針千本 3
――いない。
浮かんだ可能性に、さぁっと、血の気が引く。
「どうしよ、間に合わなかったら、」
どこを探してもクワルツさんが居ない。屋上からの避難の時にも出張ってきたクワルツさんだ、居なくてもおかしくはないけれど。
でも、クワルツさんはジェイドさんの見張り役だったはずだ。戸倉さんの見張り役をしている喜田さんだって、駐屯地を離れることはまず無いと言っていた。
だからきっと、どこかには居るはずなのだ。最後に食堂を覗き、中にいる自衛官に声をかけるも、誰一人として居場所を知らない。
膨らむ焦燥に、八木さんがカラカラとスライドケースを振る。
「落ち着けよ。クスリはこれで全部だろ? お前の最悪は、そう短時間じゃ起こんねぇよ」
けど、と歯噛みしていると、前から悠銀が歩いてくるのが見えた。こちらを認めて、あっと口を開く。
「秋、よかった。坂本さんのとこには行ってないよね?」
焦った様子の悠銀に眉を顰める。
「行ったけど」
答えれば、悠銀は心配そうに顔を曇らせた。
「大丈夫だった? 飯村さんが、今は誰とも会わせない方がいいって言ってたから……」
「それっていつ言ってたの?」
悠銀が戸惑った様子で小首を傾げる。
「ついさっき、だけど」
嫌な予感がして、悠銀に詳しく話を聞けば、俺が武仁のところへ行くとクワルツさんへ相談しにいったのだと。
俺は八木さんと顔を見合わせる。
恐らく俺達は入れ違っているのだ。クワルツさんは今、武仁の部屋へ様子を見に行っている。
俺は一も二もなく駆け出した。悠銀の呼び止める声が背後から聞こえたが、応じている暇もない。
今さっき、俺は武仁と約束をした。武仁の恐れている事にはならないようにすると。
それが今、クワルツさんに疑いを向けられたら、武仁はきっと、平静ではいられないだろう。
三ノ輪さんを上手く丸め込んだクワルツさんとはいえ、相手は薬物依存者だ。冷静に話し合える相手じゃない。それは武仁と多少時間を過ごした俺でも認めざるを得ない。
隊舎を出てから、足音が増えていることに気づく。
「……白樺くん! 私も行きます」
目線を横に振れば、くすんだ緑色が見えた。きりっとした黒い瞳と目が合う。
「喜田さん、もしかして、さっきの話」
既にあがった息の合間から聞けば、彼女はしっかりと頷いた。
「ごめんね、聞いてしまって」
さっきの会話を聞いて喜田さんが追いかけてきたということは、武仁の様子がおかしい事がある程度共有されているのだ。
俺は束の間逡巡する。人手は多い方が良いだろうけど、武仁が取り乱したりしないだろうか。
俺は気にしていないことを示すために軽く首を振る。
「来てくれた方が嬉しい、すけど」
僅かにスピードを緩め、喜田さんと横並びになる。
「でも、武仁は自衛隊の人が多いとパニくるかもしれなくて」
屋上で扉の開けられる感染者と対峙した時の事を思い出す。あの時は一瞬取り乱したのに、作戦段階になって急に落ち着いたのだ。むしろ興奮気味だった。
きっとあの時も、武仁は薬を使ったのだろう。気持ちを落ち着かせるために。
恐怖にも打ち勝ててしまうその薬が、今はない。
その事を伝えれば、喜田さんの顔は曇った。
「だから、クワルツさんが居た時は武仁から見えないように居ててほしいんです」
喜田さんは眉を寄せていたが、やがてしっかりと頷いてくれた。
「わかった。居ない場合は私も付き添う。いいですね?」
宿舎へ入り、階段を二段飛ばしに駆け上がる。上がりきった先、廊下に目を向けて、俺はほぞを噛む。
目の前に立つ背の高い人は、クワルツさんだ。対面するのは、武仁の部屋のドア。
何事かと目を向ける彼に、俺は必死に首を振った。何から伝えればいいか分からなかったから、とにかく今している行動を制止するためだった。
訝しげな彼は、俺の名前を呼ぶ。
「――秋くん?」
息を、ひそめるような。そんな間があって、――突如扉が開いた。
その勢いにクワルツさんが身を引いた、その空間にねじ込むように現れた人影は、まるで感染者のようだった。きっと振り向いた顔は怒りで赤く染っている。
「おまえ!」
唸るような怒号と共に、ぐあっと手が伸びてきた。
その手につかまってはいけないと分かっているのに、体が思うように動かない。
「武仁、」
俺は、武仁を裏切った。
「白樺くん!」
聞こえる声も遠く、守るように差し出された腕もやけに遅く見えた。
武仁の握りしめられた拳が眼前に迫り、殴打を覚悟する。けれど次に響いたのはパン、と乾いた音だった。
武仁の向こう側で、銃を構えたクワルツさんが見えた。さぁっと頭の血が下がる感覚。
武仁が足を抑え、その場にうずくまる。俺は喜田さんを押しのけ、彼の元に駆け寄った。
「ダメよ! 何か持ってる!」
