42.ぎこちない約束と下手くそな笑顔
昼食に呼ばれた席は、アリシアとフレイたちだけだった。
疲れているところに気を張るのも良くないだろうから、と大宮の気遣いを貰った形だ。
食事場所として通された小さな御殿の中、開け放たれた木戸の向こうには美しい池が見える。驚いたのはこの御殿がその池の上に建てられていることで、縁に座ると下を悠々と泳ぐ艶やかな魚たちを見下ろせた。
給仕の女官が部屋の隅に控える中、五人でゆっくりと食事をとる。
たわいもない話をしてくれるのはトラヴィスで、それに返すのがフレイだ。アンリはいつもどおり、聞き役に徹している。その隣に座るノルズは当たり障りなく頷いたり相槌を打ったりしているが、その表情はずっと沈んでいた。
アリシアがずっと窺っていると、時折ノルズと目が合った。
その度にアリシアは話しかけようとしたが、先に視線を外されてしまい、叶わなかった。徹夜で疲れているであろうことを差し引いても、明らかに避けられている動きだった。
胃の腑が落ち込む。
しかし結局、直接話す隙は無いまま、表面上はなにごともなく食事は終わった。
その後、フレイとアンリは大宮との謁見の他に日の国の調査があるらしく出て行ってしまったが、アリシアは休むことになった。
三日後にはゴルガソスへ発つ。
首の怪我と昨夜の徹夜もあり、出来る限り体力回復に努めるように、とフレイから厳命されてしまったのだ。
護衛としてはトラヴィスとノルズが残された。
彼らは部屋の外で控えてくれている。部屋の中はアリシア一人で、静かだった。
まずは眠ろうと寝台に横たわる。
身体は間違いなく疲れていたが、しかし眠気は一向に来なかった。
アリシアはずっと考えていた。
なぜノルズはゴルガソス国軍を辞めようとしているのかを。
実はアリシアと出会う前から、なんらかの理由があってその決意を秘めていたのか。だがそんな素振りは少なくともファティマスを発つまで、もっと言うなら日の国に着くまでは無かった、と思う。
では日の国に来てからなにかがあったのか。
だがそれも記憶している限りは無かったはずだ。
残るははぐれてしまっていた間だ。
アリシアが大鷲にさらわれ、一人で成人の儀に挑んでいた時間で、誰かがノルズになにかをしたのか。
フレイたちではおそらくない。すると、日の国の誰かか。だがこれまで接触したことさえない相手に、精神上どんな致命傷を与えられるだろうか。
考えるだに分からない。
しかしそこで、不意に一つの閃きが頭に浮かんだ。
もしかして、自分のせいか。
思い至り、これまで考えたどんな可能性よりも断然あり得る、と胸が冷えた。
そうだ、あの影と戦った時。
アリシアを狙って投げられた短刀。それをノルズは身体を張って止めてくれた。
あれが続くのなら、命が幾つあっても足りない。誰だって無駄死になどしたくないに決まっている。まして市井から羨望の的である竜騎士となる為に、彼がどれだけの努力をしてきたことか。
アリシアがノルズたち竜騎士よりも戦闘能力に劣ることは事実だ。
それはどれだけ頑張っても覆せない。
つまりアリシアを護衛する限り常に危険がつきまとうわけで、それを命令とはいえ無理強いされれば辞めたくなってもおかしくはない。
そうだ、自分のせいだ。
結論が出れば、居ても立ってもいられなかった。
アリシアは掛布を跳ね除け、勢い良く起き上がり、そのまま一直線に扉へと向かう。
力任せに横開きのそれを開けると、スパン、と小気味良い音が響いた。
扉の両端に座っていたトラヴィスとノルズが、驚きも露わに見上げてくる。
「アリシア? どうし」
「ノルズ。どうしても話したいことがあるから来てくれる?」
「え」
捲し立てたアリシアに対し、ノルズが固まった。
その隙に彼の右腕を掴み、立ち上がらせる。
「いいですか? トラヴィスさん」
「構いませんよ」
「トラヴィス!?」
毛ほども動じていないトラヴィスに、ノルズが驚きの視線を送る。
「この御殿の庭園内であればどこでもどうぞ」
「ありがとうございます、ちょっと行ってきます。来てノルズ」
「えっ、ちょっとアリシア!?」
慌てるノルズを有無を言わせず引っ張りながら、アリシアは御殿の階を小走りで下りた。
