胸に巣食う悪意
武仁視点と言いましたね!嘘ですごめんなさい!
結局、私達は研究所で夜を明かした。朝方のひやりとした空気に目を覚ます。
腕をさすりながら隣に居る真美ちゃんに目を向ける。すぅ、と穏やかな寝息。
寒さで起きないようにと彼女に自身の上着をかけて、私は寝起きのぼんやりとした頭で辺りを見回す。
あさひくんが説明に使ったホワイトボードはそのまま、彼はそのすぐ近くのソファで眠り込んでいた。
眩しい朝日が、壁同様に真っ白な床に差し込んでいる。光に舞う細かい埃を見ているうちに段々と意識がはっきりしてきた。
眠っている面々を一瞥して、私は部屋を出る。
静かな研究所内を歩きながら昨日の事を思い返す。私達をこんな体にしてしまった桜木研究所。ウイルスをばら撒き、挙句の果てに身体的特徴に差異を持たせた。それは明らかに、この世への宣戦布告だ。
弟は無事だろうか。あの子は繊細だから、こんな世界では生き残れないかもしれない。
パンデミックの渦中に悪意は膨れ上がった。その原因でさえ、禍々しい意図を持っている。海麗ちゃんは生きているだろうか。護ってくれる大人は周囲に居るだろうか。混乱の最中で、人を思いやれる人がいるだろうか。
長い廊下が、不意にぐにゃりと歪んだ。慌てて人差し指を目元に添え、涙を払う。
私だって、昨日は取り乱した。父が、母が死んだ理由がそこにあると知って、頭がカッと熱くなった。感情のコントロールが利かなくなる場面など、いくらでもある。
けれど、その勢いのままに彼に飛びついた事に対しては後悔していた。よくよく考えれば、彼も同じくウイルスに感染した、被害者だ。研究所の悪意を知っていたならば、いくらでも対処法があっただろうに。
それが出来なかったという事はつまり、この事態は研究員達にとっても不測の事態だったという事だ。彼だけを責める事はできない。
うだうだと謝罪の文句を考えているうちに、目的の場所へたどり着いた。大量の血液と、その上に横たわる肉塊。例の掃除屋だ。
むっと鼻をつく生臭さに思わず顔を顰める。一晩経てば嗅覚も多少は元に戻るらしい。鼻と口を手で多い、私は少しずつ肉塊に近づいた。
大きな肉塊は色がくすみ、少し萎んでいるように見える。明らかに生命活動を止めていた。握りしめていた包丁の実感が戻ってくる。
更につぶさに見ようと腰を屈めて、はっと動きを止めた。昨日切り落とした、頭部が無い。途端に全身が総毛立った。
音は、空気の動きは。周囲に気を配りながら姿勢を戻し、左右を見渡した。右手側、遠目に誰かが歩いてくるのが見えて、私は緊張に身を固くした。体格からしておそらくあさひくんだ。
頼むから声も音も出してくれるなと祈って、けれど何も知らない彼は私に駆け寄ってくる。
「雪さ――」
ひゅっと空気が動いた。身を捩りながら振り返れば、タコのようなシルエットになった掃除屋が、もはや目前だった。
「っ!」
肩に取りつかれ、危うく叫び声が口から漏れそうになる。包丁を左手に持ち変え、払うように手前へ振る。
けれど浅い。掠った傷から掃除屋の血液が溢れ出す。しまったとほぞを噛むにも遅く、肩が血液に濡れた。
「動くなよ!」
再度包丁を構えたところで、あさひくんが突っ込んでくる。その勢いに思わず動きを止めれば、彼はくるりと背を向けて鋭い回し蹴りを放った。頬を風がかすめ、鈍い音と共に掃除屋が肩から剥がれる。壁に叩きつけられた掃除屋は血を引きながら床へ落ちた。
追い討ちのようにあさひくんが掃除屋の頭部を踏み潰し、くるりとこちらを振り返った。
「雪さん、平気? 早く服脱いで」
「え、えぇ」
肩は既にじくじくと痛み始めている。すぐに背を向けた彼に頷いて、服に手をかける。
掃除屋も、あさひくんも、何故こうも顔面を狙うのだろう。咄嗟に頭を傾けなければ蹴り飛ばされていたのは私の顔面だった。
小さく息をつき、血に濡れていない方の腕を先に出そうと袖を引っ張るが、どれだけ注意を払っていても擦れて痛む。
「……手伝うことある?」
見兼ねたらしいあさひくんが遠慮がちに申し出るのに苦笑する。私の中では、昨日のわだかまりが未だに燻っているのに、頼っても良いと思えてしまうのが悔しかった。
「ちょっとお願いしようかしら」
彼に肩を向け、首元から裂いてもらうように頼む。下着のストラップ部分が食いこんで痛くて仕方がない。
「……あさひくん、昨日はごめんなさい」
痛みから意識を逸らしつつ、絞り出すように言う。考えに考えたのに、こんな一言で収まってしまった。けれどあさひくんは、静かに首を振る。
「気にしてない。謝るのは俺の方だし」
「でも貴方も感染した。……ねぇこのパンデミックは桜木研究所が計画立てて実行した事なの?」
ビリっと首元で音が鳴った。簡単に布を裂いた彼は、上腕の辺りまでそれを広げる。
少しの沈黙の後、彼はやはり首を振った。
「分からない。ただ一つ言えるのは、このパンデミックは研究員総意で起こされたものじゃない。岡部も、俺も――可能性があるとは分かっていたけど――ウイルスの散布は事前に知らされなかった」
もう良いかと問われて、私は頷く。これならば腰の方へ下げる形で脱げる。
「ありがとう」
