壺に手を伸ばす。

 中から薄い白色の軟膏を取り、それを傷口にそっと置いて塗り伸ばす。触れるか触れないか、そういう気遣いの滲む動きだった。

 全てが終わり、清潔な布を当てられる。

 手際よく肩に巻かれていく包帯を眺めながら、ノルズは「ありがとうございます」と呟いた。するとなにがおかしかったのか、翁がかか、と笑った。

「お若いの、育ちの良さは折り紙つきだな。この爺を見倣って、もう少し自由に生きていいと思うぞ」

「翁はさすがに自由が過ぎますがね」

 卓の上の片付けを手伝いながら、秋宮が首を傾げている。それを聞いた翁はまた楽しそうに笑った。

 二人の様子に面食らったのはノルズの方だった。

 自身の事情を明かせば大抵は説き伏せられるか説教だ。しかし彼らはそうではない。それがノルズを素直にさせた。

「……踏み込まずにいてくれるのですね」

 偽りない本心だった。

 それ以上をどう伝えれば良いか、言葉を見つけられなかった。黙り込んだノルズに対し、ややあってから秋宮が「誰も苦しまぬ世などありませんから」と言った。


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