ノルズの右手首を掴んで引きながら、アリシアは庭園を歩いた。
フレイたちほどの身長はないが、それでも回した指は届かない。この強い腕を必要としている人は、きっとゴルガソス本国に数多いるだろう。その人たちの為に、ノルズは生きるべきだった。
設えられていた東屋を見つけ、そこに行き向かい合う。
彼の手首を掴んだままで。
「アリシア? 話って」
ノルズが戸惑いを隠さない。それでも彼はアリシアの手を振り払わなかった。
一瞬だけ考えてから、アリシアは単刀直入に切り出した。
「国軍、辞めてしまうの?」
「……なんでそれ」
「やっぱり。『そんなことないよ』とは言わないのね」
自分で水を向けたことではありながら、それでも痛くなって唇を噛み締める。
ここで微笑むなんてできなかった。
「ねえ、辞めるなんて言わないで。ノルズの怪我のことは、今さら謝っても取り返しはつかないけど。でも先のことならきっとどうにかできると思うの。フレイにお願いして、私の護衛からノルズを外してもらったらどうかなって。そうしたらノルズが余計な怪我をすることは無くなると思うし、他に沢山の人を助けてあげられるでしょ? フレイたちにはやっぱり迷惑かけてしまうけど、ベルスもいるし、私ももっと訓練してまともに戦えるように頑張るから。私が離れるから。だからノルズは国軍を辞めないで」
気付けば必死になりすぎて、ノルズの両腕に取り縋っていた。
「ちょ、ちょっと待ってアリシア」
「嫌、待たない」
「えっそんな」
「怪我のこと、本当にごめんなさい。謝っても謝りきれないけど」
「怪我って」
「肩口の。私を庇ってくれた時についた傷」
ノルズの相応に逞しい肩に視線を投げると、つられたようにノルズがそれを目で追った。
「……ねえアリシア、やっぱり待ってほしいんだ」
先ほどまで少し上擦っていた声が、落ち着きを取り戻していた。
それと同時、ノルズの手首がアリシアの手の中からするりと抜けていく。向きを変えて捻っただけで、簡単に外されてしまったらしい。
どんなに取り縋っても、竜騎士たる彼がその気になれば、引き止めることはできない。
その事実にアリシアは唇を噛んだ。
しかし、ノルズはそこで逃げなかった。
外した手で、今度はアリシアの両肩を掴んできた。
「とりあえず、確かに僕は国軍を辞めようかと思ってるけど、それはアリシアのせいじゃない。アリシアを守りたくなくてとか、そのせいで傷を負うのが嫌だとか、そういうのじゃない。絶対に」
腕一本の距離で仰ぎ見るノルズの灰と緑の瞳は、真っ直ぐにアリシアを捉えていた。
「というかその、むしろ逆で」
「……逆?」
「うん。君に迷惑だと思ったんだよ」
「え、……そっち?」
「そっちも何もないって……なんで君が僕に対して罪悪感を抱くんだよ、そんなの爪の先ほども感じなくていいよ」
と、真剣な表情が一転、ノルズが眉を困らせた。
「あー……うん。分かってない顔だよね。ええと、何から説明したらいいかな……」
今やノルズは完全に進退窮まった顔をしていた。
一方でアリシアはと言えば、話が想定外の方向に進んだせいで、まともに相槌も打てなかった。
ノルズが何を言っているのか、理解に時間がかかっている。口を噤んだまま固まっていると、肩に乗せられていたノルズの手がそっと離れていった。
「僕はね、元々国軍の中でもさして優秀な方じゃないんだ。体格に恵まれてるわけでもないし、身体能力が特別高いわけでもない。それでも竜騎士になったのは、小さい頃に僕を魔獣から助けてくれた竜騎士がいて、その人に憧れたからなんだよ」
かつてノルズを救ったというその竜騎士は、本当に戦神のごとき強さだったらしい。
振り向かなかった背。
槍を構えて立つあの長身は、今でも脳裏に焼き付いて離れない、そうノルズは言った。
「あの人みたいに誰かを守れるようにずっとなりたくてさ。でも、……士官学校を卒業して二年にもなるのに、本国ではいつもトール大佐やバーノン副官に守られてて。初めての国外任務も、結局自分のせいで副官たちは重傷を負わされて……正直向いてないんだろうなってずっと考えてた。そんな時にさ、自分が弱かったせいで君のことまで危険に晒したんだ。これ以上言い訳なんかできるはずがない。君は無事だったけどそれはただの結果論で、たまたま運が良かっただけさ」