ふっと顔をあげた武仁の眼は、充血して真っ赤だった。胸ぐらをつかまれ、手を口に押し当てられる。
「嘘つき」
口に放り込まれた丸い粒は、喉奥へ滑り落ちた。
あ、と別の恐怖に頭が痺れる。今俺が、飲み込んだのは。
クワルツさんが剥ぐようにして俺と武仁を引き離す。
「クソ、クソクソクソ!」
途端に武仁は腕をめちゃくちゃに動かして暴れるが、クワルツさんはいとも簡単に彼を抑え込んだ。組み敷いたその姿勢から、クワルツさんは怒鳴る。
「吐け! 何か飲まされたろ!?」
「で、でも」
吐き方なんて、分からない。それなのに吐くような恐怖が腹の底にたまる。武仁は薬はこれで全てだと言っていたのに。飲まされたのはきっと、薬物だ。俺を道連れにするための。
狼狽えていると、背後から肩を腕一本で抱えられた。
「わりぃな」
苦々しい声。次の瞬間口の中に指を突っ込まれた。ぐ、と舌の根を抑えられ、喉の奥がせりあがる。止める間もなく胃液が上がり、嘔吐した。
鼻の奥につんと酸っぱいにおいが広がり、苦しさで僅かに涙が滲む。
「喜田さん、秋くんに胃洗浄を。それから手の空いた隊員を呼んできてください」
クワルツさんが指示をするその間もずっと、武仁は不明瞭な罵倒を続けていた。人が変わったような武仁が、心の底から、怖かった。
「立てるか」
八木さんに腕を引かれるものの、体が震えて上手く力が入らない。それに、武仁は撃たれたのだ。
その視線に気づいたのか、クワルツさんが短く言う。
「ゴム弾。大丈夫だから」
ふっと、体の力が抜けた。俺は項垂れるように頷いて、八木さんに引っ張られるがまま立ち上がった。
地面がグラグラ揺れている。目の前にチラチラと銀砂が舞った。口の中に苦味と酸っぱさがしつこく残り、再度吐きそうだった。
八木さんに半ば抱えられるようにして階段を降りる。
喜田さんが八木さんに何か言い残して走り去っていく。八木さんが何か話しかけてくれているけど、全く耳に入らない。
全てが遠いところで起こっているようだった。
クワルツさんの来訪に、ようやく隔離も終わりかと、嬉しくなっていたのも束の間。
「……え?」
言われた事が理解できず、呆然と聞き返す。今彼は、なんて。
「秋くんは坂本武仁に薬を飲まされた」
背の高い彼は、座る私に合わせて片膝をついてくれている。ジェイドさんとは少し色味の違う瞳が、気遣わしげにこちらを覗き込んでいた。
「薬って、どういう」
「わからない。坂本くんは覚醒剤を隠し持っていた」
身近には聞かなかった言葉に、血の気が引いた。次々に浮かぶ悪い想像に、クワルツさんはただ、と続けた。
「彼が持っていた覚醒剤と、秋くんが飲まされていた薬の形状は違っていた。……数日間、夕食後にサプリメントを出していただろう?」
必要そうな人には出している、とはるさんは言っていた。
私が頷くと、クワルツさんは少しだけ表情を柔らかくした。
「おそらくそれだろう。武仁くんに渡していた分と良く似ていたし、覚醒剤服用の症状も出ていない。
でも問題は、秋くんのメンタルだ。今は眠っているけれど、相当参っているはずなんだよ」
白樺さんは武仁さんとも調達に出ていたし、仲も良さそうだった。それなのに、薬を飲まされただなんて――裏切られた、だなんて。
悠銀さんに拉致された、とデパートの暗闇に笑っていた白樺さんの顔を思い出す。
武仁さんとは仲が良さそうだったのにと眉を下げれば、クワルツさんは微かに苦笑した。
「海音ちゃんを不安にさせるのは本意じゃないんだけどね。ジェイドが君にも話せって言うから」
「ジェイドさんが?」
小首を傾げる。それは確かに、伝えてもらえないのは嫌だけれど。
「……もしかして励まして、っていう事ですか?」
話の流れからピンときて聞いてみれば、クワルツさんはしっかりと頷いた。
「そう。海音ちゃんの方が俺よりも話を聞けるだろうなんて言ってね。もちろん秋くんの気持ちが最優先だけど、お願いできるかな」
私は束の間逡巡する。きっと励ますなんて大層な事はできないだろう。
でも心配なのは事実だし、隔離が明ければ会いたい人の内の一人なのだ。
断る理由はなかった。
「はい。白樺さんと話せそうなら、すぐにでも」
切れ切れの悪夢をいくつも見た。ドン、ドンと常に胸を強く叩かれているような気がして、苦しかった。
意識だけが浮かび上がるように目が覚めてなお、瞼を持ち上げられない。じわりと喉が痛んで、眠り込む前の事を思い出した。
ただただ貧血のようにグラつく視界の中で、硬いソファーに座らされたのだ。
そこからは地獄だった。水を限界まで流し込まれ、戻しては、また水を飲まされる。確か胃洗浄をする、と言っていたような。