彼が軽く頷いた、その時だった。耳をつんざく銃声。廊下に響く余韻も待たず、悲鳴のような、掠れた怒声が耳朶を打つ。
「雪さんから離れて!」
大声を出し慣れていないとすぐに分かる、悲痛な叫びを持った真美ちゃんの声に、私は怪訝に眉を寄せた。あさひくんも同じような表情で、けれどゆっくりと立ち上がって私から離れる。
困惑しながらも、あさひくんの肩越しに廊下の向こうを覗く。銃を構えて近づいてくる真美ちゃんに、息をのんだ。
それはまるで、追い詰められた獣のような。険しい、けれど酷く怯えた表情だった。
「雪さん、こっちに来られますか」
硬く絞るような、聞いているだけで辛くなる声だった。青ざめたその頬に、震える体に、今すぐにでも駆け寄りたくなる。
けれど。
「真美ちゃん、大丈夫よ」
あさひくんは両手を上げ、じっと黙っている。おそらく真美ちゃんは彼が何を言っても聞き入れないだろう。それが分かっているから、ただ身動ぎもせず口を噤んでいるのだ。私も私で、彼女の元へ行けば、あさひくんが悪者になってしまうから動けない。
彼の隣へ立って、私は宥めるように彼女へ語りかける。
「何か勘違いしてる。銃をおろして」
震える銃口をひたと見据えるが、動く気配はない。顔にはっきりとある怯えの色に、私は嘆息した。自分自身にだ。もう少し彼女の話を聞いておけばよかった。
「真美ちゃんが心配してるような事にははなってないわ。これは」
自身の肩を指し、その指を例の掃除屋に向ける。
「掃除屋が飛びかかってきたからよ」
真美ちゃんの瞳が、ようやくこちらを向いた。それに微笑みかけて、私は一歩踏み出す。
「あさひくんはそれを助けてくれただけ」
戸惑うように真美ちゃんは眉を下げた。先程よりも険の抜けた雰囲気。
「でもその、服は」
「血を浴びちゃったから。あさひくんに脱ぐのを手伝ってもらっていたの」
彼女の呼吸が浅く、早くなっている。状況を説明しても銃を下ろさない、つまり彼女は何かを信じきれていない。
やはり彼女の元に向かうしか、と歩みを進めると同時、あさひくんが口を開いた。
「真美ちゃん、俺を信じられないのは良いけどさ。雪さんは怪我してんだよ。こんな事やってる間も痛いわけ」
真美ちゃんの目が見る間に開かれていく。赤い瞳がぐっと暗くなった。頬に朱が差す。
「ちょっと」
今の彼女を責めるような物言いに制止の声を上げる。
「やめて。真美ちゃんは悪くない」
大股で彼女に近づき、射線を遮るように前に立った。見上げる真美ちゃんの顔には少しの混乱が見える。
「ほんとうに、何もされてないんですか」
「えぇ」
にっこり笑って腕を広げる。肩がじくじく痛んで額に汗が浮かぶが、彼女の混乱を抑える方が先だ。
「そう、ですか」
だらりと彼女は腕を下げる。俯いた彼女は意気消沈した様子で、私はくしゃりとその頭を撫でた。
「休憩所に戻りましょ」
掃除屋の血にまみれた服を脱ぎ、精製水の残りで肩を洗い流す。治るまでにはまた時間がかかりそうだ。男性陣は部屋を出たし、遠慮なく肩のストラップもずらす。
処置がひと段落ついた所で、かいがいしく手伝ってくれていた真美ちゃんがぽそりと言う。
「雪さん、本当に何もされてませんよね」
目も合わせないそれに、私は苦笑した。
「されてないされてない。あさひくんは確かに研究者らしいけど、人体実験なんて進んでやるようなタイプじゃ――」
「性的な、ことも? 脅されて、ああ言うしかなかったなんてことも、無いですか」
ふっと顔を上げた、その瞳は濡れていた。まさか、と苦い味が口の中に広がる。
私と彼女の心配は違うのだ。きっとあさひくんも勘違いしていた。
胸がしんと冷える。まだ中学生の子が強姦の心配をした。その可能性を知っていたから。あるいは彼女自身、
堪らず彼女の頭に手を回して、ぎゅっと抱きしめた。聡明だからその危険性に気づけたというには、あの反応は激烈だった。
「? 雪さん?」
そうと知っていれば、岡部はじめと二人きりにもさせなかった。だから真美ちゃんはあの時躊躇ったのだ。
「真美ちゃん、これだけ聞かせて。……男は怖い?」
彼女が息を潜めたのが分かった。言葉に詰まった様子で、しばらくして小さく頷く。
私は心の中でため息をつく。彼女に植え付けられたであろうトラウマは、きっと避難所でのことだろう。もう少し詳しく聞きたいけれど、勘違いから発砲までしてしまうトラウマだ。今この状態で聞くのは良くない事くらい分かる。
「真美ちゃん、安心して。もしあの二人が少しでもそんな素振りを見せたら、包丁で喉元かっきってやるわよぅ」
「そこまではしなくても……?」
身じろぐ彼女を解放すれば、先程よりかは顔色が良くなっていて安堵する。あとは、と私は首を傾げた。
「あさひくんは研究員だけど、それで怖い事はない?」
彼女はあっさりと首を横に振る。
「もう感染しているので、これ以上何が出来るのかなって。ここも電気が止まっているから何もできなさそうだし」
そうね、と私は頷く。研究に対しても度々嫌悪を見せていた彼だ。ここまできて私達を研究材料にしてやろうなんて考えないだろう。
「まぁ、何かあればその時はその時よ。真美ちゃんは私が守るから、安心してね?」
渾身のウィンクを放ってみせると、彼女は珍しく、へにゃりと笑った。