丁寧な言葉遣いであるのに、最後は吐き捨てるようだった。
ノルズが一瞬だけ視線を外す。
引き結ばれた口元には、悔恨や苦さ、やりきれなさが滲んでいた。
しかしそれを隠すように、彼はすぐに視線を戻して小さく笑った。
「君は、――希望なんだよ」
戦いや争いばかりのどうしようもないこの世界の中で、とノルズが呟いた。
その頬は確かに緩められているのに、まるで泣いているように見えた。
「どうしようもないんだ。僕らも、この世界も、本当にどうしようもない。それでも、トール大佐が先を見てるんだ。あの人がどんな未来を描いているのかは僕には想像もつかないけど、一つだけ分かるのはそこに君が絶対にいなきゃいけないんだってことだよ」
だから弱い自分は傍にいない方がいい。
ゴルガソス本国に戻れば、他に強い竜騎士はいくらでもいる。望むべき未来のために離れるべきだ、そうノルズは言った。
黙って耳を傾けていたアリシアは、胸の内にこみ上げる感情を表す言葉を探した。
探して探して、一つだけ見つけた。
酷く寂しかった。
寂しくて寂しくて、話そうとした唇が震えた。
「……あなたも一緒に来てよ」
語尾は掠れた。
「私は誰も置いていきたくなんてない。忘れたくもない。誰かを切り捨て続けて辿り着いた先に、未来も楽園もないよ。知ってるでしょ?」
自分は、自分たち竜の一族は、かつて世界から切り捨てられた。そうすれば世界は良くなるという確信の下に。
その世界は来たのか。
問いへの答えは既に出ている。他でもないノルズ自身が今まさに、自分たちが生きるこの世界を「どうしようもない」と吐き捨てた。
「離れていかないでよ。あなたが一緒にいてくれないなら、私はゴルガソスには行かない」
「アリシア、それは駄目だ」
「なにが駄目なの? 強いか弱いか、自信があるかないかを理由にしていいなら、私だって弱いし自信もない」
「僕と君じゃあ立場が違いすぎるよ」
「それがどこで逆転するかなんてそれこそ分からないでしょ? 私を見てよ。死ぬべきだって言われた人間が、今は希望なんて言われてるのよ? これ以上の振れ幅があると思う?」
「う……」
ノルズが詰まった。
「私は弱いけど、強くなれるように努力するから。自信もないけど、いつか胸を張れるように頑張るから。だから、ねえ。私が世界に必要だと思うなら、私はノルズにいてほしいから、だから一緒に来て」
期待に応えられるかどうかなど分からない。今この瞬間でさえ不安しかない。
それでも頑張ってみるから。
思い浮かぶ限りの言葉を並べたアリシアは、そこでもう一度ノルズの手首を掴んだ。
お願い、と。
呟きながらアリシアが窺うと、ノルズが無言のまま掴まれた手首を見つめていた。
風が吹く。
アリシアの髪が少しなびいて、ノルズの制服の裾が揺れた。
「――分かった」
言葉と共に、今度はアリシアの手首が掴まれた。
硬い掌からは穏やかな体温が伝わってきた。
「君と一緒に行くよ」
ノルズが笑った。
それはすごく小さくて、ともすれば泣き出しそうで、不器用でぎこちない、でも優しい笑顔だった。
等身大の彼に、初めて逢えた瞬間だった。
「僕はさ、トール大佐みたいに強くないし、バーノン副官ほど冷静にもなれないけど、……君の傍にいるよ。国軍は辞めない。どんなに無様でも君を一人にしないって約束する」
「……ありがとう」
アリシアは笑ったはずだった。
けれど頬が少しだけ濡れた。
悲しい時ではなくて、嬉しい時にも涙が零れるのだと知った瞬間だった。
アリシアもノルズも、下手くそな笑顔だった。
* * * *
それから三日間の滞在で、アリシアは身体を休めながらも大宮そして四季たちと交流を深めた。
様々なことを教えられた。
小さなこの国は自然と人の心が豊かで、穏やかな暮らしを営んでいた。
民は宮家の人々を敬い、存在する全てに神の存在を認め祀り、慎ましやかに、けれど勤勉に日々の糧を得る為に働いていた。その一方で、ここ宮家の人々は民を大切に、第一に考えて政を行っていた。