飲んでは吐きを繰り返していくうちに、限界がきたのだろう。眠りに落ちた瞬間は覚えていない。
目が覚めてみれば、チクチクした喉の痛みと胃がじんわりと熱を持っている感覚が強くなる。
苦しく思って小さく咳をすると、きゅ、と手を握られる感じがした。
びっくりして瞼を開くと、飛び込んできたのは薄闇だった。
「目が覚めたか」
声のした方に目をやれば、ジェイドさんがベッドのへりに座っていた。僅かに顔をこちらに向け、手元にはノートが広げられている。
じゃあ自身の手を握っているのは、と反対側をのろりと見やって、俺は思わず呆れのような感情を抱いてしまう。
視線に気づいたジェイドさんが静かに笑った。
「少し前までは起きていたんだがな」
黒髪が、ジェイドさんが点けただろうライトの明かりを受けてきらめいている。ベッドに突っ伏し眠っているらしい彼女の指が、俺の手に柔らかくかかっていた。
この人はいったい、どこまで人を信じるのだろう。茫洋と天井を見る。言いようのない畏れのような、途方もない不安が胸を過ぎった。
俺はこんなにも、人を裏切っているのに。
「……武仁は」
色んな思いで沸騰しそうな胸の内を抑え、囁く声量で聞けば、ジェイドさんは俺を安心させるように低い声で言う。
「別室で眠らせているそうだ」
深く息を吐く。束の間目を閉じた。
「これから、どうなるの」
「薬が抜けるまで隔離するんだと。会えるのは先になりそうだが」
手元のノートを閉じ、ジェイドさんが体ごとこちらへ向ける。
「お前は大丈夫か」
俺は空いている手を額に当てる。ジェイドさんが気遣っているのは体調もあるだろうけど。
「……へーき」
恐れていた事にはならなかった。でも武仁の事は救えなかった。武仁にとっては、薬物を取り上げ、安心させる言葉を吐いただけの嘘つきだ。
これは間違った行動じゃない。ただ最善じゃなかった。
悠銀と絶交したのも、そうだったのだろうか。悠銀の気まずそうな顔と、下がった眉を思い出す。
何を選択しても、自分の力量では正解にならないのかもしれない。
虚しくて、仕方がなかった。左手を、彼女の指からそっと引き抜く。
「そうでもなさそうだ。……海音」
ジェイドさんが柔らかく呼びかけるのに、俺は顔が強ばった。今は一番声を聞きたくない。
「ん……」
聞きたくないのに、戸倉さんは瞼をあげてしまう。俺は咄嗟に布団を頭まで持ち上げて、顔を隠した。
戸倉さんが戸惑うような気配。俺は少し早口で言う。
「いや本当に平気だし。二人ともわざわざ看病してくれてありがとうね。もう大丈夫だから、」
「嘘をつくな」
ぽふ、と額の辺りの布団が柔らかく押される。そのままぐしゃぐしゃと頭を撫でられた。
「わざわざ看病してやってるんだ。弱った姿を見せろ」
「そうですよ」
大真面目な二人に、俺はそろそろと布団から顔を出す。戸倉さんが目の奥に心配をたたえてこちらを覗き込んでいた。
「クワルツさんと八木さんから、大体のお話は聞きました」
彼女の顔を見ていられなくて、そっと目を逸らす。
俺は彼女に対しては間違え続けているのだ、出会う前から、ずっとずっと。
「大丈夫、じゃないですよね」
俺は否定するように小さく首を横に振る。すると彼女は、小さく息を止める間を置いた。
「私は、仲間だから。白樺さんに都合のいい事を言います」
いつか聞いた言葉だ。俺は一つ瞬きをする。
「武仁さんはきっと、白樺さんの事を怒ったりなんかしていませんよ」
「そんなわけない」
あの鬼気迫る表情が、唸るような声音が、俺にはっきりと伝えていた。俺の事を憎々しく思っていることは、痛いほど伝わってきた。
けれど戸倉さんは、きっぱりとした口調で続けた。
「いいえ。武仁さんは白樺さんを傷つけたくなかったはずです。白樺さんが飲まされたのは、ただのサプリだったんですから」
は、と俺は目を見開く。
「クワルツさんが言ってました。薬物は脳の構造も変えてしまうものだし、錯乱している時の事を真に受けちゃ駄目だって」
声を聞いている内に、体の強ばりが少しずつ解けてくる。
「白樺さん、武仁さんは後悔してますよ、きっと」
「……いつ会えるかな」
声は自然と漏れた。
「薬が抜けるまで、一ヶ月以上は様子見だそうだ。ただ既に幻覚やら離脱症状が出ているから、相当に服用を我慢していたんだと」
早く会えるかもな、とジェイドさんが微笑む。
目頭がぐっと熱くなって、慌てて目を閉じた。不安が僅かに引いていく。
「よかった」
そうだ、武仁は友達じゃなくて仲間だ。仲間なら絶交しなくたっていい。いつか会えるその時を信じて待てばいい。
関係を崩すのは、もう少し保留にすればいいのだ。
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