世界中、どこであってもこんな風に在れば良いのに、とアリシアは胸の内でそっと思った。
あっという間に日々は過ぎ、出立前夜となった。
旅路の餞に、その日の夜にアリシアたちは晩餐に招かれた。
ところが、思い描いていたそれとは趣が随分と異なっていて、アリシアは最初から面食らうこととなった。
本で読んだ晩餐会は、長テーブルに一人一人の椅子席が定められていた。
それがここ日の国では椅子はなく、各人の前に美しく色とりどりに装われた料理が並べられている。大広間に設えられた晩餐は、最初こそ至極真面目な雰囲気で始まったが、酒が入りしばらく経った今は賑やかな宴席と化していた。
とりあえず、目の前でノルズが冬宮に質問攻めにされている。
末娘だという冬宮は、年の近い異国人である彼に興味津々らしく、ゴルガソスの衣食住や習慣、気候風土から地理のほか、経済や各都市の役割など多岐に亘るあれこれを訊きながら、さらにノルズ自身の士官学校時代の話や国軍における任務内容まで深掘りしている。
博識だ。
受けるノルズなどは「なぜそんなことまでご存じなのですか!?」と悲鳴に近い叫びを上げつつ、必死に全て答えている。とはいえ、話の半分以上が分からないアリシアにとって、質問全てを打ち返しているノルズはノルズで凄いとしか思えないのだが。
そんな二人を穏やかにほほ笑みながら眺めている春宮と、その隣にはトラヴィスがいる。
こちらはどちらも大変優雅な所作で食事を楽しみつつ、本当に「嗜む」という言葉が良く合う形で談笑している。
彼らは気付けば手元に木製の盤を置き、その上で交互に駒を動かしていた。いつの間に、と驚く。盤上遊戯の一つらしいがアリシアは見たことがない。日の国のもののようで春宮が説明をしつつだが、一通り聞いたトラヴィスはまるで昔から知っていたかのように慣れた手付きで春宮の駒を取っていた。
ふと目を転じる。
その先では大宮と夏宮、秋宮の三人が、フレイの杯に代わる代わる酒を注いでいた。
それを一度も断らず、さながら水のようにフレイが飲み干していく。何杯飲んでも顔色は一切変わらず、話す様子もいつもと変わらない。返杯される夏宮はいつしか顔が真っ赤に変わっていた。
隣に座るアンリはそこまで早くはないが、それでも少なくない数の酌を受けている。
そして彼もまた、ほとんど顔色に変化がない。ほんの僅か、頬に朱が走っているだろうか。いや見間違いかもしれない、くらいに微細な違いだ。その横にいる秋宮は率先して飲んではいなかったが、それでも頬が上気している。
果たして酒とはこういうものだっただろうか。
あるいは、日の国のそれが、軽い飲み口のものばかりなのか。
ちょうど成人した時に初めて口をつけた酒の味を思い出しながら、アリシアは首を捻った。
当たり前だが飲み慣れていなかった当時のアリシアは、たった一杯で目を回して酔い潰れたのだ。あれ以来、たとえば新年祝いや誰かの誕生祝いなどで申し訳程度に舐めるくらいだったのだが、目の前の二人を見ていると、なんだか自分も日の国の酒ならばそれなりに飲めそうな気がしてくる。
なみなみと注がれた手元の杯を、じ、と見る。
口をそっとつけると少し甘い酒精の香りが漂い、苦味も少なくするりと喉を通っていった。
おいしいな、と思う。
周りの話に耳を傾けながら飲んでいると、気付いた夏宮と秋宮が注いでくれた。ありがたく受けて、少しだけ脈拍が早く、体温も高くなっていることを感じながら、楽しいひと時は瞬く間に過ぎていった。
後悔したのは、宴が終わって立ち上がった時だった。
血の気が引く。
次に視界がぐるりと回って、それまでのほろ酔いが一転、アリシアは激しい動悸と倦怠感に襲われた。
「アリシア?」
咄嗟にしゃがみ込んだアリシアに対し、すぐさまアンリが気付いて声を掛けてくる。
大丈夫、と言おうにも声が出ない。
息をするだけで精一杯だ。
気分が悪いか、というアンリの問いには、何度か力なく首を横に振るしかできなかった。
「純度の高い種類をお出ししたのですが、裏目に出てしまいましたね……」
秋宮が申し訳なさそうに言う。
アンリがアリシアの背をそっとさすってくる。周囲に人が集まる気配がして、瞑っていた目を開けると、目の前には心配そうにこちらを覗き込んできているフレイがいた。
目が合う。
フレイはまったく何の変化もない。酔うどころか顔色も変わっていない。そんな彼を見て、自分の身体はなんて脆弱なのだろう、と心底アリシアはがっかりした。
「だって、……フレイが沢山飲んでたから」
いけると思ったのだ。きっと、軽くて飲みやすい酒なのだろうと。
かろうじてアリシアがそう零すと、なぜかフレイが「あー……」と歯切れの悪い反応を寄越してきた。隣で聞いていたアンリが首を横に振って、それから「いいかアリシア」と始まった。
「フレイを指標にしたら駄目だ。フレイは『枠』だから、規格外というか……別の生き物だと思った方がいい」
「枠ってなに……」
「フレイにとって、酒はほぼ水と同じだ」
「嘘でしょ……」
回る視界の中、アリシアは膝に額を押し付ける。
そんなことがあっていいのだろうか。いや駄目だと思う。というかそんなに酒に強い人間が存在するだなんて、あっていいのか。もう良く分からない。
「これは俺が責任を取るべきだな」
項垂れているアリシアの頭上から、そんな声が聞こえた。
「え、……えっ!?」
なにをどうと認識する間もなく、浮遊感に包まれる。
気付けば目の前にフレイの顔があり、その近さに思考が止まる。規則的な律動が身体に響いてきて、ややあってフレイがアリシアを膝抱きにした状態で歩いているのだと知れた。
「やめ、え、重いのに……!」
「むしろ逆だな。もう少し食べた方がいいんじゃないか」
見下ろしてくるフレイは至極真面目な顔をしている。
確かに、全く危なげなくアリシアは運ばれている。身体を捩ろうにもしっかり抱きかかえられており、そんな隙は一切なかった。
距離の近さに心臓が跳ね上がる。
このまま行けば、御殿の寝所に帰り着く前に緊張で窒息してしまいそうだ。
「あの、下ろして」
「却下だな」
歩くどころか立ち上がれもしないのに? と、返されてしまう。
何度か降りて歩くことを交渉するも、叶わなかった。そうこうするうちに御殿に到着し、そこでようやくアリシアはフレイの腕から解放されたのだった。
* * * *
翌日、出立の日は晴れていた。
上陸した時と同じ海岸に行くと、かなり大きな船が停泊していた。正確に言うと本船は沖合いにあり、小船が海岸まで迎えに来ている。
桟橋には数人の武装した兵士たちがいた。
制服をきているがフレイたちと違うところを見ると、竜騎士ではなく一般の兵なのだろう。その内の一人が直立不動で敬礼をしながら、フレイに何事かを伝えている。その距離感がアンリたちとは全く違い、見慣れないその光景にアリシアは目を瞬いた。
先にトラヴィスが桟橋を渡り、小船に乗り込む。
程なくして彼が本船に乗り込んだことを確認してから、ノルズが「アリシア」と声を掛けてくる。
「それじゃあ預かるよ」
「ええ。宜しくお願いします」
「うん。さあベルス、先に行こう」
穏やかに話しかけながら、ノルズがベルスの背に跨った。
「っと。本当に大きいなあ」
手綱を繰りながらノルズが感嘆する。
言われたことを理解しているのかどうか、ベルスはどこか得意気に翼を広げ、そして飛び立った。
彼らはそのまま、沖に停泊している本船へと飛んでいく。ゴルガソスの大型船には飛竜を運べるよう特殊な甲板が設えられているらしく、その世話をする専門の飼育員もいるという。ベルスはゴルガソスで使われている飛竜よりも大きく、後方甲板に降りる際に少し注意がいるということで、飼育員への説明も兼ねてノルズがベルスを請け負ってくれたのだった。
小舟などよりよほど早く、ノルズたちは本船へと着いた。
その姿が甲板内に入って見えなくなる。
「問題なく引き継がれたようだ」
本船を注視していたアンリが断じる。フレイも「そうだな」と頷いた。
「あれだけ大きな飛竜だ、ちょっとした騒ぎになってるだろうな。ノルズもあれを初手で乗りこなすとは大したもんだ」
「士官学校時代の騎竜成績首席は伊達じゃないということだ。最下位だった誰かさんとは違って」
「え?」
今なにか、気になることをアンリが喋ったような気がする。
思わずアリシアが二人を見ると、なぜかフレイは聞こえない態で明後日の方を向き、アンリが僅かに肩を竦めた。
首席と最下位。
両者の対比が鮮やか過ぎる。
もしかして、フレイは飛竜に乗るのが苦手なのだろうか。そんな疑問を持ちながら窺ってみたが二人の会話はそこで終わってしまい、詳細は訊けなかった。
ともあれ、残るはアリシアとフレイ、そしてアンリが乗船すれば出航だ。
小船に乗る前に、アリシアは大宮の名代として見送りに来てくれていた四季たちに別れの挨拶をした。
「ありがとうございました。この国に来ることができて、本当に良かったです。いつかまた、会いに来ても良いですか」
「勿論です。私たちは、いつでも――いつまでも、ここにいます。日の国は、始まりの場所であり終わりの場所です。太陽はここから昇り、ここに沈みますから」
春宮が微笑んだ。その言葉の優しさに、ふと涙が出そうになった。
同じことを、日の国に来た時に大宮も言ってくれた。
きっと待っていてくれる、と。
そんな約束をくれる人たちと出逢えたことが、真っ直ぐに嬉しかった。
そっと差し出された手を、躊躇いながらも受ける。
たおやかな春宮の手は滑らかで、彼女は暫時アリシアを無言のまま見つめてきた。
「行先はゴルガソスでしたね」
「はい」
「――悠久の風が大平原を渡る、広く青き国です。絶えず吹く風があなたを守るよう、私共はこの地よりお祈りしております」
「春宮……ありがとうございます」
「同時に」
ふとそこで、春宮の声が僅かに硬くなった。
少しの間の後、彼女は一度アリシアの背後――フレイとアンリ――に視線を投げた後、意を決したように口を開いた。
「ゴルガソスは世界最強の軍事国家であり、十年来の内戦を抱える国でもあります」
「っ、……」
「あなたの往く道は、決して平坦ではないでしょう。戦わねばならぬ時が必ず来ます。その時に、竜の一族として受けた力があなたを守ると同時に、誰かを傷付けることもきっとあるでしょう」
それは竜騎士の持つ槍一本などより余程大きく強い、甚大な力なのだ、と春宮は続けた。
「どうぞ忘れないでください。自分が決めたこと、その信念を貫く為には力が必要です。自分が正しいと信じることを為す時、力無き信念はただの思想に留まります。ですが、――大切なのは、そこに心があることです。人は力のみには従いません。力は誰もが持っているわけではありません。けれど、心は違う。だからこそ、人は人の心に従うのでしょう」
世界から隔絶された日の国。
主要四大陸から遠い地の利を取り、正式な海路も空路も拓かず、どの国とも公な外交関係を持たぬ国。それは、人口も少なく飛竜もいない弱小国が生き残る為の決断だった。
閉ざされた国土で、狭い関係の中で、宮家と民は共に生きてきた。
その長い歴史の中にあって、弱いだけの宮は民から軽んじられ、力にものを言わせた宮は反発を招いた。この小さな国の中でさえ、夥しい血が流されてきた。静かに語った春宮は、そこで僅かに目を伏せる。長く美しい彼女の髪が、海風に吹かれて揺れた。
その後ろ、噴煙をたなびかせる火の山がそびえている。
吹いた海風は麓の森の上を走り、火の花が青い空へと舞い上がった。
「最後にもう一度申し上げます。私共は、あなたの為にここに居続けます。艱難辛苦あれどもそれと等しく長久なる幸せが、どうぞあなたにありますように」
美しい祝詞と共に、春宮の手がゆっくりと離れていった。
万感を胸にアリシアは頭を下げる。
再び顔を上げた時、春宮を始めとする四季の宮たちが皆、アリシアに向けて笑顔を向けてくれていた。彼らの纏う錦は、今日のこの日も日の国の四季を映す鮮やかな衣だった。
「さよなら」
しばしの別れを告げて、アリシアは一番最後に小船に乗り込んだ。それを確認して、兵がゆっくりと船を漕ぎ出す。
何度も後ろを振り返る。そこに豊かな森と、火の山が見えた。
本船についた時、彼らの姿は遥か遠くに小さく見えるだけだった。
* * * *
誘われていく。
遥かなる呼び声に。
その瞳に映るは未来。彼方に見えるは、光か絶望か。
遠く風の国に想いを馳せながら、船は往く。




